開いていただきありがとうございます! このストーリーは、この連載の第十二話となっております。 注意事項等、第一話の冒頭を"必ず"お読みになってから この後へ進んでください。
昔の話をしよう。 毎日夢に見ていた貴方が、 まだ俺の手を握ってくれているうちに。 徐々に色を持つ感情に、俺が気づいてしまう前に。 罪悪感に駆られて、 此処から逃げ出してしまわないように。
幼く、弱く、泣き虫だったあの頃。 俺を守り、慰め、頭を撫でてくれたのは、 他ならぬ貴方だったと気づいたから。
コツコツコツコツ。 そう忙しない音を立てるヒール靴が、その赤さが、 記憶の中に鮮明に焼き付いている。 土足やら何やらの概念すらないような、 薄汚れた家だった。 俺は部屋の隅に縮こまって、 彼女の不機嫌極まりない顔と、 その前に転がる背中を、 ぼんやりと見つめていた。 幼い俺にとって、 これはありふれた、深夜の光景だった。
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息をするのも苦しい静寂が、 その声によって割られたように感じる。 黙っている彼に、痺れを切らせたのだろう。 彼女はぐっと眉を寄せて、 叩きつけるように刺々しい声を放った。
けれど、床に伏せっているその体は、 その声に反応しない。 否、できないと言うべきか。 それにまた気分を悪くした彼女の右足が、 動きを加速させていく。 コツコツコツ、と耳障りな音を立てて。
その音が、俺の心を波立たせる。 切羽詰まった精神状態の時に聞こえる、そんな音だから。 …そしてそれは、今だって変わらない。
"ライア、そういうとこだよ〜?w"
…あぁ、そうだ。 この癖はかつて、彼女の機嫌が悪い時の合図だった。 怖くて、寒くて、寂しい、 そんな時間が始まる合図だった。 落ち着かない気持ちが胸を支配する時に聞こえてくる、 最悪な音だった。
大切な人が、傷つけられる。 そんな、音だった。
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膝を抱えて俯いていた俺の耳に、荒い声が響く。 はっとして彼女たちの方を見れば、 あの黒い瞳がこちらを向いているのが見えた。 それに、背筋が凍っていくような感覚を覚える。
…たすけて、たすけて、
あの頃、胸の中で痛いくらいに響いていた声を思い出す。 …あぁ、これは。
"まだりうらは、うそつきじゃないよ。"
夢の中で俺に何かを訴えていた、 幼い声と同じだった。
たすけて、こわい、さむい、 おこってるんだ、おこってる…
絶えず響く沈黙のSOS。 それが通じるわけもなく、 あの赤いヒール靴がこちらへ向くのを見る。 コツ、コツ、と近づいてくる音。 ぎゅっと目を瞑って、 何が起きるのか分からない現状の終わりを願う。
暗くなった視界で、ふっと足音が途絶えた。
ー
その声に、目を開ける。 その、安心材料だった響きに。 声の方を見れば、 こちらに近づいてきていた彼女の足首が、 細い指に掴まれているのが分かった。 舌打ちを鳴らした彼女が、 先程まで全く動かなかったその体に向き直り、 また右足が忙しないリズムを刻む。
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ー
ー
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ダンッ!と床が音を立てる。 振動に身を震わせる。 勢いよく振り下ろされたヒールの靴が、 彼の腕のすぐ近くにあった。
ー
ヒステリックに叫ぶ彼女が、 彼の胸ぐらを掴んでぐらぐらと揺らす。 なされるがままの彼の頭が強く揺れて、 それと一緒に彼の髪がなびく。
…きれい、
そんな場合じゃないのに、また幼い声が頭に響いた。 自分の髪をふわりと触れば、 今日の朝彼がやってくれた、ポンパドールに手が触れた。
彼が持つ髪はひどく綺麗だった。 僅かな栄養が、全てそこに 注ぎ込まれているのではないかと疑うほどに、 艶やかで柔らかかった。 おかげで彼はよく性別を間違えられていたけれど、 「床屋には行けないから」と笑って誤魔化していた。 「長髪もかっこいい」って、そうやって。
それなのに、彼は俺の髪をよく整えてくれていた。 「お前にはこっちの方が似合う」と、俺の頭を優しく撫でて。 それは決まって、夜の家に二人きりの日。 汚れまみれの鏡を磨いて、 髪が落ちないよう新聞紙を引いて、 「床屋さんへようこそ」なんて、 悪戯っ子のような瞳で笑って。 「綺麗な顔してるから」とポンパドールにしてくれる髪が、 なんだか誇らしかった。
その、「綺麗な顔」は。 彼が守ってくれたものだとも、気づかずに。 俺は、鏡の中で無邪気に笑っていた。
