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帰ったら、玄関の前にネコがいた。
にゃあ。
マンションとは呼べないアパートの一室の鍵を開けると
ネコは当たり前のように
ドアの隙間からするりと侵入した。
ユカリ
ユカリ
わたしはむくんだ足のパンプスを脱ぐのも、もどかしく
慌ててネコを追った。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
栗色の髪にまだ幼い顔立ちをした少年が
唇をゆがめて
にゃあと鳴いた。
夕方から降り出した雨が
まだ、やまない。
いつもなら
コンビニで夕飯を買って済ませるところだが
雨のせいで
寄り道さえ面倒に感じた。
冷蔵庫の中は
チョコレートと栄養ドリンクだけだ。
こんな日に、ツいてない。
ネコは
どこから出してきたのか
柔らかな毛布にくるまって
窓辺で雨を見ていた。
このネコ
いつまで居座るつもりだろう。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコは
何でもないことのように、スミレと言った。
スミレが俺のそばにいてくれるから。
スミレの心当たりなら
ある。
つまりこのネコは
スミレ、私の祖母の知り合いということだろうか。
同姓同名でなければ。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
どんなゴーモンだよ。とネコが言った。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
わたしには雨も晴れも関係ない。
雨が降れば
荷物が増えるのが面倒だなと思うだけだ。
疲れていたが、夕食は諦める。
だって、雨だから。
食事を一回抜いたところで死ぬわけでもないし
ただ
ネコのことだけが気になった。
ユカリ
ネコ
ネコ
ネコ
ユカリ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコは柔らかな毛布にくるまれて
眠そうな声でそう言った。
何もないわけじゃない。
必要なものはちゃんと揃っている。
ただし、二組ずつ。マグカップもお茶碗も箸も。
写真だけは捨てた。
もう終わりにしようと告げられたあの日に。
それは
わたしの最後のプライドだったのだと思う。
どこか頼りない彼は
いつも
わたしの顔色を伺っては
僕なんかでごめんねと繰り返した。
交通の利便性よりも
職場の近くだからと言う理由で選んだこのアパートは
相場より若干安いのがウリだった。
事故物件?
そうではない。
ただ、駅が遠く近くに何もないような場所だからだ。
あるのは会社のそばにフランチャイズのコンビニが一軒だけ。
雨は
まだ降り続いていた。
雷は鳴っていなかったが、時折思い出したように
窓ガラスにザアッと打ち付けては
雲の間から月の光が射し込んでくるような
そんな晩だった。
ネコはいつの間にか眠ってしまったようだ。
柔らかな毛布は、くるまるには気持ちが良かったが
雨の窓辺で眠るには寒すぎる。
わたしはクローゼットから夜着を出して
ネコにかぶせた。
それは
一人暮らしを始めるわたしのために、おばあちゃんが作ってくれたもので
彼が愛用していた布団だったが
そんなことは忘れたふりをする。
ネコは一瞬だけ目を開けてわたしを見上げ
夜着に愛しげに頬をすり付けた。
彼と知り合ったのは、学生の頃だ。
一つ年下の朋希は、所在なさげに
よく下を向いて歩いていた。
何が気になった、というわけでもない。
ただ、よく見ると耳の形がきれいだった。
それが、最初の理由。
じゃあ、先に声をかけたのは?確か……
嫌なことを思い出しかけて、やめた。
気持ちが沈むのは、雨とネコのせいだ。
ネコは軽いいびきをかいて
ぐっすりと眠っていた。
ユカリ
ユカリ
だって俺、スミレのネコで
今はユカリのネコだから
ネコの声が
不意に耳元で聞こえた気がした。
