テラーノベル
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十月中旬の松本は 朝の空気がきりりと肌を刺した
どんよりとした重い空気を 換気するべくカーテンを開けた時
射抜くように差し込んだ朝日に 夏目悠は思わず目を細めた
快晴の日には 東の空から昇る陽の光が
遥か西に連なる北アルプスの 山並みを淡く照らし出す
悠が暮らすアパートは 松本駅のお城口から 歩いて七分ほどの
線路沿いの少し奥まった 住宅街にある
家賃は父が払っていたが
悠はそれに納得していなかった
一人になりたいという本音を隠した
医学部での勉強に集中するため という名目で許された一人暮らしだったが
お金の面で父を頼るということが
悠には精神的な鎖になっていた
「家賃を払ってやっているのだから 余計なことは考えず勉強しろ」
そんな父の期待と支配が滲んでいた
悠は一つため息をついて窓を開けた
医学部での重苦しいカリキュラム
試験勉強のプレッシャー
一人でいても 駅前の人混みに紛れても
どこにいてもその重圧から 逃れられないような息苦しさを感じていた
悠は一人になりたかった
大学へ向かう道すがら 悠はいつも
駅前にある喫茶店に立ち寄る
楕円の形をした 木の看板が
「ル・シエル」と彫られ 扉に吊るされている
悠は扉の前に立ち まるで大切な用事でもあるかのような
妙な緊張感を帯びた 一呼吸を置いた
店名を確認するように 看板をしばらく見つめる
悠は扉に手をかけ
いつもより ゆっくりと引いた
からん、とドアベルが鳴る
磨き上げられたガラス窓を通して 柔らかく差し込む朝の光
古い木製のテーブルや椅子
壁に飾られたモノクロの写真
控えめに流れるジャズの音色と
カウンターの向こうから漂う 淹れたてのコーヒーの香り
ル・シエルは何も変わらず いつも通り悠を出迎えていた
扉が閉まるより早く、悠は カウンターにいる一人の店員と目があった
彼女は一週間ほど前からここで 働き始めた新人店員で
白いブラウスに 黒いスカートの制服がまだ新しく
少し落ち着かない様子に見えた
それでも
他の店員たちが忙しなく 立ち働く中で
彼女は常に穏やかな 空気をまとっていた
注文を受けるときも カップを運ぶときも
どこかしら嬉しそうな 表情をたたえていて
それは形式的な 接客の笑顔というより
内側からふとこぼれた 日だまりのような笑みだった
慣れない所作には つまずきも多いが
本人は気に留めていない様子で
くすりと笑みをこぼしていた
規則や効率よりも
目の前のことに身を委ねているような その姿には
牧歌的で享楽的な 印象を悠に与えた
喧騒の中でも 不思議と浮つかず
足元だけが静かに 揺れる水面のように
ひとり淡々とした 調子でそこにいる
悠は彼女 雨宮さんの名前をまだ知る前
初めて見た時から
そんな彼女のことが 密かに気になっていた
いつものカウンター席に 腰を下ろすと
店内の穏やかなざわめきが すっと遠のいたような気がした
悠は決まりが悪そうに 腰を浮かしてもう一度座り直した
少しばかり鼓動が 高鳴っているのが分かる
手元のメニューに 目を落としつつも
悠の意識はどこか 宙を漂っていた
ほどなくして雨宮さんが ゆっくりと歩いてきた
彼女はトレイに載せたお冷とおしぼりを 静かに目の前に置いた
散漫していた意識が 視線と共に一点に集中した
そして視線を上げたその拍子に ふと目が合った
薄茶色の髪 白磁のような肌
わずかな紅を宿す頬
それらが朝の陽光に当てられて
幻想的な輪郭を 浮かび上がらせていた
「あ……どうぞ」
彼女は小さくそう言って 微笑んだ
悠は平静を保ったような 軽い会釈をしながらも
胸の内がざわついていた
言葉にできない 何かが心をくすぐって
困った視線の置き所を メニューに戻した
紙とペンを手にした彼女が やや間を置いて尋ねた
「ご注文は、お決まりですか?」
その声もまた 他の誰とも違う調子で
角の取れた 静けさを帯びていた
悠も少しだけ間を置いて
再び顔を上げた
「あの、おすすめはありますか?」
雨宮さんは悠の問いかけに 少しだけ目を見開いた
「えっと…シナモンアップルティーが好きです
まだあまり慣れてないんですけど…」
さきほどまでの笑みは 真面目な表情に変わり
彼女はどぎまぎしたように 視線を朝日の差す窓辺へ移し
