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宣言通り2日後に現れた右京は、勇人が購入したエアコンの風に吹かれ、涼しそうに目を細めた。
蜂谷のプリントが終わっても、世界史の年号カードを捲っても、反応すらしない。
「どーかした?」
「……んー。いや……?」
話しかけても上の空だ。
蜂谷は膝の上に置かれた両手を見た。
右の手首に包帯が巻かれている。
「―――それ、どうしたの」
指でさすと、彼は自分の手首を見下ろした。
「あ、ああ。昨日ちょっと風呂で転んだ」
言いながら、興味なさそうに尻を前に滑らせた。
「―――痛いの?」
聞いてみるが、
「いや。別に。一応巻いてるだけ」
右京は面倒くさそうに小さく息を吐いた。
嘘を言っている風ではない。
昨日、痛がって見えたのは気のせいだったのだろうか。
―――それじゃ、こっちは……?
横目で見ながら椅子を引き寄せると、右京はやっとこちらを振り返った。
「昨日、途中までしかしてないけど、ケツ大丈夫だった?」
「―――!」
みるみるうちに、顔に感情と熱が戻っていく。
「痛くなかったかって聞いてんだけど」
しつこくもう1回聞いてみる。
「だ、大丈夫だよ……!」
椅子をさらに引き寄せると、バランスを崩した右京の膝が軽く上がる。
その下に手をさし入れてさらに引き寄せる。
「あれ。そういえば、今日は制服じゃねぇの?」
今まで律義に制服を着ていた右京は、今日は一転白とグレーのツートンのTシャツに、五分丈のショートパンツを履いている。
「どういう心境の変化かなぁ?」
言いながら蜂谷は赤くなっていく右京を覗き込む。
「もしかして―――」
言いながら耳に口を近づける。
「また汚れると悪いから…?」
「う、うっせえな!」
右京はぐいと蜂谷を押し返した。
「クリーニング中!」
「はは、なるほどね」
右京の股間に手を当てる。
「ちょ……!」
「あのあと……。自分で抜いた?」
「してないっ……!」
「ホントかなぁ」
言いながら膨らみを包むように撫でる。
「―――ホントだって……」
力なくこちらを押し返しながら、右京が目を瞑る。
―――本当にチョロい奴……。
蜂谷は半分呆れ、半分興奮しながらさらに右京を引き寄せた。
「確かめていい?」
さらに耳に唇を寄せ、息をかけるように囁く。
「お前は―――」
視界の端にその白い拳が握られるのが映る。
「勉強しろ……!」
「―――っ!」
蜂谷は目を瞑った。
右京の拳は身体のどこにヒットしても、吐くほどの痛みと、倒れるほどの衝撃がやってくる。
それに耐えるために腹に力を入れ、歯を食いしばる。
しかし―――。
その拳をゆっくり開くと、右京は背中を丸め、ため息をついた。
「…………」
何やら様子がおかしい。
「お前、どうしたんだよ……?」
思わずその黒く艶やかな頭を撫でる。
「…………」
右京が困惑したような真っ赤な顔でこちらを上目遣いに見つめる。
私服を見るのが初めてなのもあるが、右京は普段の何倍も幼く、そして、頼りなく見えた。
「右京―――」
「こんにちはー!」
そのとき、ノックもせずに隆之介が部屋に入ってきた。
右京が慌てて蜂谷の椅子を蹴る。
隆之介はおもしろそうに蜂谷と右京を順にみると、ニコニコと笑った。
「右京さん、この間の約束、覚えてますか?」
馴れ馴れしく話しかける。
「―――え、約束?」
突然の来訪によほど驚いたのか、心臓を抑えながら右京が聞き返す。
「僕にも勉強を教えてくれるって話!」
「……あ、ああ」
答えた右京にスタスタと寄ると、隆之介はその小さな顔を覗き込んだ。
「ちょっとだけでいいんで!減数分裂がよくわかんないんですよ」
―――こいつは……。何を考えてやがる……?