仕事は楽しい。
お客様の話しを聞くことも
たまにそれはクレームでもあったが
たいていの場合は
一言二言の挨拶でも
笑顔でありがとうと言ってもらえた。
残業が多くなったのは、時期のせいでもある。
朋希はわたしのために
夕飯を用意して待っていてくれていたが
正直なところ
放っといてくれればいいのにと思う日が増えていった。
冷蔵庫の中のチョコレートと栄養ドリンク。
家に帰ってからの会話すら面倒に感じるほど
疲れていた。
朋希はそんなわたしに
僕なんかでごめんね
と、困った顔をして言った。
雨の晩は
思い出したくないことばかり思い出す。
雨の音を聞きながら
ベッドの中で朋希のことを考えていたわたしの髪を
ネコが撫でた。
夜着と毛布だけの窓際は寒かったのだろう。
その手はひんやりと冷たく
氷みたいだ。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコは冷たい手でわたしの髪を梳きながら
右手を握った。
冷たい冷たい
氷の手、で。
わたしもあの時
朋希の手を握れば良かったのだろうか。
僕なんかでごめんね
朋希の寂しげなあの瞳が
まぶたの裏にちらついて離れない。
起きるとネコは昨晩と同じ場所で
おばあちゃんの夜着に包まれて幸せそうに
微睡んでいた。
ユカリ
ユカリ
寝起きの不機嫌さも相まって
思わず口調がキツくなる。
ネコは特にわたしを気にする様子もなく
夜着の中でモソモソと寝返りを打って
にゃあ
と鳴いた。
出勤にはまだ早かったが、昨夜から何も食べていないことを考えると
早めにコンビニで食事を済ませたいところだ。
たぶんネコもお腹を空かせているかも知れないとは思ったが
起きてくる気配もないので
置いていくことにする。
リビングのローテーブルに千円札を2枚。
ネコの食費なんて見当もつかない。
ユカリ
わたしは玄関の鍵を閉めた。
朋希のことは
見ているつもりでいた。
話しだって、ちゃんと聞いていた。
だけど。
朋希の抱える寂しさに気付くことができなかった。
今でも好きか?と聞かれると、困ってしまう。
即答できないのは、迷いがあるせいだ。
僕なんかでごめんねと言った本当の意味は何だったのか
わたしには、わからない。
むくんでキツくなった夕方のパンプスと、やたら重たいカバン。
雨は降っていなかったが、ただ眠りたい。
「心がトゲトゲする時は、誰かに手を握ってもらいなさい」
あの氷のように冷たい手は
また、わたしの手を握ってくれるだろうか。
ネコ
ネコが咎めるように言った。
ユカリ
ネコ
ネコ
ネコが言っているのは
食費のつもりで残した2千円のことだろう。
自称おばあちゃんのネコに食事も用意しなかった
わたしなりの誠意だ。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコは得意げに鍋をかき回した。
鍋からは
スパイシーではあったが、野菜のたくさん煮込まれた
おいしそうな香りが漂っていた。
ユカリ
ネコ
ネコ
ネコ
ユカリ
同じ言語をしゃべっているはずなのに
会話が噛み合わない。
ネコはネコで
勝手なことをしゃべり続ける。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ユカリ
ユカリ
ユカリ
ユカリ
ネコ
ネコは心底嫌そうな表情で
大きい方のカレー皿に白飯を盛りつけた。
青い縁取りのある大きなお皿と
ピンク色の小さめのお皿。
ネコは青い方のお皿にカレーをよそって
わたしの前に置いた。
ネコ
ネコ
どおりで、懐かしい香りがする。
ネコは小さめなピンク色のお皿に
こぼれるほどのカレーを乗せてテーブルについた。
ネコ
ユカリ
ネコ
ネコ
ネコ
ユカリ
ぐうぅっとお腹の鳴った音がした。
ユカリ
ユカリ
ネコはわたしから目をそらして
ネコ
と、他人事のようにそう言った。
ユカリ
ネコ
冷蔵庫にあったのはチョコレートと栄養ドリンク。
ネコにとってこの食事は
今日、口にする唯一まともな食物ということか。
