コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
湊は、その命をブドウ糖の点滴の管で繋いでいた。壊死したと思われる腸の粘膜が回復するまでは断食となり、その頬は少しばかり痩せ、手首のネームバンドはくるりと回った。
「湊、大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「えっ、お医者さん呼んでこようか!?」
「違うよ」
湊は菜月の手首を握ると引き寄せ、唇を重ねた。
「菜月がいない」
「もうっ!誰か来たらどうするの!」
「誰も来ないよ」
そこで、廊下から男性の咳払いが聞こえた。
うおっほん
入り口に立っていたのは竹村誠一だった。その手には、どう見ても似つかわしくない、オレンジのガーベラの花束があり、面差しは赤らんでいた。どうやら、2人の口付けの一部始終を見てしまったようだ。
「竹村、来てくれたのか」
「湊、元気そうじゃないか、あ?」
「おかげさまで」
竹村は、菜月に花束を手渡した。
「これ、どうぞ」
「ありがとうございます」
「なに、それ見舞いの花じゃないの!?」
「いいんだよ!」
竹村の頬は赤らんでいた。
「じゃあ、お花、生けて来るね」
「うん」
菜月は、竹村から受け取った花束と花瓶を手に、洗面所へと向かった。竹村はその後ろ姿を見送ると、ベッドの下から椅子を取り出して座った。その面持ちは険しかった。
「どうしたんだ」
「四島賢治が自白した」
「なにを?」
「おまえの車に、ペットボトルを仕込むように唆したのは、如月倫子だ」
「そうなのか!?」
竹村は周囲を窺いながら、湊に小声で囁いた。
「その如月倫子なんだが、任意同行を求めたが姿を眩ました」
「どこへ行ったんだ」
「分からない、実家にもいなかった。立ち寄りそうなところも探した」
「それで、どうなるんだ」
「嫌疑不十分だが、四島賢治と一緒に、傷害罪で逮捕に持ち込みたい」
「そうか」
その時、竹村は、湊の病室を一瞥し、通り過ぎた黒髪の女性に気付いた。その面差しは不鮮明だったが、深紅の口紅が異様に目立っていた。
「菜月、遅いな」
「・・・・・!」
竹村は腰の手錠を確認すると勢いよく立ち上がった。
「どうしたんだ」
「来た、如月倫子だ!」
「如月倫子!?」
病室を飛び出した竹村は、看護師にぶつかって謝罪していた。その影は慌ただしく、菜月が向かった洗面所を目指した。
「菜月!」
湊は、ベッドから起き上がろうとしたが目眩が襲い、その場にしゃがみ込んでしまった。丁度その場に居合わせた看護師が、湊の背中に手を掛け「ベッドに戻って下さい」と促した。湊は、菜月の一大事にも関わらず、身動きひとつ取れない自身を歯痒く思った。
カツーン カツーン
その頃、菜月は花瓶を水で濯いでいた。背後から、規則正しい金属音が近付いて来たが、菜月はその音を気にも留めず、ガーベラの花束を花瓶に生けた。そして、青いガラスの花瓶を持ち上げ鏡を見上げた瞬間、背後でゆらりと人影が動いた。
「ヒッ!」
長い黒髪、深紅の口紅、あの如月倫子が背後に立っていた。然し乍ら、その面持ちは以前とは大きく様変わりし、目の周りは腫れ上がり、口元には青痣が出来ていた。
「菜月さん、お久しぶりね」
「き、さ・・・・、どうしてここが」
「湊さんのお勤め先にお電話したら、こちらだと聞いてお見舞いに」
「あ、あり・・が」
「ありがとう」そんな言葉は、似付かわしくない。交通事故に見せ掛けて、湊に危害を加えようとした如月倫子が、見舞いに来る筈がない。
カツーン カツーン
菜月がその音の在処を見ると、銀色に鈍く光るフォールディングナイフが、手摺りを叩いていた。菜月は小さく息を吸い、ごくりと唾を飲み込んだ。心臓が激しく脈を打つ。時間が止まった次の瞬間、鏡の中で、それが振り上げられた。
「キャッ!」
菜月は花瓶を如月倫子にぶつけると、廊下に飛び出した。如月倫子の黒いワンピースはびしょ濡れになり、「チッ」と吐き捨てた黒いピンヒールは、ガーベラの花びらを踏み潰し、その後ろ姿を追った。
カツーン カツーン
菜月は咄嗟に階段を上った。如月倫子が持ったフォールディングナイフは、金属製の手摺りを規則正しく叩いた。菜月の、階段を駆け上がるスピードが速くなると、如月倫子はピンヒールを脱ぎ捨て、裸足でその背中を追って来た。
(み、湊!)
ヒタヒタと壁に追い詰められた菜月は、如月倫子の大きく振りかざしたフォールディングナイフに目を瞑った。スッとナイフの先端が菜月の腕を掠り、鮮血が滲んだ。
(湊!)
その時だった。
「如月倫子、銃刀法違反、傷害の現行犯で逮捕する!」
竹村は、如月倫子の手首に手錠を掛けた。その腕には、青あざやタバコを押し付けた様な痕があった。握っていたフォールディングナイフは床に落ち、如月倫子は、地面の上で跳ね回る、魚の様に身体をばたつかせた。
「放せ!放して!」
竹村は、近隣の交番に協力要請の連絡を入れた。そしてもう片方の手錠を階段の手摺りに掛け、まじまじと見た如月倫子の姿に言葉を失った。
「その傷はどうしたんですか」
「傷?これがなんだって言うのよ!」
「それはドメスティックバイオレンスの痕ではありませんか?」
「そいつのせいよ!」
如月倫子は、菜月の顔を見据えて眉間にシワを寄せた。
「それはどういう意味ですか?」
「賢治との事がバレてから、毎日、毎日、主人から殴る蹴るの暴行よ!」
「そんな」
菜月は青ざめた。
「あんたのせいよ!」
「それは、あなたが賢治さんと不倫したからじゃないですか!」
「うるさい!」
「あなたが!」
「うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!」
その時、階下から慌ただしい複数の警察官の足音が駆け上がって来た。竹村は警察官に如月倫子を引き渡し、女性警察官が菜月に毛布を掛けた。
「大丈夫ですか!」
「は、はい」
如月倫子は警察官に抱えられ階段を降りて行った。
「あんたが悪いのよ!あんたが!」
(た、助かった)
如月倫子の叫び声はいつまでも続き、病院は喧騒に包まれた。携帯電話を片手に動画を撮影する若者の姿も多く見られた。菜月は病院外来で左腕の傷の治療を受けた。
「竹村、ありがとう。助かった」
「とんでもない」
湊は、竹村に深々とお辞儀をした。
「助かった、ありがとう」
「犯行現場が県警の隣で良かったな」
「不幸中の幸いだよ」
ピーポーピーポーピーポー
如月倫子は、警察官に連行されパトカーの後部座席に乗った。すると、観念したかの様に、もうひとつの犯行を仄めかした。
「あの女の弟の事故、私がやったのよ」
「あの女?」
「綾野菜月よ、あの女の弟の車に悪戯をしたの」
如月倫子は綾野湊の数ヶ月前の自動車事故は”自分たちの故意”によるものだと自白し始めた。
「自分たち、とは共犯者がいるのか?」
「そうよ」
「名前は」
「四島賢治」
「賢治がジュースの缶を置いたから車のブレーキが効かなかったの」
実行役は四島賢治だと証言し、如月倫子と賢治は法で裁かれる事となった。