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家に帰るには、少しだけ心が擦り切れすぎていた。
電車に乗る気にもなれず、知らない通りを歩いているうちに、 角を曲がった先で、ぽつんと灯りのついた店を見つけた。
いつもなら、そのまま通り過ぎてしまいそうな、そんな微かな灯り。
ガラス越しの明かりが、今の私には少しだけあたたかく見えた。
ドアを押すと、「チリリ…」と小さなベルの音が鳴った。
店内には客の気配はなかった。
閉店間際らしく、椅子はすべて整えられていて、 時間だけが、ゆっくり残っているようだった。
店員
顔を上げると、カウンターの奥に人影があった。
整えられたテーブル席に座るのが、なぜか忍びなくて、 私はそのままカウンター席の端に腰を下ろす。
店内は全体的に薄暗く、 カウンターの上だけが、必要最低限に照らされていた。
カウンターの奥で、彼女は準備をしていた。
カップを置き、受け皿を揃える。
スラリとした指は、動きに無駄がなく、淡々としていた。
私は、その滑らかな動きをぼんやりと眺める。
ふと、左手の薬指の細い指輪に目がとまった。
明かりを受けて、 金属だけが小さく光を返す。
薄暗い店内では、 その控えめな輝きが、 かえってはっきりと目に入った。
店員
不意に声をかけられて、 私は少しだけ肩を揺らした。
考える前に、口が動く。
のぞみ
店員
彼女は小さく頷いて、 そのまま準備に戻った。
言ってから、遅れて気づく。
私はコーヒーが飲めない。
昔、一度だけ口にしたことがある。
あの人のカップを、 すぐそばで見ていて、 同じものを口にしてみたくなった。
味は、よく覚えていない。
ただ、 置いていかれたくなかった、 という感覚だけが、 いまもはっきり残っている。
それきり、 自分には合わないものだと思い込んで、 避けてきた。
のぞみ
こういうところだ。 自分のことなのに、 いちばん分かっていない。
店員
しばらくして、 コーヒーがカウンターの上に置かれた。
湯気が立ち上って、 薄暗い店内にゆっくり広がる。
カップに口をつける気になれず、 私はしばらく、それを眺めていた。
彼女が何も言わずに、 砂糖とミルクを差し出してくる。
店員
それだけだった。
言われるままに、 砂糖を入れて、ミルクを足す。
一口、飲んだ。
思っていたより、 ずっとやさしい味がした。
どうして、 最初からそうしなかったんだろう。
そう考えた瞬間、 胸の奥が急に苦しくなる。
理由は、 はっきりしなかった。
ただ、 もう抑えがきかなかった。
視界が滲んで、 カップの縁がぼやける。
落ちた涙が、 机の上に小さな跡を残した。
涙が落ちたのを、 私は慌てて手の甲で拭った。
こんなつもりじゃなかった。
ただ座って、 コーヒーを飲んで、 少し落ち着くだけのはずだった。
のぞみ
声が思ったより掠れて、 それがまた恥ずかしかった。
彼女は何も言わずに、 カウンターの下から紙ナプキンを一枚取り出して、 そっと差し出した。
店員
それだけ言って、少しだけ視線を外す。
見ないでいてくれる、 という配慮が、今はありがたかった。
私は紙ナプキンを受け取って、 もう一度、コーヒーに口をつける。
さっきより、 少しだけ苦味が落ち着いている。
のぞみ
思わず、口からこぼれた。
のぞみ
彼女は小さく笑った。
店員
その言い方がやけに穏やかで、 なぜか胸に残る。
のぞみ
声に出した途端、 自分でも驚くほど、言葉が続いた。
のぞみ
彼女は何も言わず、 カウンターの向こうで手を止めている。
のぞみ
のぞみ
話しながら、 カップの縁を、指でなぞる。
のぞみ
笑おうとしたけど、うまくいかなかった。
のぞみ
のぞみ
のぞみ
のぞみ
コーヒーの表面が静かにゆれる。
言い終えて、 少しだけ間が空いた。
彼女は、 相槌も打たず、急かすこともしない。
店員
そう言って、 彼女は優しい笑みを浮かべる。
胸の奥が少しだけ緩んだ。
不思議と、 懐かしい気持ちになる。
こうやって、 何も否定されずに そのまま受け止めてもらったことが、 以前にもあった気がした。
外を車が一台、通り過ぎていった。
タイヤが濡れたアスファルトを擦る音が、 店内までかすかに届く。
雨はやむことなく降り続いている。
遠くで信号の音が鳴っている。
ここだけ、 時間の流れが少し遅い。
私は、 カップを持ったまま、その音を聞いていた。
外をまた、車が一台通り過ぎていった。
濡れた路面を走る音が、店内にやわらかく残る。
のぞみ
