コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
由樹が出社すると、事務所の雰囲気がいつもとは違っていた。
急騰室のシンクに手をつき、いつもクールな篠崎は、珍しく頬を赤らめて笑っている。
「じゃあ、小松さんから一言!!」
渡辺が宴会のように指笛を鳴らしながら叫び、皆が笑う。
何かはわからないが、明らかに乗り遅れたらしい。由樹は空気を壊さないように静かに靴を履き替えると、事務所の壁に張り付いた。
「篠崎さん……!おめでとう!!」
いつもはクールな小松が立ち上がり、篠崎に抱き着く。
「俺は、嬉しいですよ」
「……んな大げさな」
篠崎が笑う。
昇進だろうか?それともまさか、栄転か?
由樹はいてもたってもいられずに隣に立ちながら、手をこれでもかと叩いている渡辺に顔を寄せた。
「何か、あったんですか?」
「ああ」
渡辺は初めて由樹がいたことに気づき笑った。
「篠崎さん、結婚が決まったんだって」
俄かには反応が出来なかった。
(結婚…………?)
やっと小松を引きはがした篠崎が由樹に気が付く。
「おお、新谷。お前もぼさぼさして、彼女に逃げられる前に、籍だけでも入れといたほうがいいぞ」
篠崎は今まで自分に見せたことのない、太陽のような微笑みで、由樹を見下ろした。
ハッと目を開けた。
こめかみに向けて横一線に垂れた涙が冷えて冷たい。
目の前には千晶の柔らかくて艶やかな髪の毛があった。
「夢………」
そうわかると、全身に入っていた力が抜けた。
上がった呼吸を整える。
(よ、良かった)
脳が覚醒し始める。
だが、まだ胸に余韻は残っている。
張り裂けるような痛み。
全身に走る絶望の倦怠感。
(……夢じゃ、ないかもしれない)
同じことが現実にいつ起こっても不思議じゃないのだ。
だって篠崎は男なんだから。
女性が好きな健全な男で、結婚もおかしくない年頃で、女が放っておかない素敵な男なんだから。
また溢れてきた涙を枕に押し付ける。
腕の中では千晶がスヤスヤと眠っている。
由樹が抱える切なさもやりきれなさも、全てをその細い体で受け止めてくれる彼女。
なんて残酷でひどいことを自分はしているのだろう。
その髪の毛を撫でる。
幸せになってほしいと思うのに。
そしてできれば、自分が幸せにしてあげたいと思うのに。
(自分の気持ちなのに、なんで自分でコントロールできないんだろう)
由樹は涙が乾いた頬を彼女のいい匂いのする頭に擦り付けた。
(やっと寝たか)
明け方。
全身にこれでもかと力を込めながらうなされて、しまいには涙を流した彼氏は、やっと夢から覚醒すると、それでも声を殺しながら泣き、そして千晶を抱きしめながらまた眠りについた。
カーテンから漏れる朝焼けの陽に、出会った時から変わらないあどけない顔が照らされる。
眉毛が少し下がっていて、また今にも泣きだしそうな顔をしている。
そのまだ涙が乾ききっていない頬に触れる。
彼が何で悩んでいるのか。
顔を触っているだけで、分かればいいのに。
仕事のことであればいい。
就職したばかりのハウスメーカーで、うまくいかずに、四苦八苦しているだけであればいい。
もしそうならば自分はいくらでも支えてあげられる。
叱咤激励し、肩を叩いて、尻を蹴って、いくらでもはっぱかけてあげられる。
でももし、そうでないなら。
頭から手を放し、彼の肩を撫でる。
指を滑らせ、あばらを感じながら腹を撫で、細い腰に滑らせながら、彼の下半身をそっと触る。
(あなたは……男よ?)
意味のない暗示を心の中で呟いてみる。
(そっちに行っちゃだめ)
下半身のそのシンボルを優しく触りながら千晶は目を閉じた。
(また、傷つくだけだから………)