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事務所に戻ると由樹のデスクに誰かが座っていた。
驚いて回り込むと、小松がこちらを睨み上げた。
「え、あ、何かしましたか?」
「何かしましたか、じゃない!初期プランは?」
「あっ!!」
すっかり忘れていた。
昨日ご成約いただいた顧客の情報と、広さ・間取りの希望を、設計課に提出しなければいけなかったのだ。
「ご成約いただいたその日から、90日の打ち合わせ期限は始まっているんだよ。すぐに出せ!」
「はいいいい!!」
由樹は気を付けをし、小松が睨みながら譲ったチェアに慌てて腰かけると、昨日篠崎からもらった用紙を取り出した。
契約書を見ながら、大急ぎで基本情報を書き写していく。
「向井田(むかいだ)さん?」
横から見ていた小松が呟く。
「あ、そうです。向井田華子(はなこ)さんです」
言いながら必死で住所を写す。
初期プランは、名前、住所、電話番号、勤務先などの基本情報に加え、家族構成と、間取りの希望を細かく書かねばならず、だいぶ時間がかかりそうだ。
しかし小松は自分の席に戻ることなく、由樹の横に無言で立っている。
(え、このまま、書き終わるの待ってるつもりかな……)
由樹はおそるおそる顔を上げた。
(………え)
思わず口を開けた。
眼鏡の奥の小さ目が、確かに笑っていた。
「向井田さんか。新谷の一棟目になるお客様だな」
静かに発する声が、胸に染み入る。
「………はい」
言うと、小松は今度は顔中クシャッと皺を寄せて笑った。
「一生忘れられない名前になるぞ」
「あ……」
心が震えた。
胸の奥から熱いものが込み上げて、全身に散るようにはじけた。
「……はいっ!」
台所に寄りかかってコーヒーを飲んでいた篠崎は、それを見てふっと笑った。
◇◇◇◇
「あの、終わったんですけど、一度チェックしていただいてもいいですか?」
夕方、何とか初期プランを書き終わると、由樹は篠崎に添削を頼んだ。
「いいぜ」
言いながら受け取った篠崎は、わざと椅子を寄せ、由樹のひじ掛けに自分の肘をついて身を寄せてきた。
(……この人。わざとか?)
慌てて席を立とうとすると、その腕を掴まれ、椅子に引き戻された。
「おいおい。上司に添削頼んでおいて、どこ行くんだよ」
(……確かに)
大人しく座ると、由樹は篠崎と触れないようにできるだけ左に身体を寄せた。
弱く冷房が効いているとは言え、外観上、窓をたくさん設けている事務所は暑い。
互いに上着を脱ぎ、ワイシャツ一枚しか身に着けていない腕からは、コンマ数秒で体温が伝わってくる。
「…………」
「今は市営住宅にいんのか。金あんのに。本当に逃げるように夫の家を出てきたんだなー」
「……あの」
由樹の声を無視して、さらに身を寄せると、少し斜め右を向いて、今度は頭を由樹の肩に載せてくる。
「……篠崎さん」
「あー、音楽教師な。ぽいぽい。あのロングスカートは、ぽいわ」
「篠崎さん!」
由樹が大きな声を出すと、篠崎はやっと頭を離してこちらを振り返った。
「ん?」
「………セクハラに強い弁護士さん、紹介してください」
一瞬キョトンと見開いた目が、細くなる。
「言うようになったじゃねえか……」
向かって右側の目が光る。
(………げ)
由樹は鳥肌を立てながら逃げようとデスクに手をついた。が、手足が長い分篠崎の方が早かった。
ぐるっと長い脚ををチェアの足に絡ませ、デスクに手をついて逃げ道を塞ぎ、背もたれごと由樹を閉じ込めた。
「……誰か!」
周りを見渡すが、小松は渡辺と打ち合わせ中で展示場内にいるし、仲田は外出中だ。
「えー、やだなぁ。皆さんに平等に仕事回してんだけど。おかしいなぁ?そうですかぁ?」
遠くの席に座わっている猪尾は業者と電話している。
「……お前さ、いい加減ムカつくんだよ」
篠崎が由樹の耳に口を寄せてくる。
「な、なにか気に障ることしましたか。なら、謝るので、離してください……!」
「ゲイだゲイだと言いながら、こんないい男に興味ないとはどういうことだ」
どうやら昨夜の由樹の発言は、このプライドの塊のような男の自尊心を、少なからず傷つけてしまったらしい。
「そ、そんなこと言われたって」
「俺のことが好きだって言え!こら!!」
「……めちゃくちゃですよ!!!」
(……本当に言ったら困るくせに!!)
「……っ!離せ!!」
由樹は思い切り立ち上がった。
「いい加減にしてください!!なんなんですか、あんたは!!」
突き飛ばされてリクライニングチェアに仰け反った篠崎は笑いながら由樹を見上げた。
「はは!怒んなよ。可愛いんだもん、お前」
ケラケラと笑っている。
(………この……!!)
「あれー?バトルすかー?」
電話を終えたらしい猪尾が端の席から叫ぶ。
「俺、篠崎さんに一票。あ、いや、穴狙って新谷君にしようかなー」
「おいおい、大穴すぎるだろ」
篠崎は、目じりの涙を拭うと、顔を真っ赤にして怒っている由樹を見て、やっと笑うのをやめた。
「悪い悪い、怒んなって。ほら、仕事の話に戻ろうぜ」
言いながら初期プランを由樹のデスクに置く。
「まず、希望間取りのところは、広さだけじゃなくて、洋室か和室かも書くこと。トイレは1階だけじゃなくて2階にもほしいのか、それも書く。LDKは独立がいいのか、ワンフロアでいいのか、和室は続きがいいのか壁を挟んだ方がいいのか。バルコニーの要不要、階段には踊り場は欲しいか、ウォークインクローゼットはいるかいらないか。今の時点でわかってる限り、ここに箇条書きでいいから書いとけよ」
急にペラペラと話し出すと、白い余白の残る希望間取りの欄を指さした。
「ちなみに」
篠崎はデスクの引き出しを開くと、自分の書いた初期プランを由樹のデスクに置いた。
「俺が書いた今日の客」
まだ契約も貰っていないうちから書いているのか。
由樹はその紙を覗き込んだ。
希望間取りのところだけではなく、基本情報の欄から、篠崎の初期プランは真っ黒に埋まっていた。
勤め先の会社の部署名、役職名、内線番号まで書かれているし、本人、家族の誕生日や、それぞれの携帯番号、日中連絡が繋がりやすい時間帯、別居の家族の名前と年齢までこと細やかに書かれている。
「す、すごい……」
「まあ、ここまで書かなくても十分だけどな」
感心して目を見開いた由樹に、篠崎が微笑む。
「……あ」
由樹は怒りも忘れて初期プランを読みながら思わず呟いた。
「どうした?」
「あのお祖母さん、娘さんたちと一緒に住んではないんですね」
「ああ、そうらしい。長男夫婦と一緒に住んでるんだと」
「お兄さん……ですか…」
由樹はさきほどリビングで見た老婆の笑顔を思いだして、小さく息をついた。
「どれ。早く終わらせろ。暗くなる前に行くぞ」
篠崎は、由樹の手から自分が書いた初期プランを取り上げた。
「行くってどこにですか?」
「決まってんだろ」
篠崎は自分のデスクにそれをしまいながらにやりと笑った。
「デートだよ」