バケツの水をひっくり返したよう雨だ。降り続く滴の音を聞きながら、琴子は悶々としていた。
22時を回り浅倉は退社し、狭間は「署長に連絡してくる」と言い残してから、15分ほど戻ってきていない。
室内には琴子と壱道の二人きりだ。
留守番電話の音声データをパソコンに落とし、繰り返し再生している。
メモで見たときには伝わらなかった緊迫した空気が伝わってくる。
小綺麗で中性的な魅力のある顔にしては意外なほど低く、男らしい声をしている。
あれ。なんだろう。何度も聞いてると、何か違和感が。
「どう思う」
パソコンから目を離さないまま壱道が口を開いた。
その声は相変わらずガラガラで、聞いていて痛々しいほどだ。
「成瀬さん。肺炎治ってないのにそんなに仕事して平気ですか」
なぜか睨まれる。
「そんなのどうでもいいから、俺の質問にさっさと答えろ」
「あ、はい」
焦ってつい立ち上がる。
「見た目に反して低く男らしい声だな、と」
「…おい。俺はお前の友達か?誰が感想を言えと言った」
「す、すみません」硬直する。
「発声の仕方、言葉の選び方、背後の音や気配、その他全般において、不自然な点はないかと聞いている」
「申し訳ありません。捜査なんて初めてで」
盛大なため息をついたあと、壱道が話始める。
「俺は、何もわからない、経験のない素人目に、一縷の望みを託して聞いている」
そういうことか。なら気がついたことを何でも言っていこう。
「気づいたってわけじゃないんですけど」
「何だ」
「先ほどの杉本鞠江さんに対してなんですけど、狭間課長も壱道さんも、結構きつい態度なんだな、って素人目には衝撃的でした」
「…俺の話を聞いてたか」
「情報提供者に対してああいう態度をとるのって普通ですか」
壱道が立ち上がり前に来る。
「いいか。狭間が意識的にやってたかは怪しいが」課長を呼び捨てである。
「あの手の女は感情的になったほうが、『言う予定じゃなかった』ことまで勢いで話す傾向が強い。狭間の態度が間違ったとは言えない。ただ、今回は不発に終わったが」
「・・・私、警察学校の講義では、取調室で犯人を落とすときは、犯人の人格を否定してはいけないと習いましたけど」
「否定するわけじゃないが」
と前置きしてから、
「俺の経験上、講義が実際の捜査に役立ったことは、ただの一度もない」
この上ないほど否定している言葉を吐いた。
「それに」マスクを顎までずらすと微かに病院のような消毒の香りがする。
「俺たちの仕事は関係者の気持ちに寄り添うことでも、友好的な関係を築くことでもなく、真相の解明に尽きる」
目つきだけ見ると、どこぞのマフィアのような悪人面だが、顔全体が見えると、意外と整った顔をしている。
「仲良しごっこがしたいなら、保育士か介護福祉士にでも転職しろ」
だが長い前髪の向こうにある鋭い目は少しも笑っていない。
「これ以上、俺を失望させるな」
その左右の瞳を交互に見てから、
「失礼ですが、どこかで会ったことあります?」
「また訳のわからないことを」
「失望というのは、望を持っていた相手に使う言葉ですよ。今日が初対面の相手にはあまり使わないと思うんですけど」
黙っている壱道。感情が読み取れない。
「それに私は、『お前』じゃなく、木下です」
言ってから気づいた。
……あ、そうか。わかった。
琴子は慌てて壱道の脇をすり抜けると、勝手にパソコンの前に座り、音声を巻き戻した。
『突然こんな電話をしてすまない。僕はもうーーー』
「これ、変です」
先程までのわだかまりも忘れ、興奮してまくし立てる。
「いいですか。例えば、私が成瀬さんに電話をかけたとします。留守電でした、メッセージを入れます。・・・・
『もしもし、木下です。昨日はお疲れさまでした。またお電話します』
こんな感じです。
あとは、そうだな、例えば友達に久々に電話をかけたとします。
その時でも
『もしもし、琴子です。久しぶり!近々みんなで集まろうって話してて、また連絡するね!』
つまり電話をかけて、相手が出ずに留守番電話になる場合でも、つい言いますよね。
『もしもし』。
それと相手が身内やごく親しい人じゃなければこれも言うはずです。
『自分の名前』」
「……それで?」その目にほんの少し興味が宿る。
「その音声って本当に『電話』だったんでしょうか」
「おー悪いな」
狭間が携帯電話を片手に課に戻ってきた 。
「今回の件は、自殺の線が濃厚ながら、芸能人でマスコミも動く。
裏付け捜査はきちんとやるようにとの指示だ。
成瀬、初動もしてもらったし、お前が担当してくれ。
そうだな、一週間を目途に、報告書だけ形になればいいから。
ただし単独捜査は禁止だ。もうひとり誰でもいいから選べ」
壱道が瞳だけ動かして琴子を見た。
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