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「よし。とりあえずは受け皿、確保」
久次はそう言うと、職員室のデスクの中から合唱部の名簿を引きずり出した。
「………」
漣は最低限しか照明を付けていない薄暗い職員室を見回した。
いつもは教師と生徒で喧しいそこは、こうしてみるとただのオフィスで、制服姿の自分がいるのはひどく場違いに思えた。
「もしもし。杉本?大至急みんなに回してほしいんだが……」
久次は自分のデスクの受話器から電話を掛けた。
「急だが、明日から有志を募って、福島で合唱部の合宿を開く。2学期が始まるまでの1週間だ。……だから有志だけでいいって。課題なんて持ってくればいいだろうが。とにかく強制じゃないから。参加できるものだけ、10時に駅集合。回してくれ」
急いで電話を切る。
「クジ先生……」
漣が見上げると、彼は名簿を乱暴に捲り始めた。
「……大丈夫だから」
久次は苛立ったように言葉少なに言い、またどこかの番号を押すと、唇に人差し指を当てた。
「……あ。もしもし。遅い時間に失礼いたします。私、合唱部の顧問をしております久次と申します。……あ、そうです。以前一度お会いしましたね。……いえいえ、こちらこそお世話になっております」
漣は目を見開いた。
慌てて切ろうとフックスイッチに指を伸ばしかけるが、その手を久次に掴まれる。
「急で申し訳ありませんが、明日から合唱部で福島に合宿に行くことになりまして……。というのも、今日の合同練習の講師が私の恩師でして。我々の合唱を聞いて、特別にレッスンつけてくれることになったんです」
漣は首を横に振った。
……ダメだ。
母親に言ったら、谷原に連絡が入る。
谷原に連絡が入ったら……。
連れ戻される……!
「はい。……そうです。明日から、夏休み最終日まで。今のところ、10人弱ほどが参加予定で。漣君はソロパートもあるため、ぜひとも参加してほしくて、私の方からお願いしたんです。……はい。大丈夫です。私も引率で行きますので」
久次がこちらをちらりと見る。
「ええ。今日は皆で私のマンションに泊って明日の始発で出ますので。何かあれば今から言う番号にかけていただいていいですか?
申し上げますよ。080――――」
久次が番号を言う。
漣は彼に手を掴まれたまま、その唇を眺めているしかできなかった。
「あ、わかりました。変わりますね」
久次はそう言うと、受話器をこちらに向けてきた。
「……………」
(大丈夫だ)
久次の唇がそう動く。
漣は震える手で受話器を取った。
「……母さん?」
『漣?びっくりしたわ。急に合宿なんて!』
母の声がいつもより明るく感じる。
『でもソロパートがあるなんてすごいじゃない!』
「……はは」
『頑張ってね!』
「……うん」
『着替えは?』
「あ、適当に持ってきた」
嘘だった。
しかしあの家には帰れない。
母に面と向かって嘘をつくなんてできない。
『案外しっかりしてるのね』
「……まあね」
いつも通りの声にホッとして、思わず笑みが零れる。
その顔を見て、久次が小さくため息をつき、名簿を鞄にしまい始めた。
『でも困ったわ……』
母の声が急に曇る。
『夏休み最後の日は、若林さんと会食が入っているのよ?』
「………」
『谷原先生から聞いてる?若林さんのこと』
「……ちょ……ちょっとは……」
――――でも。
口から言葉が零れそうになる。
―――でも俺。、母さんの口から何も聞いてないよ……?
『……どうしようかしら。予定ずらしてもらうのも申し訳ないし』
「………」
唇が震える。
指先も震える。
『漣だけ、一日早く帰ってくることなんて、出来ないかしら?』
カタカタカタカタと受話器が震え、耳に当たる。
『お母さんから話してみるから、もう一度、先生に……』
「お、俺から言うよ!!」
急に出た大きな声に久次が振り返る。
「大丈夫だと思う!じゃあね!」
一方的にそう言うと、漣は受話器を置いた。
「……どうした」
久次がこちらを見下ろす。
「母さんが、よろしくお願いしますって」
必死で唇の震えを抑えながら言う。
「本当か?」
久次が視線を合わせるように軽く屈んで漣を覗き込む。
「この期に及んで、嘘なんかつくなよ?」
「ついてないって」
笑いながら言うと彼はやっと納得したらしく、黒髪をガシガシと掻いた。
「じゃあ。行くか」
「行くって……どこに?」
「………他にどこがあるっていうんだよ」
久次はため息をつくと、スラックスのポケットからキーケースを取り出し、人差し指で回して見せた。