コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
◆◆◆◆◆
右京は自宅の団地を抜け出すと、永月の家を見上げた。
もしかしたら―――。
永月の言っていることは本当かもしれない。
あの手紙といい、黒板に貼りつけられたコンドームといい、ミナコちゃんたちといい……。
普段の永月のイメージと明らかにそぐわない。
『誰かが、俺の仕業に見せかけようとして、わざと間違えたってことじゃない?』
やはりそう考えた方がすんなり腹に落ちる。
でも―――。
『誰にやられた?その捻挫だよ。もしかしてそれも永月か?』
じゃあなんで蜂谷は、自分が言う前から永月を疑っていた……?
考えられる可能性は2つ。
1つは、蜂谷が別ルートから、新体操部Mの正体を突き止めた、ということ。
もう1つは―――。
蜂谷こそが、永月を陥れようとしている犯人―――。
明日は蜂谷と会う。
その時に直接聞けばいい。
そして今夜は―――。
右京が見上げると、2階の窓ガラスが開いた。
「――――っ!」
逆光に照らされ、顔が見えないが、おそらく永月だ。
キョロキョロとあたりを見回してからこちらに手招きをしている。
右京はブロック塀によじ登り、その後下屋に音を立てないように飛び乗ると、ふっと影は笑った。
「本当に運動神経がいいな、右京は。うちの部に欲しいくらいだよ」
永月の声がする。
少しばかりほっとして息をつくと、影が少しずれて部屋の照明が彼の顔に当たった。
―――よかった。ちゃんと、永月だ……。
「―――入っておいで。気を付けて」
言いながら手を差し出される。
「…………」
学生服とユニフォームは見慣れているが、フード付きの半そでパーカーにハーフパンツを着ている彼は、いつもより幼く見えた。
「ほら、早く。誰かに見られる前に」
「―――あ、ああ」
右京はその手を掴むと、靴を脱ぎながら窓枠に足をかけた。
「親は?大丈夫だった?」
永月は窓を閉めながら言った。
「あ、ああ。平気」
右京は言いながら、永月の大きく開いた首元から覗く鎖骨を見つめた。
ユニフォームの日焼けの跡がくっきりついた首の下に、鎖骨のラインが美しく浮き上がっている。
「―――っ」
思わず目を逸らすと、永月は静かにベッドに座った。
「右京、来てくれてありがとう」
「―――あ、いや。学校だとゆっくり話せないしな…」
言うと彼はふっと笑った。
「近頃の右京は大人気だからなー。いつも誰かがそばにいるもんね」
言いながら永月は、自分の隣をポンポンと叩いた。
「そ…それは、お前だろ」
言いながら右京は、遠慮がちに隣に腰を下ろした。
「そんなことないよ。俺はサッカー部としかいないもん」
永月は軽く髪を掻き上げた。
清潔な石鹸の匂いがする。
「サッカー部のメンツとは練習があるから一緒にいるだけで。全国大会終わったらきっと一人でいるよ、俺」
「まさか。想像できないよ、一人でいる永月なんて」
言うと、
「本当だよ。基本的に誰かとつるむの苦手なんだよね、俺」
永月の瞳がこちらを見つめる。
「――――」
グラウンドでボールを蹴っていようが、教室にいようが、いつも陽の光の中にいた彼の瞳が、こんなに濃い灰色をしているなんて、気が付かなかった。
―――俺は、本当は、こいつのこと、何も知らないのかもしれない。
右京は永月を見つめた。
だって、わからない。
こいつが今何を考えているか。
敵なのか。
味方なのかも―――。
「右京」
永月は右京の瞳を見つめたまま言った。
「蜂谷のこと、どう思う?」
「―――」
ずばり聞かれて、一瞬言葉に詰まる。
「どうって………」
右京は思わず目を逸らした。
「みんなに言われてるほど、悪い奴ではないと思う。まあ、見た目は派手だけど、ちゃんと授業受けてるし、成績も悪くはないし。煙草も吸わないし、むやみやたらと喧嘩しないし」
言いながら耳の後ろを掻いた。
「見た目だけで誤解される辛さはわからないでもないから。表面(おもてづら)から更生してやりたいなとは思うよ。難しいけど」
言うと、永月は柔らかく笑った。
「優しいね。右京は。すごく優しい」
その大きな手が、右京の頬を包む。
「――――」
サッカーは蹴るゲームだが、ボールを触っていると、手の皮まで厚くなるのだろうか。硬いその触感に、右京の心臓が高鳴る。
「でも」
永月が低い声を出す。
「だから、騙されるんだよ…?」
グレーの目の芯が、一瞬光ったような気がした。
「騙される?」
右京はその瞳を覗き込んだ。
「俺の話を聞く前に俺の質問に答えてくれる?」
永月は右京を睨むように薄く眉間に皺を寄せると、言葉を選ぶように唇を噛みしめ、やがて話し始めた。
「文化祭の日、右京は『俺がミナコちゃんたちを使って右京を襲わせた』って言ったよね」
「―――あ、ああ。でも……」
「つまり、襲われたんだね?」
「う…ん?」
「何されたの?」
永月はこちらを覗き込んだ。
「―――何って……」
「怪我は初めからしてた。まあ、悪化したようにも見えたけど。それ以外に傷とかなかったように思うんだけど」
「――――」
「右京?」
