寝室の脇を抜け、ホールに出ると、坂月が紫雨の襟元を掴み上げていた。
「今なんて言った!?」
「だから、奥様と警察に行かれてはいかがですかって言ったんですよ。こちらはいくらでも応じますから。この際、はっきりさせるのはいかがですか?」
紫雨は動じることなく、親子ほども年の差がのある坂月を冷静に見つめている。
「私は、坂月様の奥様に変なことはしていません。下心も一切ありません。奥様から真逆のことをされ、拒否しただけです」
自分の襟元を締め上げている指にそっと手を添える。
「まあ、突然のことでしたし、随分乱暴な手段に出られたので、こちらも丁重にお断りすることが出来ず、それこそ“死に物狂い”な方法をとってしまい、奥様のスカートが破れてしまったのかもしれませんが」
由樹は拳を握った。
(きっと紫雨さんが言っていることは真実だ。あの夫人、初めから目つきがおかしかった……!)
由樹は物陰から2人を見守った。
(それに、紫雨さんは……)
「うちの妻が貴様を誘惑したと?」
「そうです」
淀みなく答える紫雨に、坂月の空気が変わってきた。
「私はこの仕事をして、もうすぐ10年になります。ハウスメーカーという職業に誇りを持っております。その間一度たりとも、お客様にそのような無礼な振る舞いをしたことはありません」
「…………」
坂月は手を離さないまま、堂々とした紫雨の若く端正な顔を睨み上げた。
(坂月様も、引きどころがわからないんだ…)
きっと彼も、すでに紫雨が嘘を言っていないことに勘づいている。
そして自分の妻が嘘を言ったことにも気づいている。
しかし、彼が築き上げてきた地位が、その年で若く美しい妻を手に入れたプライドが、簡単にはそれを許さない。
「開き直るつもりか!この若造が!」
右手を握る。
紫雨は抵抗も、逃げることもせず、目を閉じた。
(くそ……!なんで俺が……!)
紫雨は瞼をきつく瞑った。
頬骨に男の拳がぶつかる音がした。
身体がよろけ、後ろに倒れる。
「ぐっ……」
すぐ背後にあった螺旋階段に強かに背中を打ち付け、紫雨はうめき声を出した。
……背骨が痛い。
しかし、殴られたはずの左頬は全く痛みを感じなかった。
瞼を開ける。
目の前には若く健康的な髪が揺れていて、男物のシャンプーの匂いがした。
「……君、何してんの……」
自分を庇って代わりに殴られた新谷は、すぐに体勢を立て直すと、紫雨の前で膝を立てた。
「……変な言いがかりをつけるのはやめてもらっていいですか」
新谷は坂月を睨み上げた。
それは、今まで、自分が彼にしてきた卑劣な行為の時には見せなかった覇気を含んでいて、斜め後ろから見ていた紫雨も思わず目を見開いた。
「この人は、女なんかに興味はないんです。あなたがどんなに奥様の容姿に自信があるのかは知りませんが、俺たちにとっては、そこら辺の女と変わらない。気持ち悪くて、やたらとうるさくて、化粧臭いだけの、ただの女だ」
「……何だと?何を訳のわからないことを…」
坂月の眉間に皺が寄る。
「勘が悪いですね。俺たちは同性愛者だって言ってんですよ」
新谷が口の端を釣り上げて笑う。
その唇から滲んだ血が、彼の顎を伝う。
「何をふざけたことを……」
坂月が言い終わらないうちに、新谷はこちらを振り返ると、散々掴み上げられたことで、痕が付いてしまった紫雨のスーツの襟元を掴み、自分に引き寄せた。
「…………!」
彼の血の滲んだ唇が、紫雨の口に押し当てられる。
と同時にヌルッと細い舌が入り込み、頭を包まれる。
「………っ」
血の味が入り込んでくる。
跨ぐように乗ってきた彼の太腿が、プルプルプルプル震えている。
(……こいつ……)
「……いい加減にしろ!!」
坂月が新谷の肩を掴んだ。
「気色の悪いものを見せやがって!!」
しかし新谷はその華奢な体でその手を思い切り振り払った。
「気色悪いのはあんたらの方だ!!」
そして立ち上がると、坂月を睨み上げた。
「あんたも!浮気性の奥さんも!二度と俺の男に手を出すな!!」
「…………」
坂月の顔が真っ赤に染まっていく。
「あの……」
その時、背後から声がした。
「僕が、奥様からの電話を取りました」
そこには泣きそうな顔をした、林が立っていた。
「奥様は僕に、“主人の予定が合わなくなったから、現場見学会には、自分一人で行きたい”と、伝言されました」
「………ッ!」
坂月の顔が再び赤く染まる。
「その後折り返した紫雨さんが、“日程を改めて組み直しますか?”と提案しているのも、この耳で聞いています」
彼はフンと鼻を鳴らすと、革靴につま先を入れた。
なかなか入らない浮腫んだ足にイラつきながら、傍らに掛けてあった靴ベラを使って何とか押し込み、それを框に投げつけた。
「こんなゲイやらホモやらが蔓延る気色の悪いメーカーからなんて、誰が買うか!」
言いながら苛立たし気に、ゆっくり開こうとする自動ドアを両手でこじ開けながら、坂月は展示場を後にした。
展示場には、
「…………」
階段に座ったままの紫雨と、
「…………」
廊下で直立不動で立っている林と、
「…………」
ふんぞり返りながらも膝をガクガクと震わせている由樹が残った。
「………ぷっ!」
一番初めに吹き出したのは、紫雨だった。
「あははははは!!」
彼は、腹を抱えながら階段にもたれ掛かるようにして笑い始めた。
つられて林も肩を震わせながら吹き出す。
由樹は2人が笑うを交互に見て、大きくため息をつきながらその場に座り込んだ。
と、ひとしきり笑った紫雨が急に真顔になり、目を見開いて由樹を見つめた。
展示場の屋根裏まで届くような声で、紫雨は叫んだ。
「何あれ?何だよ!あれ?!おっさん切れると何するかわかんなくて怖いよ!俺、殺されるかと思ったあああああ!」
なおも紫雨の叫び声は続いた。
林が初めて見せた上司の取り乱した姿に驚いて目を大きくしている。
(……あんなに気丈に振舞っていたのに)
由樹も力が抜けて、そのまま後ろに尻をつけて足を投げ出した。
腹の底から笑いが込み上げてくる。
ヒイヒイ言いながら笑い転げる紫雨と一緒に由樹も笑った。
やがて笑い転げる2人を見ながら、林も、呆れたように笑い始めた。
由樹は目じりに涙を溜めて笑う、天賀谷展示場の若きエースを見つめ、そしてその後、泣きそうになりながらも助けに来た先輩を見つめた。
なんとか、この展示場でもやっていけそうな気がしてきた。
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