夕飯を終えた後、隼人はソファに腰を下ろし、カップに注いだコーヒーをすする。
部屋は暖かく、静かだった。
いつものように、ちょびがソファの肘掛けに前足を乗せ、隼人の横でくつろいでいる。
テレビからはバラエティ番組の賑やかな音が流れていたが、二人の間には穏やかな沈黙が流れていた。
「母さん、今日は静かだな」
そう声をかけても、ちょびは微かに尻尾を揺らすだけだった。
珍しく口を挟んでこない。
隼人はなんとなく、ちょびの頭を撫でた。柔らかな毛の感触が手のひらに馴染む。
「なんだ、黙ってると普通の猫じゃないか」
冗談めかしてそう言った瞬間、ちょびがゆっくりとこちらを見上げた。
その目が、どこか寂しそうに感じたのは気のせいだろうか。
「ねえ、隼人」
「……なんだよ、急に」
「そろそろ行かないといけないわ」
その言葉に、隼人の手が止まる。
「どこに?」
「どこかはわからないけど……あの世?」
ちょびは静かに目を細めた。
「私、本当はもうずっと前に行かなきゃいけなかったのよ。でもあんたが心配で残ってたの」
「……心配って、今さら何だよ」
隼人はソファの背にもたれかかり、天井を見上げる。
「だってさ、母さんが猫になってくれたおかげで俺は……まあ、前よりちゃんとした生活ができてるしさ。だから、もうちょっといてくれてもいいんだぞ」
軽く笑いながらそう言ったが、ちょびは「ダメよ」と首を振った。
「それじゃあ、あんたがいつまでたっても一人立ちできないじゃない」
隼人は口を開きかけたが、何も言えなかった。
「ちゃんとできるようになったでしょ?だったら、もう大丈夫よ。あとはそうね……良いお嫁さんに躾けてもらいなさいよ」
隼人は無言のまま、膝の上にいたちょびをそっと抱き上げた。
「……なんだよ躾けるって、俺が猫かよ。……行かなくていいよ」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「行かなくていい。母さんがいたら、俺は楽だから」
そう言い終えたとき、自分の情けなさが嫌というほど身にしみた。
30にもなって、一人で暮らすこともまともにできず、母親の存在に甘えている。
それでも——
「母さんがいないと……また元に戻っちまうかもしれないし」
そう言葉を重ねると、ちょびは静かに喉を鳴らした。
「大丈夫よ」
優しい声だった。
「隼人なら、もう元には戻らないわ」
***
その夜、隼人はいつものようにソファに座り、テレビを見ていた。
膝の上にはちょびが丸くなっている。
少し重たいが、その温もりが心地よかった。
「母さん、ほんとに行くのか」
ちょびは微かに尻尾を揺らす。
「行くわよ」
「……そうか」
隼人は猫の背を撫でながら、しばらく無言でその感触を確かめるようにしていた。
「……ありがとな」
それだけをつぶやくと、ちょびは小さく「にゃあ」と鳴いた。
「おやすみ、隼人」
「おやすみ」
ちょびは静かに目を閉じ、隼人の膝の上で眠りについた。
部屋には穏やかな夜の空気が流れていた。
***
朝、カーテンの隙間から差し込む光で隼人は目を覚ました。
「ん……」
寝落ちしてしまったことに気づき、肩を回して体をほぐす。
膝の上には、ちょびが丸まったまま寝ていた。
「おい、朝だぞ」
隼人が声をかけると、ちょびはゆっくりと顔を上げた。
「……母さん?」
ちょびは「にゃあ」と鳴いた。
ただの猫の声だった。
そのまま伸びをし、隼人の膝からするりと下りる。
「……そっか」
隼人はぼんやりとちょびの後ろ姿を見つめた。
その声が、以前のように人間の言葉を紡ぐことはなかった。
ちょびは小さな体を揺らしながら、陽の差し込む窓辺で再び丸くなる。
いつもと同じ猫だった。
「逝ったんだな……」
母は、もうどこかへ行ってしまったのだ。
それを理解すると、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚が広がる。
「……ありがとな」
静かにそう言いながら、隼人はちょびの頭を優しく撫でた。
柔らかな毛が指に絡みつく。
それでも、心の中には確かな温かさが残っていた。
「母さん、俺……ちゃんとやるよ」
隼人は立ち上がり、散らかっていた部屋を片付け始めた。
気づけば、カーテンの向こうには暖かな朝日が差し込んでいた。
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