ユカリ
ユカリ
ネコ
なかなか食事に手を着けないわたしに業を煮やして
ネコ
と、手を合わせた。
ユカリ
ユカリ
ユカリ
ネコは一瞬だけ悲しそうな目をしてから
大きな口を開けてカレーのスプーンをくわえた。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ユカリ
ユカリ
空腹は最高のスパイス
なんて言ったりはするけれど。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコは2杯目のカレーをよそいながら言った。
ユカリ
ユカリ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
わたしの前に置かれた青い皿は
朋希が使っていたものだ。
もちろん
ネコが知るわけもないのは分かっていたが
無性に腹が立った。
わたしは
きっちり半分だけカレーを食べると
残りを
青いカレー皿ごとゴミ箱に投げ入れた。
朋希の思い出が一つ
ゴミ箱の中へ消えた。
僕なんかでごめんね。
頼りのない朋希の口癖が思い出された。
この罪悪感は
誰に対してのもだろう。
ネコは相変わらず窓辺に
柔らかな毛布とおばあちゃんの夜着で寝床を作って
空を見上げていた。
笑った口のように細い弦月が
濃紺の夜空に浮かんでいた。
ネコ
独り言のようにネコが言った。
ネコ
ネコ
ユカリ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
名前は違っても月は月のように
どんなスミレでも
スミレはスミレだから。
重そうなまぶたを二度三度しばたいて
ネコは一つため息をつくと
眠りに落ちていった。
一人で眠るには広すぎるセミダブルのベッドの中で
思い出されるのは朋希のことばかりだ。
どんなスミレでも、スミレはスミレだから。
ネコは本当に
おばあちゃんのことが大好きだったのだろう。
わたしはそっとベッドから抜け出して
ネコの寝顔を見下ろした。
ユカリ
ユカリ
ネコは目を開けることもなく
冷たいあの手でわたしの手をつかむと
夜着の中に引き込んだ。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
夜着の中でネコは
わたしの髪に頬ずりをして
寝ぼけたような声で言った。
ネコの首筋からは
朋希と同じボディーソープの香りがした。
ゆっくり、ゆっくり
鼓動が聞こえる。
とくん、とくん
規則正しい拍動。
朋希と同じ香りに抱かれて聞こえた胸の音は
何故かとても切なくて
わたしは声を押し殺して泣いた。
冷たい指先が髪を梳く。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
からかうように言ったネコの声は優しくて
それは
朋希と別れてから初めて流した涙だったことを
わたしは
ようやく思い出した。
まだ暖かいお弁当と、ラップのかかったおにぎり。
ネコはいつもの場所で
幸せそうないびきをかいていた。
わたしはいつものように
ローテーブルに千円札を二枚置くと
お弁当の包みを出勤用のカバンに入れた。
海苔の巻かれた俵型のおにぎりを
一つだけ口に入れて玄関を出ようとしたわたしに
ネコ
膨らんだ夜着の中からネコの声が聞こえた。
どうせ寝言だろう。
無視をしてパンプスを履く。
ネコ
ネコ
ネコ
もそもそと寝返りを打ちながら
ネコが言う。
幼い頃によく聞かされたセリフだ。
ただ、今は時間がない。
わたしはキシリトールを口に放り込んで
慌てて家を出た。
あの時、朋希は息を弾ませて追いかけてきて
わたしの目をまっすぐに見つめた。
いつもは下を向いて歩いている朋希と
目を合わせたのは初めてのことだ。
朋希は警戒するようにわたしから距離をとって
片手で自分の耳を触った。
耳。
よく見ると、朋希はきれいな形の耳をしていた。
耳を触ってから朋希は
握っていた右手を開いてわたしに向けた。