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頭を揺らされ続ける彼が、そんな呻き声を漏らす。 しかし、彼女は止まる気配を見せない。 怖くて仕方がないのに、 その光景から目を逸らすことができなくて、 胸が痛いくらいに鳴っているのを感じる。
その時。 ガチャリ、という音がして、 寒い夜の風が吹き込んできた。
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現れた男もまた、 靴を脱ぐことなく彼女たちの方へ足を進める。 彼女はその声にようやく手を止め、 苦々しい表情で彼の胸ぐらから手を離した。
ー
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ー
ー
ー
大きな声で飛び交う口論。 幼い俺には、その大部分はよく分からない。 けれど、何度も繰り返される「馬鹿」と「子供」が、 自分のことであるというのだけ、痛いほどに分かっていた。
ごめんなさい。 わるいことして、ごめんなさい。 めいわくかけて、ごめんなさい。
何かわからないまま、頭に謝罪の言葉が渦巻く。 もし痛いことがあったら、謝らないといけない、と。 彼にたくさん言い聞かせられていたから。 だから、頭の中だけで、今日も少しだけ練習をする。
彼女たちの口論から、目を逸らせなくて。 逃げたい、と思うのに逃げられなくて。
…たすけて、
その声が頭で響いたと同時に、 全身がふわりと温もりに包まれた。
ー
囁かれた声と、優しく抱きしめられた体。 頭に感じる少しの重さ。 視界いっぱいに広がる黒。 …あぁ、これは。
ー
俺の気持ちを全て分かったような言葉たち。 ゆっくりとしたペースで撫でられる髪が、 こんなにも心地いい。
彼女たちの口論が遠ざかっていく。 その代わりに、彼の囁きだけが耳に残る。
ー
"おにいちゃん"
おにいちゃん
あぁ、そうだ。 あの頃はそう呼んでいた。 「ターゲット」じゃなくて。「兄貴」じゃなくて。
いつでもそう呼べば、 彼は俺に笑いかけてくれていた。 俺の頭をわしゃわしゃと撫でて、 頬をふわりと包んでくれた。 その手は小さく軽かったけれど、 どうしようもないほど温かくて。
ー
落ちてくる瞼に逆らおうと、必死に言葉を紡ぐ。 いつも床に転がっている彼が、 こうして俺を抱きしめてくれる時間が 少しでも長くあって欲しくて。 もちろん、彼自身はいつも こうしてやりたいと思ってくれているのは、 知っているけれど。
大丈夫?、という問いに。 少しだけ、時間がかかった。
"おにいちゃん"
ー
その声を聞いて、睡魔がさらに俺を引っ張る。 ぽん、ぽん、と一定のリズムで撫でられる頭と、 体いっぱいに感じる温もり。
思考が、切れる寸前。 この世界から切り離されていく感覚と共に、 聞こえた声。
"おにいちゃん"
あぁ、そうか。 今まで、思い出しかける度に、 その思考から逃げていたのは。 記憶から遮断されて、夢の中しかそれが現れなかったのは。 貴方が、「逃げろ」と。 「もうそれを見るな」と。 そう言っていてくれていたからだった。
"おにいちゃん"
頭を撫でてくれるその手が、 一瞬だけ、止まったような。
"おにいちゃん"
…あぁ、思い出した。 あの頃俺を守ってくれた、唯一の温かい人は。 俺の手に、髪に、頬に、 優しく触れてくれた人は。
俺の、兄は。 俺を、「りうら」と呼んでいた。
ふぅっと吹いてきた夜の風に、ゆっくりと目を開ける。 開いた窓に光っている、満月。 眩しい、と思って目を細めると、 綺麗な丸の形がぐにゃりと歪んだ。 それはなんだか、泣いているように見えた。
段々と、意識が覚醒してくる。 それと同時に、 寒さと心細さを感じた。 眠い目を擦って周囲を見渡すと、 この暗い部屋に一人で眠っていたことに気づく。 確かに、 開け放たれたカーテンも、窓も、 なんだか珍しいもので。 兄は夜になるとしっかりそれらを閉めていたから、 夜風が額を撫でることなどなかったのだ。
"りうら"
寂しくて、兄を呼ぶ。 返事は聞こえてこない。 俺は兄の姿を求めて、 家の中を探そうと後ろを振り返った。
"りうら"
その時に見えたのは、 襖の前にいくつもの椅子が置かれた、押入れ。 何かを閉じ込めるようなそれらは傷だらけで、 荒く投げたんだろうなぁ、とぼんやり思う。
"りうら"
とある確信を持ち、 俺は一つの椅子に手をかけた。
"りうら"
夜には大きな声を出してはいけない。 兄から教わったその言いつけを守りつつ、 俺は襖の向こうに声をかける。 相変わらず返事のない空間に、 俺はくすりと笑った。
もうまけだもんね! りうらみつけちゃうんだから!
