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丸1日休んで、どうにかこうにか歩けるようにはなった。
首と胸の傷も服を脱がなければバレない。
しかし――――。
「……ここかぁ」
紫雨はマンションの自室で、クローゼットの姿見鏡に映る自分を見た。
頬に赤紫色の痣ができている。
シューズクロークに押し付けられた時に打ち付けたのだろう。
他の痛みが激しくて、ここまで強く打撃を受けたとは思ってなかった。
「……やべえな」
大判の肌色の傷パットを貼り付ける。
なんとか隠れるが、こんな頬一面に傷パットを貼っているのは不自然だ。
「暮らしの体験会あんのに」
この顔を見て、篠崎は何というだろう。
篠崎の“難しい客”はどう思うだろう。
それを考えると、紫雨は痛む背骨あたりからゾワゾワと鳥肌が立った。
(げ。いるよ今日に限って)
事務所のドアを開けた紫雨は、
「おはようございます!」
いつもの2倍声を張り上げながら、一礼した。
「あ、おっはよー」
支部長である秋山は自分の席からちらりと視線を上げたもののすぐに視線をデスクに戻した。
(よかった。気づかれてない)
そそくさと靴をスリッパに履き替え、シューズクロークにそれを入れようとしたところで、ホワイトボードに予定を書き込もうとしている林と目が合った。
「おはようございます……」
林の目が紫雨の頬に注がれる。
(ばかっ!)
思わず、唇に人差し指を押し付けると、林はそれを見て、少し目を細めたあと小さく頷いた。
窓側の自席につき、パソコンを開く。
「紫雨マネージャー」
秋山がデスクの資料から目を離さないまま呟くように言った。
いつもこの人の声は低く、小さい。
身体が小柄だからなのか、それとも常に省エネ運転なのかはわからないが、神経を研ぎ澄ましていないと聞き漏らしてしまうほどだ。
「あ、はい!」
顔を上げると、彼はまだ資料から目を離さないまま言った。
「明日の夜から八尾首市に行くの?」
「あ、そうです。暮らしの体験会、篠崎マネージャーのサポートで。俺と林が……」
「ふーん」
秋山は視線をそのままに口元だけ綻ばせた。
「ホテルなんか取らないで、篠崎君の家に押しかけちゃえばよかったのに。滅多にない機会なのになぁ」
「…………」
(何を言い出したんだ、この人は……)
紫雨はこの小柄な支部長の意図がわからず首を傾げた。
(というか、この人はどこまで知ってるんだ…?)
いや、秋山だけではない。
紫雨以外、篠崎と新谷の関係を本当に知っている人間はどれほどいるのだろう。
飯川―――は知らない気がする。林は?室井は?
「……やめときますよ。嫉妬深い恋人に刺されたくはないんでね」
探りを入れてみると、ぴくりと反応したのは林だけだった。
秋山はフフフと笑った。
「それは大丈夫でしょう。だって、篠崎君は新谷君とルームシェアしてるくらいだから」
「……は?」
「あ、知らなかった?二人でルームシェアしてるんだよ。仲いいよねー」
「…………」
胸に重い石を投げ込まれたような、いや、むしろ胃袋だか肝臓だか、そこら辺の体の中心に近い臓器が丸ごと石になってしまったような感覚に陥り、紫雨はデスクに手をついた。
大して溜まってもいない唾液が、口内の端から流れ込んで喉につまり、思わずむせりそうになって慌てて無理矢理飲み込んだ。
「へえ、それは知らなかったですね」
言いながら立ち上がったばかりのパソコンに指を走らせる。
叩くキーボードは適当だ。
(……そうか。そうだよな)
なぜか想像できてなかった二人の同棲にクラクラと視界が揺れる。霞む。
『SHIAWASESOUDE NANIYORI』
意味のない文字列を落ち込む。
システムが立ち上がらないうちに押し続けたせいでパソコンは困惑し、画面はフリーズしている。
「…………」
Tシャツに短パンのラフな姿の二人が、並んでベッドで寝転んでいるのを想像する。
「…………」
『KUTABAREYO KUSOYAROUDOMO』
フリーズしていたシステムが、やっと動き出し、
ジジジジジジジジジジジジジ。
紫雨がでたらめな文字を打った数のエラー音が事務所に響いた。
「大丈夫ぅ?」
秋山が顔を上げて、こちらを見る。
「ははは、大丈夫ですよ。なんかパソコンが起動しないうちにいろいろ弄ったのでエラーが……」
笑うと、秋山は微笑んだ。
「ごめんね、動揺させちゃったかな」
「…………」
たまにこう思うことがある。
この人、ろくに展示場にいないくせして、なんでここまで状況把握をしてんの?!