蜂谷が睨み上げるが、隆之介はニコニコと右京を見下ろしている。
「減数分裂って中学でも習うんだっけ?」
並ぶと中3の隆之介とほとんど体型の変わらない右京が立ち上がる。
「習いますよ。何回やってもわかんなくて」
「……いいけど俺、中学まで成績悪かったから、わかるかなー」
右京は頭を掻きながら、隆之介に続いて歩き出した。
「おい、右京…」
思わず声をかけると、彼は振り返りざまに人差し指を蜂谷に向けた。
「戻ってくるまでに、中国の古代王朝、丸暗記しとけよ!チェックするからな!」
「あ、おい……!」
右京は言うだけ言うと、勢いよくドアを閉めた。
「―――ったく。あいつは……」
警戒心のかけらもない。
―――まあ、あいつの性格がいくら歪んでるからと言って、3つも年上の義兄のツレにちょっかいをかけるとは考えにくいが………。
「―――誰が“ツレ”だ。誰が……!」
蜂谷は大きくため息をつくと、本棚から落とす様に世界史の教科書を引き出した。
◆◆◆◆◆
ドアを開け自室の中に招き入れると、右京はポカンと口を開けた。
「……おお、すげえ」
何に驚いたのか振り返ってみると、10畳の壁という壁に並べられた本棚と、収納されている本に目を輝かせていた。
「芥川龍之介、ファーブル昆虫記、シェイクスピア、夏目漱石、フィヒテ。図書館かよ……」
きらきらと輝く全集の背表紙を見ながら笑っている。
「うわ。懐い……」
右京はその中の『江戸川乱歩 少年探偵団全集』を手にするとページを捲り始めた。
「……右京さんて本読むんだ?」
隆之介は微笑みながら言った。
「ああ。うち、ほとんどテレビとか見なかったし、ゲームも買ってもらわなかったから」
「へえ。両親厳しいんですか?」
「―――いや」
右京は口元を綻ばせながら言った。
「優しかったよ……」
言いながらページを捲っている。
―――うっわ。ムカつく。
隆之介は右京に悟られないよう、その幸せそうな横顔を睨んだ。
自分や義兄とは違う。
両親に愛情をたくさんもらって生きてきた顔。
自分が生きていることを肯定され、愛でられ、教え諭されて生きてきた顔。
「尊敬する人は両親です」とか虫唾の走るようなセリフを素で言えるような人間。
―――はは。反吐が出そ……。
「少年探偵団ってさ。どんな殺し方しても、どんなトリック使っても、結局は怪人二十面相が犯人なんだよな」
何も気づいていない右京は笑いながらこちらを見上げた。
「そうですね」
―――読んだことないけど。
隆之介は母の依子が必死で買い与えた全集ものを見上げながら小さくため息をついた。
『あなたのお父さんは、とにかく本を読む人なのよ。だから、あなたもそうなりなさい』
父親の顔も知らないのに、そんなことを言われても、当時はピンとこなかった。
字も読めない頃から強制的に買い与えられた本たちは、母親が音読してくれることもなく、ただただ本棚に並べられ年々その数を増やしていった。
今年の誕生日には、また強制的に何かしらの全集が増える。
今度は太宰治全集か。はたまたカフカ全集か。
何にしろ本棚にはもう収まりきらない。
何かを捨てないと……。
「んで?」
びっしりと詰め込まれた本棚に、やっとのことで少年探偵団を戻した右京が振り返る。
「減数分裂だっけ。どこがわかんねぇの?」
ミドルブラウンの大きなロフトベッドに付属している机を見下ろす。
「有性生殖と無性生殖の違い、かな」
言いながら右京の脇から自分の席に座る。
「そんなの―――」
右京が机に手をついて広げられた教科書を読む。
「『蛙などのようにオスとメスが関わり合って子供ができる生殖方法が有性生殖で、ミカヅキモのように単体で分裂して個体を増やすのが無性生殖です』って、これだけだろ」
言いながら笑う。
「はは。ミカヅキモとか懐かし。無性生殖の代名詞だよな。これ以外あんまり例が出てこないつう……」
「つまり」
右京の言葉を遮り、机についていた細い腕を掴む。
「オスとメスがセックスするのが有性生殖ってことだよね?」
「え」
腕を引かれた右京が、やっと隆之介を見下ろす。
「セックスしてオスがメスの中に精子を解き放って、受精して、子供を作るのが有性生殖でしょ?」
そう言うと隆之介は握る手に力を込めながら、右京を睨み上げた。
「……よくわかってんじゃねぇか」
右京もその顔を無表情で睨み落とす。
「教えてよ、右京さん。僕に”有性生殖”ってやつを」
「…………」
右京はそのまま隆之介を見下ろして、口の端だけを吊り上げた。
「……似てないって思ってたけど、やっぱり似てるな、そういう顔は」
「―――兄に?」
「当然」
「止めてくださいよ」
隆之介は右京を睨んだ。
「僕と兄は似てないですよ。だって母親が違いますから」
「―――母親が?」
右京は目を見開いた。
―――聞いてないのか?あんなことまでしてんのに?