そんな楽しげな声が、頭に響いて。
…その無邪気な声に、 どれほど兄は傷ついてきたのだろう、と。 今更胸が苦しくなって、痛くなって、 居た堪れなくなった。
幼い俺の手が、立て付けの悪い襖を ガタガタと音を立てて開ける。 その奥にある人影に、 俺は口元を綻ばせて抱きついた。
"りうら"
温かい体に、顔を押し付ける。 褒めてもらおうと、 俺は目を輝かせて兄を見上げた。 かくれんぼをした時にはいつも、 兄は笑って俺の頭を撫でていたから。
"もう見つかったか〜、すごいすごいっ、w"
その言葉が、俺は好きだった。
鬼ごっこやままごと遊び、人形遊びなどを、 兄はやらせてはくれなかった。 「家で走り回ったら怖い」、と。 「ままごとも人形遊びもどうやるのか分からない」と。 寂しげに笑いながら兄は言った。 それがどういう意味なのか、 あの頃の俺には分からなかったけれど。 でも、今なら痛いほど分かった。
温かい家庭を知らず、 人形がどんな形をしているのか知らず、 鬼ごっこなんてして音を出せば、怒られ、殴られて。 あんなに申し訳なさそうな顔をして、 「知らない」と放つ兄の痛みを、 俺は首を傾げて見ていたんだ。
…ごめんね、ごめんね。
"りうら"
俺の声に、長い間反応を示さない兄。 不思議に思って瞳を覗き込めば、 相変わらず大きな瞳がぼんやりと宙を彷徨っている。 俺は視界に入っているはずなのに、 なぜだか目が合わなかった。
ひどく落ち窪んだ目をした兄は、 俺の知らない兄のようだった。
"りうら"
褒めてもらいたくて、 俺を見て笑って欲しくて、 俺は兄の手を掴んで上下にぐらぐらと揺らす。 温かいその手はいつもより重くて、 俺の手を握り返してはくれなかった。
…しばらくして、指先がぴくりと動いた。 ほっとして兄の顔を見れば、 ぽかんとした顔がそこにあった。
"おにいちゃん"
"りうら"
"おにいちゃん"
まだふわふわとしたような挙動で、 兄はぼんやり俺を見つめる。 パチリパチリと瞬きをして、 少しだけ目を細めて。 そして、ふわりとあくびをした。
"りうら"
"おにいちゃん"
随分ゆっくりと話す兄に、 俺は疑問を抱いて首を傾げる。 兄はいつもテキパキと、 それでいて優しく話す人だったから。 視線が合わない、なんていう日はなかったから。
相変わらずぼんやりとした兄が、 唇を動かさないままぽつりと呟く。
"おにいちゃん"
"りうら"
聞き慣れない言葉をおうむ返しにすれば、 兄ははっとしたように慌てて口の端を上げた。 「知らなくていい」、なんて言いながら、 ゆるりと俺の手を握り返す。 その眼差しがどうにも切なそうで、 俺はもう一度その体に抱きついた。 いつまでも焦点の合わないその瞳が、寂しかった。
りうらのこと、みてくれないの?