悠の言葉を 待っている様子だった
悠の方もそれに対する 適切な返事が思いつかず
「じゃあ、それをください」
と簡潔に言葉を返した
どうやら予想外の問いかけにはまだ あまり上手く対応できないようだった
自分と似たような 人間味のある一面を見て
悠は少し親近感を覚えた
「はい、シナモンアップルティーですね」
彼女は自分に言い聞かせるように 復唱してペンを走らせた
彼女はメモを取り終えると
小さく頷いてカウンターの奥へと 向かっていった
その背中にはまだ仕事に慣れない 新人のぎこちなさと
それでも懸命に努めようとする 真面目さが見て取れた
いつもなら ホットコーヒーを頼むだけなのに
今日はそうしなかった
そして彼女が見えなくなって ようやく
緊張の糸が解れたように 固まっていた背筋を丸めることができた
そしてそれがいかに 奇妙なぎこちなさを生み
脈拍を高め
目に映る彼女の様子を 一際美しく象っていたことを実感した
数回の瞬きと 一つ深い呼吸ののちに
悠はここがいつもの喫茶店
「ル・シエル」 であることを思い出した
飲み物を待つ間 悠はスマートフォンを取り出した
友人である陽翔から メッセージが届いていた
『昨日の合コンどうだった? タイプの子いた?』
悠はメッセージを読みながら 昨晩の出来事を思い出した
勉強づけの日々にうんざりして なんとなく誘いに乗ってみたが
結局、表面的でつまらない 会話に終始しただけだった
「付き合う人間も選べ」
という父の教えを 不意に思い出しながら返信を考える
最近では誰かと親しくなること自体にも いつの間にか興味が薄れていった
それはもしかしたら純粋に付き合う 相手を求めていないからかもしれないし
父に対する漠然とした 反発心からなのかもしれない
どちらも正しいかもしれないし 間違っているかもしれない
それらをまとめて出た結論が
面倒くさい ということだった
『あんまり楽しくなかった ああいうの疲れるわ』
短く返信をした
恋愛にあまり関心がない それは偽りのない気持ちだった
しかし
すぐそこで一生懸命に 働く彼女を見ていると
先ほど感じた胸の温かさや 彼女の笑顔が思い出される
それは、恋愛感情なのかもしれない
でも、それだけでは説明できない
どこか目が離せないような 心配に近い感情も混じっていた
雨宮さんがシナモンアップルティー を運んできた
ガラスのカップに注がれた 琥珀色の液体から
甘くスパイシーな 香りが立ち上る
カップをソーサーに乗せ そっとカウンターに置く
手つきはまだおぼつかないが 丁寧だった
そして彼女は再び悠を見て 少し照れたように
しかし今度は最初の時よりも少しだけ 自信を持ってみえた声で言った
「お待たせしました」
悠は彼女の顔を見て、小さく 「ありがとうございます」と返した
彼女が注文品を テーブルに置く時
ブラウスの袖口からちらりと見えた手首が 一瞬、悠の気を引いた
皮膚の表面にうっすらと ひっかき傷のような
複数の細い線が 浮き上がっているように見えた
それはすぐに 袖で隠れてしまい
悠はそれが何だったのか 確信を持てなかった
ただ、それが雨宮さんの纏う どこか触れたら壊れてしまいそうな
儚さの理由の一つであるような
そんな直感が働いた
彼女はまた一つ 悠に説明のつかない感覚を与えていた
シナモンアップルティーを一口含むと 甘くスパイシーな香りが鼻腔をくすぐり
温かい液体が喉を通る
いつものコーヒーとは全く違う味だった
しかし どこかホッとするような
優しい味わいだった
雨宮さんが「好き」だと言った味
今日は「ル・シエル」の空間全体の 温度が変わったように感じられた
いつもの穏やかな喧騒の中に 微かな輝きが灯ったかのようだった
悠は、重圧で凝り固まっていた 自分の心が
彼女の存在によって静かに
しかし確かに 揺り動かされているのを感じていた
これまでの価値観とは 全く異なる種類の
温かく、柔らかい 感情だった
初めてのシナモンアップルティーを 飲み終え
伝票を持ってレジに向かうと レジには雨宮さんともう一人店員が立っており
彼女は隣で客と話す 先輩店員の様子を
真剣な眼差しで見つめていた
悠が会計を済ませようとすると 彼女が先輩店員に代わってレジを打とうとする
「大丈夫?無理しなくていいよ」 と先輩店員が優しく声をかけると
雨宮さんは「はい、やってみます」 と答えた
その声にかすかな緊張と
