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◆◆◆◆◆


「よし。とりあえずは受け皿、確保」

久次はそう言うと、職員室のデスクの中から合唱部の名簿を引きずり出した。


「………」

漣は最低限しか照明を付けていない薄暗い職員室を見回した。

いつもは教師と生徒で喧しいそこは、こうしてみるとただのオフィスで、制服姿の自分がいるのはひどく場違いに思えた。

「もしもし。杉本?大至急みんなに回してほしいんだが……」

久次は自分のデスクの受話器から電話を掛けた。

「急だが、明日から有志を募って、福島で合唱部の合宿を開く。2学期が始まるまでの1週間だ。……だから有志だけでいいって。課題なんて持ってくればいいだろうが。とにかく強制じゃないから。参加できるものだけ、10時に駅集合。回してくれ」

急いで電話を切る。


「クジ先生……」

漣が見上げると、彼は名簿を乱暴に捲り始めた。

「……大丈夫だから」

久次は苛立ったように言葉少なに言い、またどこかの番号を押すと、唇に人差し指を当てた。

「……あ。もしもし。遅い時間に失礼いたします。私、合唱部の顧問をしております久次と申します。……あ、そうです。以前一度お会いしましたね。……いえいえ、こちらこそお世話になっております」

漣は目を見開いた。


慌てて切ろうとフックスイッチに指を伸ばしかけるが、その手を久次に掴まれる。

「急で申し訳ありませんが、明日から合唱部で福島に合宿に行くことになりまして……。というのも、今日の合同練習の講師が私の恩師でして。我々の合唱を聞いて、特別にレッスンつけてくれることになったんです」

漣は首を横に振った。


……ダメだ。


母親に言ったら、谷原に連絡が入る。


谷原に連絡が入ったら……。


連れ戻される……!



「はい。……そうです。明日から、夏休み最終日まで。今のところ、10人弱ほどが参加予定で。漣君はソロパートもあるため、ぜひとも参加してほしくて、私の方からお願いしたんです。……はい。大丈夫です。私も引率で行きますので」


久次がこちらをちらりと見る。


「ええ。今日は皆で私のマンションに泊って明日の始発で出ますので。何かあれば今から言う番号にかけていただいていいですか?

申し上げますよ。080――――」


久次が番号を言う。

漣は彼に手を掴まれたまま、その唇を眺めているしかできなかった。

「あ、わかりました。変わりますね」

久次はそう言うと、受話器をこちらに向けてきた。

「……………」

(大丈夫だ)

久次の唇がそう動く。

漣は震える手で受話器を取った。


「……母さん?」


『漣?びっくりしたわ。急に合宿なんて!』


母の声がいつもより明るく感じる。


『でもソロパートがあるなんてすごいじゃない!』


「……はは」


『頑張ってね!』


「……うん」


『着替えは?』


「あ、適当に持ってきた」


嘘だった。

しかしあの家には帰れない。

母に面と向かって嘘をつくなんてできない。


『案外しっかりしてるのね』


「……まあね」

いつも通りの声にホッとして、思わず笑みが零れる。


その顔を見て、久次が小さくため息をつき、名簿を鞄にしまい始めた。


『でも困ったわ……』

母の声が急に曇る。


『夏休み最後の日は、若林さんと会食が入っているのよ?』

「………」

『谷原先生から聞いてる?若林さんのこと』

「……ちょ……ちょっとは……」


――――でも。

口から言葉が零れそうになる。


―――でも俺。、母さんの口から何も聞いてないよ……?


『……どうしようかしら。予定ずらしてもらうのも申し訳ないし』

「………」

唇が震える。

指先も震える。


『漣だけ、一日早く帰ってくることなんて、出来ないかしら?』


カタカタカタカタと受話器が震え、耳に当たる。


『お母さんから話してみるから、もう一度、先生に……』


「お、俺から言うよ!!」


急に出た大きな声に久次が振り返る。


「大丈夫だと思う!じゃあね!」


一方的にそう言うと、漣は受話器を置いた。


「……どうした」


久次がこちらを見下ろす。


「母さんが、よろしくお願いしますって」


必死で唇の震えを抑えながら言う。


「本当か?」


久次が視線を合わせるように軽く屈んで漣を覗き込む。


「この期に及んで、嘘なんかつくなよ?」


「ついてないって」


笑いながら言うと彼はやっと納得したらしく、黒髪をガシガシと掻いた。



「じゃあ。行くか」


「行くって……どこに?」


「………他にどこがあるっていうんだよ」


久次はため息をつくと、スラックスのポケットからキーケースを取り出し、人差し指で回して見せた。



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