そんな、幼い我儘が響く。 脳震盪。 兄が置かれている状況が、普通ではなかったこと。 今なら、簡単に分かるのに。
"りうら"
"おにいちゃん"
"りうら"
彼の肩口に顔を押し付けて、俺はそう呟いた。 かくれんぼなんて、そんな楽しいものではないのに。 兄は、その言葉を肯定も否定もしなかった。
ただ、ようやく動いたその体が。 俺の頭を撫でる温もりが。 徐々に、いつもの調子に戻ってきているのを感じた。
"おにいちゃん"
呟かれた疑問が、妙に揺れている。 ぎゅう、と壊れ物を扱うように 抱きしめられた体が心地良くて、 褒めてくれるんだって嬉しくて、 俺はにこにこと笑って話し出した。
"りうら"
"おにいちゃん"
"りうら"
"おにいちゃん"
"りうら"
"おにいちゃん"
噛み締めるような声が、今更俺の心を蝕む。 兄が俺に、頑なに真実を言わないことが、 痛いほど優しくて、辛い。 ごめんなんて、もう無効だ。
ただ、あの頃の俺が無邪気に笑っていることが、 どうしようもなく嬉しいとも思う。 今までの俺は持ち合わせていなかった、 その純粋な感情が。 作り出されていない、意図もない、 真っ直ぐな言葉が。 「ライア」とは真逆の過去の自分を、 兄が守ってくれていたことが。
"…やっと、しっかり笑ったなぁと思って、"
…兄の前でしか湧き出てこなかった、 温かい感情が。
"おにいちゃん"
"りうら"
ふと響いたその言葉。 兄の体から顔を離し、ぱっとその瞳を見つめる。 それが細められてこちらを向いているから、 いつもの兄だ、と俺は嬉しくなって。
"りうら"
"おにいちゃん"
目を輝かせた俺を見て、 仕方なさそうに笑う兄。 背中を優しく押され、押し入れから出ると、 相変わらずの満月が俺たちを見て笑っていた。 こぼれ落ちそうなほど眩しく光るその月が、 痛いほど綺麗で。
全く何もない俺たちに、 神様が情けをかけてくれているようだった。
"おにいちゃん"
"りうら"
棚の下に、滑らせて隠していたスニーカー。 それを履いて、兄が目の前に屈んでくれる。 その背中に飛びつけば、少しだけぐらりと揺れて、 視界が高くなった。
"おにいちゃん"
"りうら"
"おにいちゃん"
温かく広い背中。 少しゴツゴツとしていたのは、 骨が浮いていたからなんだろう。 あんなに痩せこけた体で、 兄はいつも俺を背負ってくれた。
深夜。 彼らがいない時間に、二人。 こっそりと家を抜け出し、 パトロールをする警官の目を潜り抜け、 公園で遊ぶ。 見つからないように、 静かなかくれんぼをして。 それでも楽しかった。 いつも行けない所に、連れて行ってくれるから。
だから、知らなかった。 家を出てからしばらく兄がひた走るのは、 彼らに見つからないようにするためで。 早く家から離れるためで。 怖い、という気持ちを押し殺して、 俺を遊ばせようと連れ出してくれたのだと。
ありがとうも、ごめんねも、 あの頃は言えなかった。
"おにいちゃん"
ふと、兄が声を漏らした。 立て付けの悪い大きな窓に手をかけた、 そんな時だった。
"おにいちゃん"
その言葉が聞こえた時、 俺の口の端は一層上がって。
…誰、だろう。 その人のことは、思い出せない。
"りうら"
精一杯の囁き声でそう言った、勢いの良い返事。 それに兄はくすりと笑って、 分かった、と俺を背負い直した。
"おにいちゃん"
その言葉を合図に、兄は窓から外へ飛び出した。 人目につかないような場所を選び ただひた走るその背中で、 俺はにこにこと風を浴びていた。