隆之介は首を捻った。
「そうですよ。僕は後妻の息子なんで。いわば腹違いです」
「あいつの母ちゃんって、死んでんのか?」
「ええ。兄さんが13歳、僕は10歳のときに」
右京の眉間に薄く皺が走る。
「――はは。気づきました?」
隆之介は笑った。
「そう。僕は父の浮気相手の子供です」
「―――」
「当時小間使いとしてこの家に使えていた僕の母親が、父と関係を持ちできた子が僕です。母はその後も僕を一人で育てながら、ここ、蜂谷家に仕えていましたけどね」
「あいつの―――」
右京が口を開いた。
「あいつの母ちゃんはなんで亡くなったんだ?」
「――――」
―――さて、なんて答えてやろうかな。
右京はこちらをまっすぐに見下ろしている。
―――いいか。ありのままを。
好青年を気取ってるこいつが崩れるのを、見てみたいし。
「病気ですよ。女性には珍しく、肺がんだったって伺ってますけど」
「―――肺がん……」
右京はその言葉を聞きながら、視線を落とした。
おそらく母親を病気で亡くし、その浮気相手と息子が住む家で生きなければいけない恋人に同情しているのだろう。
―――さてと。追い打ちをかけてやるか。
「僕も一度、病院で会いましたよ」
「―――」
右京が再び視線を上げる。
「酸素呼吸器を付けて、苦しそうでした。やせこけた顔は皺だらけで、肌はくすんでシミがあって。
うちの母親と同い年だとは聞いたけど、悪いけど、全然そうは見えませんでした。だってうちの母親は近所でも評判の美人でしたから」
掴んでいない方の手が握られる。
―――そうだ。もっと……。
「呼吸器をつけているのに、彼女は苦しそうでした」
―――もっと崩れろ……!
「今迄かいがいしく蜂谷家に仕えていた母親は、奥様である彼女に、勝ち誇ったように言いました。『この子は勇人さんの子供です』って」
「―――――っ」
右京の拳が握られた。
「――そのこと……。蜂谷は?」
―――いいね。いい顔になってきた。
白い顔には血管が浮き出ていて、眉間に皺が寄り、眼球が盛り上がっている。
「知ってますよ?」
隆之介は万が一にも殴られないように、彼の腕を掴んだまま立ち上がった。
「だって、その場にいましたから」
「――――!」
「懐かしいなあ。まだ大きいサイズの学ラン着てね。あの時の兄さんは可愛かった。目もクリクリで髪の毛も黒くて短くて」
「――――」
「でもうちの母親がそう言った瞬間、迷わず母親を殴りましたけどね」
クククと笑いがこみ上げてくる。
「あのときの兄さんの顔は傑作だったな…。『適当なことを言うな!母さん!信じるな!この女は昔から嘘つきなんだ!』って、必死でさぁ」
ギリギリと変な音が聞こえた。
見下ろすと、自分が掴んでいる右京の右手が、軋むほど強く握られていた。
「それからはもうパニックだよね。暴れる兄さんは男性看護師さんたちに押さえつけられて変な注射刺されるわ、うちの母親は歯が折れたって騒ぎ出すわ、当時わけのわからなかった僕は泣き出すわで……」
「―――」
「薬を打たれた兄が気を失い、うちの母親の血が止まり、僕が泣き止んで、全てが収束したとき……。いつの間にか自ら呼吸器の電源を切っていた兄さんの母親は、息を引き取っていました」
「―――」
先ほどまで怒りを全身に溜めこんでいた右京の身体から、力が抜けていく。
「……兄やその母親のこと、かわいそうだと思いますか?」
目を伏せた右京に囁くように言う。
「でも、10年間も本妻との日常を見せつけられながら、愛する人との関係をひた隠しにしなければいけなかったうちの母親も哀れだとは思いませんか?」
「―――――」
「父親の顔も愛情も知らずに育ち、初対面の兄に母を目の前で殴られ、パニックになった僕も、かわいそうだと思いませんか?」
「お前……」
右京がやっと口を開いた。
「何が言いたい?」
「―――何が、か」
隆之介はぐいとその手を引くと、右京を机に押し付けた。
バランスを崩した彼が後ろ手を机につく。
「つまり、兄さんは幸せに育ってきたあんたの手には負えないよって話」
「…………!」
「兄さんを理解できるのは、俺だけだ……!」