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(……なんだ?何が起こったんだ……?)
紫雨は状況を把握するのに、数秒を要した。
どちらかと言うと潔癖な方なのに、今、自分は現場の木屑の粉が飛び散った床の上に仰向けに倒れ、その上には花柄のワンピースの女がどっかりと乗っている。
(……ああ、そうか)
あまりの衝撃に一瞬とんだ記憶が蘇る。
現場に入り、框に上ってから、夫人用にスリッパを出すためにしゃがんだところで押し倒されたのだ。
かろうじて肘をついた紫雨は少しだけ頭を起こした状態で夫人と向かい合った。
「……紫雨さん、私、感動しました」
状況に対してえらく場違いな言葉を夫人は口にした。
「家は鎹。まったくその通りだと思います。現に私たち、夫婦関係は元から冷めてましたが、彼が親から譲られた家を建て直すって言いだしてから、確かに私たちの間には会話が増え、二人で展示場を回っている時間は、結婚前より新婚の時より、それはもう充実した時間でした」
言葉とそぐわないことをしながら、夫人は紫雨を見下ろした。
「楽しかった。主人とデートをしているみたいで。どのメーカーの家を見ても、豪華な展示場の作りが、すべて実現できるほど、自分の夫の経済力は高いのだと思うと、私、初めて主人を好きになることが出来ました」
主人に恋をしているはずの夫人は今、自分という独身男性を、二人きりの薄暗い構造現場で押し倒している。
耳に入る情報と、肌で感じる状況の違いに、脳が混乱する。
「……それなのに。あなたが悪いんですよ……?」
肩のあたりを抑えていた夫人の手が紫雨の膝上に当てられた。
「あなたが私の心を奪うから……」
(………何を言ってんだ、この女……)
理解できないうちに、その手は紫雨の太腿を滑り、上がっていく。
「あなたを見た瞬間、私は、夫のことも、新しいお家のことも、夫の経済力ですら、どうでもよくなってしまったんです」
その手が足の付け根で止まる。
「もちろん、私だって馬鹿な女じゃありませんから?」
夫人の切れ長の目が、紫雨を至近距離で見つめる。
「ここであなたに乗り換えるなんてことは考えていませんのよ」
その手がいよいよ紫雨の股間に触れる。
眼球の奥が震える。
「簡単に言えば。あなた次第なんです」
言いながらも夫人の手は、スラックスの上から愛おしそうに紫雨の股間のふくらみを撫でている。
夫人の真っ赤な唇が、目の前に迫る。
「セゾンさんは、棟当たりで給料とボーナスが違うそうですね?」
指がカタチを確かめるように滑る。全身に鳥肌が立ち、腰が浮く。
何も答えられずに硬直している紫雨の頬に、夫人は触れるばかりのキスをした。
鼻からきつい香水の匂いが入ってくる。
『秀樹、いい子ね』
どこからか声が聞こえてくる。
夫人の顔が醜く歪む。
紫雨の体は動かなくなった。
いつかと同じように……。
夫人は嬉しそうに身体を滑らせ紫雨のベルトに手を掛ける。
『……やだ。やめて……』
誰かの声が聞こえる。
『だ、誰か、助けて……』
泣き声の合間に、ベルトがカチャカチャと外されていく音を聞きながら、紫雨はほとんど動けなくなった体の中で唯一動いた顎を上にあげた。
夫人の背後に、アカマツで出来た梁が見える。
柱と共に、セゾンが世界に誇る太くて丈夫な梁が。
『……杉は真っ直ぐ伸びるだろ。だから柱に向いてるんだ。松は横に伸びるから、梁に使われるんだとさ』
そう自分に教えてくれたのは誰だっただろう。
あ、そうだ。
自分より数ヶ月先に入社したというだけで威張っていた、あれは……。
篠崎岬だった……。
「…………」
途端にあのすかした顔を思い出す。
『いくら興味がなくても知識は幅広く取得してたほうがいい。どんな客がどんな関心を引っ提げてくるかは誰にもわかんないんだから』
……あんたに言われなくてもわかってるよ。だから休日にわざわざ、興味のないインテリアショップにも足を運んでんだろうが。
『自分の金銭感覚と客のを一緒にすんなよ。予算てのは、お前が考えている以上に大事なポイントだぞ』
……馬鹿かよ。客ってのは1円でも安くしようとすんだよ。良いものを勧めて何が悪い。
『紫雨。お前は知識とトークは持ってるんだから』
……うっせえな。えらそうに。
『もう少し客のこと考えたらもっと売れるだろ』
……考えてんだろうが。豚にも猿にも家が買えるように!
『客がその家に住んだ時の幸せを想像すんだよ』
……どうでもいいんだよ!人の幸せなんか!!
『勿体ないよ、お前』
………っ!!!
気が付けば、夫人が框から落ち、ワンピースの裾を翻しながら尻餅をついていた。
「…………あ」
どうやら自分が蹴り飛ばしたらしい夫人は、パンツ丸見えの状態で、白い脚を晒しながら仰向けに倒れていた。
「も、申し訳ございません……!」
何が起こったのか、自分が悪かったのか、夫人が悪かったのか、頭が回らないまま、引き起こすべく彼女に手を差し出す。
だが夫人は真っ赤な唇を真一文字に結ぶと、きっと紫雨を睨み、傍らに転がっていたハンドバックを手繰り寄せ、玄関ドアを乱暴に開け放つと外に出ていってしまった。
彼女がどうやって時庭展示場まで帰るのか、そんなことは考えられなかった。
ゆっくりと自分を見下ろすと、外されたベルトが目に入った。
それを無心で直していると、足がよろけ、紫雨は再び現場の汚い床に転がった。
今度は肘もつかずに寝転がる。紫雨のサラサラの髪の毛が重力に従って木屑にまみれた床につく。そういえば、ヘルメットをしていなかった。
「……だから、女は嫌いなんだよ……」
その目から一筋、涙が伝い、これも木屑の中に溶けていった。