腕をぐいと掴まれる。
「―――言って?」
「――――」
右京は一つため息をついてから口を開いた。
「お、押さえつけられて、その……犯されそうになった。まあ、すんでのところで蜂谷が助けてくれたから、最後までされなかったけど」
「――――」
カクンと永月が頭を落とした。
腕を握っている日焼けをした手が、プルプルと震えている。
「これだけは、最初に謝らせて」
伏せた永月の顔から、液体がポタッ、ポタッと、シーツに落ちる。
「おい、永月……」
思わず肩を掴むと、永月は涙で濡れた顔を上げた。
「守ってあげられなくて、ごめん」
「……………」
ずっと―――。
永月を見てきた。
あの夏から―――。
あの山の麓の酒屋で出会った日から―――。
永月が出場した去年の全国大会。
宮丘学園がベスト8直前で敗北した時も―――。
他の選手が涙に暮れる中、ユニフォームの袖でこめかみから垂れる汗を拭きながら、彼は泣いていなかった。
3年生の卒業式。
他のサッカー部員が3年生を胴上げしながら泣いていた時も、彼は一人、笑顔で送っていた。
その永月が―――。
今、自分なんかのために、涙を流している。
「でも―――悔しいな……」
掠れる声がため息とともに吐き出される。
「俺、右京から見て、そんなことするような奴に見えた……?」
「――――」
「それが一番、悲しくて悔しい」
言いながら永月のもう一つの手も、右京のもう一つの腕を掴む。
「―――違うんだ」
右京は彼のたくましい太股に触れ、なだめるように言った。
「俺、お前が好きだって言ってくれたことの方が信じられなくて」
潤んだ瞳が右京を見つめる。
「それだったらかえって、陥れようとしてるって方が、納得しやすくて」
「――――」
「だから……」
こんなことを言う自分が情けなくて、俯いてしまった顎をくいと永月が上げた。
「どうして、俺の気持ちが信じられなかったの?それも誰かに何か言われた?」
「違う……」
―――もうだめだ……。
押さえようとしても、閉じ込めようとしても。
気持ちが―――。
溢れる―――。
「夢……みたいで―――。お前が俺のこと、好きなんて、とても、信じられなくて……」
「――――」
「だって、俺、ずっとお前のこと、好きだったから―――」
「ずっとって……」
永月の目が真ん丸に開かれる。
「いつから?」
右京は一瞬迷ったが、永月の目を見ながら言った。
「―――去年の夏から」
「夏?」
永月の見開かれた目が、二度、三度と瞬きを繰り返す。
「だって、右京、まだこの学校に転校してきてないじゃない」
「……俺、会ってる。お前に一度」
「……夏に?」
「うん」
「どこで?」
「……山形で」
「―――――」
永月は右京を覗き込むように前傾していた体を起こし天井を見上げた。
「合宿先で?」
「………の、近くの酒屋で」
「―――ああ!」
永月は口を大きく開けた。
「え!?でも、あれ!?」
再び永月が右京の顔を覗き込んでくる。
「顔はよく覚えてないけど、なんか、ものすごいDQNだったような覚えがあるんだけど」
「DQN……?」
「あはは、ごめんごめん」
永月は目尻の涙を拭いながら再度右京を覗き込んだ。
「彼が右京だったんだ…?」
「…………」
右京は自嘲的に笑った。
「き、気持ち悪いよな。それからずっと好きなんて」
永月は微笑みながら黙って首を振った。
「高校がわかってからは、サッカーも観戦してたし」
「うん」
「3回戦からは会場で観てたし」
「マジで?」
「我慢できなくなって」
「うん」
「転校までして」
「はは」
「サッカー部にとってちょっとでも役立てるようにって、生徒会長に立候補して―――」
「え、俺のために?」
永月の顔がピンク色に上気していく。
つられて右京の顔も熱くなっていく。
「―――右京は、俺のために転校してきて、俺のために生徒会長になったの?」
改めて本人の口から言われる、自分の異常な愛情に、右京は自分で口を抑えた。
「いや、こわ……。俺!」
「ふはっ」
永月が後ろに手をついて笑い出した。
薄手のパーカーの上からでもはっきりとわかる腹筋を震わせて笑っている。
「ーーーーー!」
右京はもはや顔を真っ赤にしながら羞恥に耐えるしかなかった。
「……う。言わなきゃよかった」
「ははは。なんで?」
永月がまだ肩を震わせながら右京を見つめた。
「嬉しいよ?俺のこと、そんなに思ってくれたなんて……」
その真っ直ぐな瞳が右京を映す。
「―――蜂谷にも……」
思わず目と話題をそらしてしまう。
「蜂谷にも怖いって言われた」
「―――へえ」
永月の口元から笑顔が消える。
「ドン引きだって」
「――――」
永月は軽く座り直すと、右京を見下ろした。
「ーーー俺、今すぐ右京を抱きしめたい」
「え?」
「そんなに想ってくれた右京の気持ちに応えたい」
「ちょ……」
「でもなあなあにするのは嫌だから」
「?」
永月は鋭い視線で右京を見つめた。
「俺が知っている蜂谷についてのこと、今、右京に教えていい?」
「蜂谷について?」
「心して聞いてね」
永月はギリッと奥歯を噛み締めた。
「あいつ、最っ低な奴だから……」