青いトンボ玉のイヤリングが一つだけ。
濃紺に淡いピンク色で桜の柄が描かれたものだ。
わたしは、ハッと息をのんで耳たぶに触れた。
……ない。
朋希
朋希は申し訳なさそうに
イヤリングをわたしの手のひらに乗せた。
それが、最初の出会い。
あのイヤリングがどこにいったのか
今でもわからない。
わたしたちは
それから少しずつ話すようになり
朋希は
朋希
と、はにかみながら呼んだ。
あの頃のわたしには
そばに朋希がいることが当たり前だった。
優しい優しいわたしの朋希。
はにかんだ声で
朋希
と呼ぶのも
しゃべる前には必ず
朋希
と言うのも
今思えばそれはどんなに幸せなことだったか。
僕なんかでごめんね
そんな風に言わせてしまったのは、わたしだ。
ネコが用意してくれた風呂敷包みを開くと
やっぱりそこには
朋希が使っていた大きめのお弁当箱が入っていた。
雨が降る。
誰かが泣いているような細かい雨が
糸を引くように降っていた。
ネコが来てから、雨ばかりだ。
雨が降ると、嫌なことを思い出す。
だが
誰かが待つ家に帰るのは
悪い気分ではなかった。
それが例えネコだったとしても。
雨の滴を小さなタオルで払って
わたしは玄関の鍵を取り出した。
ネコがいれば鍵は開いているのだろうが、念のため。
期待を裏切られるのは
好きじゃない。
でも
帰ったら玄関の前に
朋希がいた。
ユカリ
それ以上の言葉は見つからなかった。
朋希はいつものように困った笑顔を見せて
朋希
と小さな声でいった。
朋希の腕の中で
やたら太った白いネコが
ネコ
と鳴いた。
朋希
開けた玄関の隙間から慣れた足取りで部屋に入ったネコを見送って
朋希が尋ねた。
ユカリ
朋希
朋希
ユカリ
朋希
朋希
朋希
とっさに。
わたしの手は、寂しげに微笑んだ朋希の腕をつかんでいた。
朋希
怪訝そうに朋希が呼ぶ。
普段のわたしなら、絶対にしない。
ユカリ
ユカリ
ユカリ
催促するように、いつもの窓際から
ネコ
ネコが鳴いた。
朋希
鍵につけたキーホルダーを見つけて、朋希が言った。
それはあの日、朋希が拾ってくれたイヤリングを
キーホルダーに加工したものだ。
濃紺のトンボ玉。
我が物顔で柔らかな毛布にくるまれたネコが
咎めるように、にゃあと鳴く。
ユカリ
ユカリ
朋希
朋希
朋希
懐かしそうに言った言葉は、過去形だ。
今はもう、わたしの朋希じゃない。
心がえぐられるように痛んだ。
ネコ
もう一度ネコが鳴いた。
朋希
朋希
朋希
言い訳するように朋希が言った。
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希はゆっくりとネコの話しをした。
ネコは素知らぬ顔でまどろんでいる。
朋希
朋希はそっと白いネコの頭を撫でた。
ネコはされるがままに撫でられて
片目だけ開けて鳴いた。
ネコ
ユカリ
一瞬、ネコがしゃべったように聞こえた。
ネコがしゃべるわけない。
そんなことは分かっている。
朋希
ユカリ
ユカリ
ユカリ
ユカリ
朋希
朋希
朋希が呆れたように言った。
一緒に暮らしていた頃と同じ口調で。
こうして向かい合っていると、別れたなんて嘘みたいだ。
白く太ったネコを撫でながら微笑んでいた朋希は
何かに気付いたように視線をそらして
そろそろ帰るよ、と言った。
外はまだ雨が降っていたが
わたしには朋希を引き留める権利もない。
ユカリ
朋希
朋希
そぼ降る雨は
誰の涙だろう。
ネコ
あの冷たい手が、わたしの髪を梳く。
雨がやんだのは
朋希が家を出てすぐのことだった。
ユカリ
ネコ
ユカリ
ユカリ
ネコ
ネコ
スミレ。そうか。
おばあちゃんちの庭には、小手毬の木が植えてあった。
初夏になると白い花を咲かせる木だ。
白い花と、白いネコ。
ユカリ
こでまりに髪をなでられながら
一番の疑問を聞く。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
こでまりが唐突にそう尋ねた。
おばあちゃんが、死んだ?