独り言みたいに言うと、 彼女は窓のほうを見て、小さく頷いた。
店員
店員
その言い方が少し意外で、 私は顔を上げた。
のぞみ
店員
彼女はそう言って、 カウンターに手を置く。
店員
私は、 その言葉を飲み込むのに、少し時間がかかった。
のぞみ
静かにそう言う。
のぞみ
彼女は、 それを否定しなかった。
ただ、小さく頷いた。
──前にも、 同じことを話した記憶がある。
雨が嫌いだと言った私に、 相手は理由を聞きも、否定もしなかった。
その人の顔も、声も、 もう薄れてしまった。
懐かしさが胸の奥に静かに残る。
どれくらい時間が経ったのだろう。
カップの底が、 かすかに見える。
のぞみ
自分でも意外なくらい、 控えめな声だった。
彼女は壁の時計を見て、 小さく頷く。
店員
その一言で、 胸の奥がゆるむ。
のぞみ
言ってから、 少しだけ笑ってしまった。
さっきまで、 あんなに構えていたのに。
彼女は何も言わずに、 新しいカップを用意する。
注がれる音を聞きながら、 私はつい、口を開いていた。
のぞみ
彼女は、 ほんの一瞬だけ手を止めてから、少し驚いたような顔で微笑んだ。
店員
それだけなのに、 なぜか胸があたたかくなる。
——前にも、 同じようなことを言った気がした。
この場所じゃない。 この時間でもない。
でも、 誰かに向かって。
のぞみ
その一言が、 気づいたら、こぼれていた。
のぞみ
言い終わってから、 少しだけ後悔した。
閉店時間は、 もう過ぎているはずだった。
彼女は、 一瞬だけ時計を見て、
それから、 何も言わずにエプロンを外した。
棚からカップを一つ取って、 私の向かいに置く。
コーヒーを注ぐ音が、 店内に静かに響く。
店員
そう言って、 彼女はカウンター越しではなく、 同じ側に腰を下ろした。
距離が、 ほんの少し近くなる。
私は、 何も言えなくなって、ただ頷いた。
カップを持つ仕草が、 ゆっくりで、慣れている。
彼女の、左手の薬指が、店内の明かりを受けて控えめな光を放っている。
店員
誰に向けた言葉かも分からないまま、 彼女はそう言って、
一口、飲んだ。
その横顔に、 胸の奥がまた静かにざわつく。
そのざわつきから目を逸らすように
私はぽつりと言葉を発した。
のぞみ
のぞみ
のぞみ
のぞみ
そう言って、私は困ったように笑う。
彼女は 何も言わない。
のぞみ
のぞみ
カップの縁を指で軽くなぞる
のぞみ
一瞬、震えそうになる声を抑えた。
のぞみ
声が、少しだけ低くなる。
のぞみ
言葉を探すあいだ、 雨の音が、店内に広がる。
雨は止まない。
のぞみ
のぞみ
終わらせた、と言いながら、
終わっていないことを、 自分が一番分かっている。
のぞみ
そう言ったあと、 自分でも少し驚いた。
こんなふうに口にするつもりは、なかったのに。
彼女は、すぐには何も言わなかった。
カップを両手で包んで、 一口、ゆっくり飲む。
雨の音が、 その沈黙を埋める。
のぞみ
私は、 カップの中を見つめたまま言った。
のぞみ
声が、 少しだけ震れる。
のぞみ
のぞみ
雨の音が店内を満たす。
のぞみ
言い切った瞬間、 胸の奥が、すっと静かになった。
彼女は少しだけ間を置いてから、 口を開いた。
店員
彼女は、 視線を落としたまま続けた。
店員
店員
彼女が小さく息を吐いた。
店員
その言い方が少し辛そうで、 胸の奥がわずかに揺れた。
のぞみ
私は、 それだけ答えた。
本当は、 もっと言えた気がする。
でも、 ここまで話せただけで、十分だった。
しばらく雨の音だけが続く。
彼女は、 ふと顔を上げて言った。
店員
ほんの少し、間を置いて。
店員
その一言は静かで、 なにも断定していないのに、 妙に胸に残った。
店員
そう言って、 彼女はコーヒーを一口飲んだ。
私は、 それを見ているだけだった。
もう、 閉店時間はとうに過ぎている。
会計を済ませて、ドアの前に立つ。
のぞみ
いつもと変わらない声。
外に出ると、 雨は、 まだ降っていた。
傘を差して、 数歩歩く。
その途中で、 ふと足が止まる。
——今の。
胸の奥に、 小さな違和感が引っかかる。
私は、自分の話の中で、 相手のことを一度も性別で呼んでいなかった。
「彼女」なんて、 言っていない。
なのに。
振り返る。
カフェの明かりは、 雨に滲んで、輪郭がぼやけている。
中の様子はよく見えなかった。
きっと、 聞き間違いだ。
私は、 また歩き出す。
雨は、 相変わらず、 好きになれなかった。
でも、 さっきよりは、 ほんの少しだけ、 歩きやすい気がした。