満月が、泣き笑いするように 俺たちを見つめていた。
カツン、カツン、と石の音がする。 深夜の公園の、植え込みの中。 蜘蛛の巣をつけた俺の頬を、兄は優しく拭ってくれて。 そうして、石の音がするほうへ、 落ちていた葉っぱを一枚飛ばした。
石の音が、止む。 シャリ、シャリ、と地面を踏む音。 柔らかい響きが、近づいてくる。
"りうら"
こそっとそう兄に問えば、 柔らかい微笑みで頷いてくれるから。 俺はそっと、植え込みの中から葉をかき分けた。
夜空を背に立つ、細い人影。 ぼろぼろのTシャツと短パンを着た、 裸足の少年が。 俺たちを見て、確かに口の端を上げたのを見た。
"おにいちゃん"
兄とは違う、声変わり途中のような、不安定な彼の声。 それでも、どことなく懐かしく思う。 兄が彼の頭を撫でると、 やめてよ、とくすぐったそうに笑った。 その仕草は無邪気で、素直で、 それなのに憂いを帯びているように見えた。
…あぁ、思い出していく。 俺を守ってくれていた人は、もう一人いた。 深夜の公園で、兄を慕い、 俺と遊んでくれた、あの少年。
名も、無き。 骨ばった手の、彼。
"りうら"
弾む声が夜に響く。 幼い手が満月を指差すと、その明るさで目が眩む。 そうだね、と答えたのは、 目の前に立つ彼の声だった。
"おにいちゃん"
俺の頭をぽんぽんと撫でる手のひらには、 少しだけ土がついている。 彼が植え込みの葉を除けてくれ、 俺たちは外へと足を踏み出した。
あの頃。 ろくな遊びも知らない俺たちが、ここでやることは。 いつも、ずうっと一緒だった。
"りうら"
警察官に見つかってはいけない。 補導されれば、 俺たちは間違いなく痛い目に遭うからだ。 それでも俺を深夜の公園へと連れ出してくれたのは、 俺を遊ばせてくれたのは、 俺を少しでも「普通」に近づけるためで。 リスクを背負いながらも、 兄は、彼は、俺を現実から守っていた。
"りうら"
"おにいちゃん"
"りうら"
右手には兄、左手には彼と手を繋いで、 俺はにこにこと笑っている。 彼がなぜ裸足なのかも、 兄がなぜ傷を負っているのかも、 何も知らずに。
彼がなぜ、 涙を流すのかも知らずに。
兄が、 なぜ息を呑むのかも知らずに。
"おにいちゃん"
"りうら"
あぁ、知ってる。 夢に見た、この会話。 隣にいる人は、一体誰?
"りうら"
"おにいちゃん"
"りうら"
左手の温もりが、離れていく。 ひと〜つ、ふた〜つ、と数える声。 満月が、瞼の裏にちらつく。
"忘れていいんだよっ……"
いつ聞いたのか、もうわからない声が。 夜空の向こうから、聞こえた気がした。
"りうら"
"りうら"
"おにいちゃん"
公園の真ん中にある、大きな木の下で。 俺たちは足を投げ出し、夜空を見上げていた。 街灯によってできる薄い薄い木陰に、 細すぎる足が六本。 もうじき、空が白み始めるだろう。 彼と、兄と、平和に過ごす時間はいつも短い。
あの頃の俺は多分、知らなかったと思う。 どんなに続けと願っても、 いつしか終わりは巡ってくること。 苦しい時間も、楽しい時間も、 全てにおいて平等に。 …あぁ、そうだ。この夜は。
"おにいちゃん"
この夜は、終わりの日だった。 この、苦しいながらも生きていける日々が、 静かに終わりを告げる夜だった。
震えた声が言葉を紡ぐ。 兄が、俺を撫でていた手を止める。 幼い俺の頭の中には、 唯一分かる言葉が反芻されていた。
あえない?あえないの?もう、ずっと?
___くんと、もうあえないの?
……彼の名前は、なんだ?