新しいことに挑戦しようとする 健気な意志が感じられて
悠は思わず微笑む 口元を思い出したように隠した
レジ操作もまだ慣れていない様子で 先輩店員が横からさりげなく手を添える
まるで子の心配をする親のようだな と悠は思った
会計を待つ間
悠はレジ横に並べられた 商品の棚に目が留まった
「ル・シエル」で提供している様々な種類の コーヒー豆やティーパックが並んでいる
その中に、今日自分が飲んだ
シナモンアップルティーの ティーパックを見つけた
「あの、このシナモンアップルティーの ティーパックも一緒にいただけますか?」
ほとんど咄嗟に悠がそう言うと 雨宮さんは少し驚いたように
しかしすぐにパッと顔を輝かせた
「はい!気に入っていただけましたか?」
「はい、美味しかったです」
あまり気の利いた返事ができない 自分を少し悔いながらも悠がそう答えると
彼女は心底嬉しそうに そしてホッとしたように微笑んだ
その笑顔は 朝一番に見せた
あの曇りのない 輝きを再び帯びていた
「嬉しいです!」
そのたった一言が 悠の胸に深く響いた
彼女の純粋な喜び その無垢な笑顔
悠は口元を隠していた 手を下ろした
会計を済ませながら 悠はふと思い立って口を開いた
「あの、もしよかったらなんですけど…」
雨宮さんが不思議そうに 悠を見上げた
その瞳には、好奇心と 少しの戸惑いが浮かんでいた
「その…また、お話できたりしますか?
もし、その…迷惑じゃなかったら…」
言葉を選びながら 悠は続けた
自分でもなぜこんなことを 言っているのか分からなかった
普段ならこんな 直情的な言動をすることはない
しかし、彼女の純粋な笑顔と どこか危うさを孕んだ姿が
悠の内側にある 抑え込まれてきた何かを静かに
しかし確かに突き動かしていた
これまでの価値観からは想像もつかない 全く異なる感覚がした
彼女に対するこの感情は いわゆる恋愛感情なのか
それとも心配や 不安に近いものなのか
まだ自分でも判然としない
ただそうするべきだという感覚が 意のままに悠を突き動かしていた
雨宮さんは少し 迷ったような顔をした
それは見慣れない客からの
予期せぬ申し出にどう反応すべきか 考えているようだった
彼女は先輩の視線を感じたのか それとも悠の眼差しに何かを感じたのか
やがて小さく頷いた
「はい…もし、よかったら…」
その小さな肯定の言葉が 悠の胸にじんわりと温かい光を灯した
「本当ですか!」 と思わず声が弾んだ
二人はその場で 連絡先を交換した
スマホの画面に表示された 名前を見て悠は呟いた
「詩織さん…雨宮詩織さん」
どこか懐かしく 温かい響きをもって聞こえた
「はい、雨宮詩織です」
「夏目悠です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
短い、ぎこちないやり取りだった
悠はもう一度「頑張ってください」 と声をかけ
喫茶店の扉を開けた
からん、とドアベルが鳴り 暖かくも少し冬の気配を感じる空気が肌を撫でた
(不思議な子だな…)
大学へ向かう道を歩きながら 悠は先ほどの出会いを反芻していた
駅前の人通りの多い道も 今日はいつもより明るく感じられた
雨宮さんの不器用な仕草 緊張した声
あの純粋な笑顔
そして、彼女の袖からちらりと見えた あの薄く白い線のようなもの
それらが全て 悠の中で一つの像を結んだ
傷つきやすく 守ってあげたくなるような
同時に、静かな強さを秘めた女性の像だった
支配とも呼べる 父の下で
悠は長い間、自分自身の感情に 蓋をして生きてきた
恋愛にあまり興味が持てなくなったのも きっとそのせいだ
自分自身の内側から湧き上がる不確かな感情は 抑え込むべきものだと、そう教えられてきた
シナモンアップルティーの優しい香りが まだ微かに残っている
そこから連想されるものは 医学書のページをめくる音でもなく
父の怒号や罵声でもなく
稲蔵さんの少し上ずった声と あの笑顔だった
(また話したいな…)
そう思うと足取りが少し 軽くなったような気がした
大学までの道のりも いつもより短く感じられた
いつもの重圧は 確かにそこにあったが
彼女との出会いが
その重圧をほんの少しだけ 軽減してくれたように感じられた
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