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「⋯⋯うぅ⋯⋯」
静寂を破ったのは、微かな呻き声だった。
その声に、時也は息を呑む。
寝台の上で眠っていた男の睫毛が
黒い羽のように震え、揺れた。
まるで深い夢から浮上するように
時間をかけて──
ゆっくりと、その瞳が開かれた。
目を開いた男の双眸は
まるで深海を湛えたようなアースブルー。
光を受けてもなお
どこか濡れたような陰りを残しており
その視線は、まっすぐに時也を捉えていた。
だがそこにあったのは、敵意ではなかった。
どちらかと言えば──怯え。
警戒心と混乱が入り混じる心の色。
時也は、なるべくその警戒を和らげようと
声の端に優しさを含ませる。
「⋯⋯ご気分は、如何ですか?」
男は瞳を瞬かせ、時也の顔をじっと見つめた。
「⋯⋯あなた、は?」
その問いは、ただ純粋な疑問のように響いた。
だが、次の瞬間──
時也の意識の奥に、重く黒い声が響いた。
(櫻塚時也、櫻塚時也、櫻塚時也、
櫻塚時也⋯⋯っ!)
呼び名は、怨嗟の籠もった鋭い声。
それは心の奥底
男の内面から漏れ出すものだった。
読心術によって、時也はそれに気付いた。
だが──
顔には怨嗟など、出ていなかった。
男は、怯えたような表情を保ったまま
ただ不安げに見つめてくるだけ。
その乖離に、時也は慎重に言葉を紡ぐ。
「⋯⋯なぜ、僕の名前を?」
男は、驚いたように目を見開いた。
「名前?
私は何も⋯⋯いえ、もしかして貴方が──
櫻塚時也、さん⋯ですか?」
「⋯⋯はい」
時也が頷くと、男は俯き
まるで罪を告白するように
伏し目がちに続けた。
「信じて貰えないかもしれませんが⋯⋯
私の〝今世の自分〟が
貴方を知っているようで⋯⋯。
私の中で、ずっと
貴方の名前を叫んでいるのです」
その言葉に、時也の表情が僅かに強張る。
「⋯⋯今世の、貴方⋯⋯ですか?」
男は、息を呑むように答えた。
「私は⋯⋯ライエル、と申します」
名乗られたその名に
時也の眉が僅かに揺れる。
彼の中で一斉に思い出される記憶が
心の声となり時也に流れ込できていた。
──ライエル。
記憶を司る魔女の一族にして
魔女の輪廻を導く者。
魔女たちは
みな、前世の記憶を持たずに生まれ変わる。
魔女たちが使命を全うするためにも
記憶の魔女だけは
前世の記憶を引き継いで産まれる。
彼らは、記憶の断片を繋ぎ
真の自分を思い出させる
〝案内人〟であった。
魔女たちの輪廻は
不死鳥の産まれ直し──
五百年に一度の
神の再生の儀式のためにある。
光の神である不死鳥は
産まれ直さなければ闇を抱え続け
やがて世界を蝕む存在となる。
しかし、今の不死鳥は再生を拒み
絶望を喰らい、力を増し続けていた。
ライエルもまた、五百年前の儀式の直前──
不死鳥の炎によって狩られた。
あれは
記憶の魔女が初めて
〝消された〟瞬間だった。
その衝撃は魂の輪廻にも歪みを残し
次の生には完全な記憶が継承されなかった。
──そうして生まれたのが
〝アライン・ゼーリヒカイト〟
前世の記憶も曖昧なままに
転生者として異能と共に目覚めたアラインは
己の空白を埋めるために手段を選ばず
破滅の道を歩いた。
だが、彼が時也とアリアに敗れ
アリアの高熱によって焼かれ続けた時──
再生するたびに
その肉体の時間は胚まで巻き戻され
やがて前世の姿へと還ってしまった。
その果てに
アリアの胎内にて〝生まれ直された〟存在。