冷たい手が、わたしの右手をぎゅっと握り込んだ。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ユカリ
ネコ
ネコ
ネコ
こでまりが話しているのは、わたしとおばあちゃんのことだ。
でもそれは少しも現実感がなく
ただただ冷たい手の感覚だけが
リアルだった。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
夢と現実の間で
こでまりの声が遠く近く
歪んで聞こえた。
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
こでまりの声を聞きながら
わたしは
深く深く夢の中へ落ちていった。
心がトゲトゲしている時は
誰かに手を握ってもらいなさいね、紫(ゆかり)ちゃん。
おばあちゃんと紫ちゃんは同じ名前なのよ。
おばあちゃんはよくそう言って、イタズラっぽく笑った。
おばあちゃん
ユカリ
記憶の中の幼いわたしが問う。
おばあちゃん
おばあちゃん
おばあちゃん
おばあちゃん
おばあちゃん
夢はそこで終わり
開けっ放しだったカーテンから眩しいほどの朝日が射し込んでいた。
いつもは夜着の中で微睡んでいるこでまりの姿が
消えていた。
こでまりがいなくなったことよりも
今は
おばあちゃんの夢が気になった。
居心地悪く寝返りを打つと
部屋の外から
ネコ
聞き慣れた声がした。
ネコ
開けろと催促しているみたいだ。
寝起きの素足で冷たいフローリングに降り
わたしは
玄関を開けた。
朋希
太った猫を抱いた朋希が
申し訳なさそうに目をそらした。
朋希はチラチラとわたしの顔色を伺いながら
朝食の支度をした。
その足元にまとわりつくようにこでまりがいる。
朋希
朋希
朋希
チョコレートと栄養ドリンク。
あとはコンビニ弁当。
朋希がいなくなってからの食事はそれだけだ。
朋希はわたしよりわたしを知っている。
だから冷蔵庫を見て、そんなことを言ったのだろう。
ネコ
そうだね。
充実した冷蔵庫はこでまりのおかげだ。
朋希
朋希
朋希
ユカリ
ユカリ
わたしは朋希の足元でじゃれているこでまりを睨んで
謝った。
泣いてむくんだノーメイクの素顔。
少し前まで同棲していたとは言え
元彼には見られたくないものばかりだ。
朋希
朋希
朋希
バツが悪そうに朋希が言った。
朋希
朋希
ユカリ
ユカリ
ネコ
咎めるようにこでまりが鳴く。
いつもの朋希なら申し訳なさそうに
僕なんかでごめんね
と言うところだ。
でも朋希は
あの時と同じようにわたしの目をじっと見つめて
朋希
一言だけ言った。
トンボ玉を拾ってくれたときと同じ
真剣な表情をして。
朋希
ユカリ
朋希
朋希
朋希
ユカリ
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
ユカリ
ユカリ
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希はぎゅっと下唇を噛んで、言葉を切った。
朋希
そう言って開いた朋希の手の中には
あの日になくしたはずのイヤリングの片方が
握られていた。
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
ユカリさんと繋がっていたかったんです
朋希は小さな声でそう付け足した。
朋希
朋希
朋希
朋希
朋希
会話が減ったのは、残業が増えたせいもある。
慣れない仕事に
毎日
泥のように疲れていた。
それは朋希のせいじゃない。
わたしの事情だ。
朋希
朋希は唇を噛んだまま涙をこぼした。
わたしは朋希の手からトンボ玉を受け取った。
朋希がわたしについていた嘘は、これでチャラだ。
朋希は黙って空になった手の中を見つめていた。
私たちを繋ぐものは
もう、ない。
ネコ
こでまりが悲しそうに鳴いた。
ユカリ
ユカリ
わたしはこでまりを一睨みして、鍵からキーホルダーをはずした。
あの時のイヤリングの片割れだったものだ。
心がトゲトゲしている時は
誰かに手を握ってもらいなさい。
誰かの手を握ってあげなさい。
懐かしいおばあちゃんの声が聞こえた気がした。
朋希
ユカリ
想像していたよりもずっと
朋希のその手は温かかった。
ネコ
こでまりは満月の下で不満そうに言った。
ユカリ
ネコ
まるで明日の天気の話しでもしてるみたいだ。
0時をすぎた。
ネコ
ネコ
ネコ
ユカリ
ネコ
こでまりは太いしっぽをパサパサと振って
何かを迷っているようだった。
ユカリ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
ネコ
しっぽが不安そうに揺れる。
わたしはこでまりを抱えて前足を握った。
それからわたしは朝イチで
電車を乗り継ぎバスに揺られ
静かな山間の田舎へ向かった。
舗装もされていない道の先に
どこかで見たことのあるような人影が
うろうろとおばあちゃんの家を覗いていた。
栗色の髪に、まだ幼い顔立ちをした
高校生くらいの少年だ。
辺りは静まりかえり
歌うような読経の声だけが微かに聞こえていた。
ユカリ
声をかけると彼は
不審者を見るようにわたしを見つめ、後ずさりをした。
警戒したその様子は、ネコみたいだ。
ユカリ
ユカリ
ユカリ
ユカリ
ネコ?
ユカリ
ユカリ
わたしは逃げ腰の彼の手をつかんで
門の中に引き入れた。
読経の声がひときわ大きく聞こえた。
彼は
おばあちゃんの遺影に深々と頭を下げたまま
肩を震わせて泣いた。
庭の隅の小さな小手毬の花の下で
まるまると太った真っ白なネコが
微睡むように死んでいた。
了