それは業務的な事柄は勿論、こちらの心の中も、さらにはプライベートに至るまで、だ。
なぜかすべて、筒抜けな気がする。
(まさか盗聴器?)
紫雨は思わず、デスクの裏をバレないように手で撫でた。
「ところで紫雨君」
「あ、はい!」
びくりと反応する。
「君、頬、どうしたの?」
興味なさそうに仕事をしていた飯川も、マウスを忙しそうに操作していた室井も、他の老輩たちも、顔を上げて紫雨を見る。
「あ、えっと、実は一昨日、酔っ払って、玄関で転びまして」
“嘘をつくときは事実を混ぜて”
そう教えてくれたのは誰だったろうか。
紫雨は笑いながら、傷パットを撫でた。
「プライベートのことまでとやかく言いたくはないけど、君はもうマネージャーという肩書があるんだから、ほどほどにね」
秋山は視線を資料に戻した。
『楽しもうぜ。セゾンエスペース、天賀谷展示場、マネージャーの紫雨さん?』
男の声が蘇る。
そう言えばあいつに身バレしたのだった。
(まさか、ここに来るなんてこと、ねぇよな……?)
胸に一抹の不安を覚えながら、紫雨は小さくため息をついた。
皆の顔が各々の業務に戻っていく中で、
林だけが紫雨を見つめていた。
新谷由樹から電話がかかってきたのは、その日の午後だった。
展示場経由ではなく紫雨の携帯電話に直接かけてくるところが可愛い。
紫雨は臀部の痛みも忘れ、そそくさと立ち上がると携帯電話を持って、無人の展示場に入っていった。
『お忙しいところ、すみません』
久しぶりに聞くその声に、鼻の奥が痛くなる。
「忙しくなんてねえけど」
情けないことに嫌味の一つも出てこない。
『明後日も、サポートいただくことになり、すみません』
「別にお前のサポートするわけじゃないんだから謝んなよ。それよりお前、2組もお客さん誘ったの?すごいじゃん」
『あ、いえ。1件は契約済みのお客様なので。実質1件です』
「それでもすげーよ」
『ありがとうございます!!』
声を聴いているだけで、息遣いを感じるだけで、新谷が微笑んでいるのがわかる。
(――そんだけそばにいて、あんだけ長い間一緒にいたのになあ)
思わずため息が漏れ、紫雨はダイニングの壁に身体を凭れかけた。
『?紫雨マネージャー、なんか疲れてますか?』
「なんで?」
『いや、なんとなく。声に元気がないなって』
(……クッソかわいいな。こいつ……)
目の前にいたら襲ってしまうかもしれない。
襲うにしても、紫雨のソレにはまだ一昨日の後遺症が残っているが…。
「何もねえよ。それで?どしたの」
『あ、すみません』
新谷が慌てて続ける。
『明日のホテル、手配してるんですけど、なんかその夜、こっちで花火大会があるみたいで、凄い混んでるんですよ』
「俺は、お前らの家でもいいけど?」
『………え?いや、えっと』
「同棲してんだってなー」
『………………』
意地悪く言ってみると、恥ずかしそうなため息を残して新谷は黙ってしまった。
(そこまで照れるってことは。きっとヤリまくってんだろうな…)
紫雨は鼻で笑った。
「冗談だって。それで?」
『あ、すみません。それで、ホテルは取れたんですけど、当日、車で来るか、車なら何台でくるか教えてほしいってホテル側から電話がありまして―――』
壁に凭れたまま視線を上げ、廻り縁を眺める。
『林さんと一緒に来ますよね?それなら車は1台って答えていいですか?』
「……いや」
紫雨は勢いをつけて壁から離れると、事務所に向けて歩き出した。
「俺、体験会終わったら親戚の家も回るから、車、別で行くわ」
『そうなんですね、わかりました。2台って伝えておきますね!』
「ああ。じゃあな、新谷」
紫雨は通話終了のボタンを押すと、事務所のドアを開けた。
最近受注を決めていないため、建設中の現場も訪問先もない林が、設備カタログから視線を上げる。
「林。明日の夜、天賀谷まで別々に行こうぜ」
「あ、はい」
小さく頷く。
「土曜日のバスが出るのは8時だから。7時展示場集合。遅れんなよ」
「はい」
先程と寸分も変わらない表情で、顎の角度で、声のトーンで、林は頷いた。
(……やっぱり、かわいくない)
紫雨は自席に座り、足を投げ出すと、携帯電話を弄った。
「ふふ……」
着信歴に表示された『新谷由樹』の文字を見ていたら、身体の痛みが少しだけ軽くなったような気がした。