それが──この眼前の男。
ライエル。
その肉体には
前世の記憶を抱く魔女〝ライエル〟と
今世の罪を背負った男〝アライン〟 が
同居していた。
宿命の歪みが生み落とした
〝二つの魂の器〟
時也はその事実を、読み取っていた。
そして今
その瞳の奥で、ライエルが告げる。
「⋯⋯私の中には、確かにもう一人──
貴方を⋯⋯憎んでいる者が、居るのです」
そう言ったその顔は
決して憎しみに染まってなどいなかった。
ただ
哀しげに、弱々しく、震えていた。
まるで
その感情が〝自分のものではない〟と
誰よりも知っているかのように。
「⋯⋯二重人格のような状態⋯⋯
という事ですか」
時也の問いは、慎重に言葉を選びながらも
確かな核心を突いていた。
目の前の青年──ライエルと名乗った男は
その言葉に一度だけ目を伏せ
乾いた笑みを浮かべた。
「簡単に言えば⋯⋯そういう事、ですかね」
どこか他人事のように返される言葉。
しかし
その語調は他人のことを語るようでいて
確かに〝己の内側〟を指していた。
そうでなければ、あの矛盾──
胸中では憎悪を吐きながらも
顔には怯えた表情を浮かべるという
理不尽な乖離には説明がつかない。
今やっと、時也はそれに納得した。
「彼は⋯⋯僕を恨んでいるんですね」
呟いたその瞬間だった。
目の前の青年の表情が──
突如として、捻れた。
口元に浮かぶのは
皮肉と嗤いを交えた歪な冷笑。
あれほど繊細に揺れていた瞳には
もはや恐れも迷いも見えなかった。
「ボクを殺したことは⋯⋯別にいいよ」
その声音は
先程までのライエルのものではなかった。
柔らかで、臆したような雰囲気も
すっかり消え失せている。
代わりに
どこか艶めいた低さと
毒を含んだ感情の鋭さが混じっていた。
「ただね⋯⋯
ずっとキミには
してやられてばかりだったのが悔しいのさ」
その言葉に、時也は即座に悟った。
──これは、アラインだ。
今世の記憶の魔女。
アリアを苦しめ、穢し
己の欲望のままに行動し続けた男。
その壮年の男が
若き肉体の中に息を吹き返していた。
笑みの張りついたその顔は
ライエルの面影を纏っていながらも
醸し出す空気は全くの別物だった。
そして、何よりも──
アリアを陵辱した時に
時也の心にまで焼きついた
〝あの視線〟と同じだった。
背筋が、ぞくりと冷たくなる。
怒りというより
身体が無意識に反応するほどの
嫌悪感だった。
だが──
時也は、微笑まなかった。
怒りを飲み込む代わりに
はっきりと言葉を返した。
「あぁ、同感ですよ」
低く、淡々とした語調。
「アリアさんが自ら手を下した事です
そこは譲歩しましょう。
だが〝俺〟もお前に──
彼女の尊厳を踏み躙られたことは
悔しくて堪らない」
その言葉には、静かに
しかし確かな怒気が宿っていた。
それは
感情を爆発させるような激しさではなく
魂の奥底から煮え滾るような
燃え尽きぬ怨念。
「⋯⋯俺が、殺してやりたかった」
呟いた声には、微かな震えがあった。
それは憎しみの震えでも
悲しみの震えでもなかった。
彼女を〝守れなかった〟という
悔しさの震えだった。
時也はそのまま
ライエルの顔をしたアラインを
まっすぐに睨みつけた。
唇は噛み締められ
白くなった指先が
膝に沈むほど力を込めている。
部屋に流れる空気が
ピンと張り詰めた糸のように緊迫していた。
それでも、まだ──刃は抜かれなかった。
時也は、感情を殺しながら
ただその瞳で、相手の内側に潜む
〝敵意〟を見極めていた。