"おにいちゃん"
噛み締めるような声と、落ち着いた慰めるような声。 繋いだ彼の手には、いくつもの痣が残っている。
こちらをまっすぐに見つめる瞳。 少し切長で、でも綺麗で、絶望に染まらない。
桃色の、瞳。
決意のこもった、その声に。 兄が、拳を握るのを見た。
空が、白み始める。 タイムリミットはもう、きっと過ぎているのに。
彼が俺と兄の手を取る。 悲痛な面持ちが視界に入る。 黙りこくる兄は、なにか、 悲しげなオーラを纏っている気がした。
ねえ、___くん、あのね。りうらたちね。
幼い声が、頭に響く。 泣きそうな声でも、楽しそうな声でもない。 どこか当たり前のことを言うような、 まっすぐで邪気のない声。
……あぁ、そうだった。 あの頃の、俺は。 何も知らないようで、ちゃんとわかってたんだ。
"おにいちゃん"
絞り出すような、聞いたことのない低い声が。 兄から、発せられる。 それと同時に兄が俺の耳を塞ぐけど、 痩せ細ったその指では、 隙間なく俺の耳を覆うことなんてできなくて。
彼が驚いた顔をしている。 否、苦しそうと言うべきか。 兄の手の震えを、感じる。
"おにいちゃん"
"おにいちゃん"
夜風に服をはためかせて、兄は言う。 淡々としているようで、 憎悪をはちきれんばかりに抱えた、 そんな声だった。 明るくなる空が、沈んでいく月が、 焦っているように見える。
"おにいちゃん"
"おにいちゃん"
温厚で、声を荒げることなんて無い彼の、 響き渡るような怒声。 それでも怖いと思わないのはきっと、 その声に、優しさがこもっているからだと思う。 唖然とした顔の彼の瞳に、涙が浮かぶ。
__くん、なかないで。 なんにも、わるくないから。
幼い、きれいな声が、脳に響く。 そう思っているのはきっと、兄だって同じ。 涙を絞り出すように目を伏せる彼が、 苦しそうに唇を震わせた。
嗚咽を漏らして、彼は言う。 ボロボロのTシャツを握り込んで、 悲しそうに呻く。 段々と明るくなり始めた空が、 彼の表情を照らし出す。
あぁ、優しい人だったんだ。 俺を守ってくれた、もう一人の少年は。 自分だけ幸せになるのなんて許せなくて、 大切な人の幸せを見ていたくて、 限界の自分に見向きもせず、 俺たちのことに必死で。
それでも、現実を見ている。 ここで生き別れたら、 もうその願いは叶わないのだと、わかっている。 だから今、そんな彼に兄が息を吸うのは、 願望の塊のような夢で慰めるためじゃなくて。 それを絶対に叶えてやるという、 決意を話すためなんだ、きっと。
"おにいちゃん"
"おにいちゃん"
ぼろぼろと、痩せこけた頬を伝う涙。 ビー玉みたいな、綺麗なもの。 俺が手を差し伸べたら、 彼は少し驚いて、また泣いた。
"おにいちゃん"
へへっ、と小さく笑う声が、塞がれた耳を揺らす。 兄の指に走っていた震えは、もう治まっていた。
"おにいちゃん"
"おにいちゃん"
兄がようやく、俺の耳から手を離す。 俺ごと兄貴に抱きつく彼の体温は、 少し低かったけれど、どことなく安心した。 聞こえてくる三人分の鼓動が、 妙に鮮明に「生」を叫んでいた。 この安堵感のまま、 深い眠りについてしまいそうだった。
…けれど。 終わりは必ず、巡ってくるから。
いきなり、公園がオレンジに包まれた。 太陽が昇ったのだろう。 ハッとしたように日の出を見る兄。 「まずい」と漏らしたその唇が、震えている。
"おにいちゃん"
"りうら"
"おにいちゃん"
焦りが滲んだその声に、 俺は驚いて動けなくなる。 いつもの兄ではない、なにかが起きる、と 幼いながらに感じたのだろう。 そのまま微動だにしなくなった俺を、 後ろにいた彼が抱き上げ、兄の背中に乗せた。
"おにいちゃん"
"おにいちゃん"
"りうら"
寂しげに、彼は笑った。 その表情を確認するまもなく、兄は走り出す。 道が明るくなってから帰るのは、 初めてのことだった。
"りうら"
兄の肩に掴まって、耳の近くでそう問うと。 風に乗って、小さな嗚咽が聞こえた気がした。
"おにいちゃん"
"またすぐ会えるよ、w"
いつもとは違う返答に首を傾げながらも、 俺は兄に揺られていた。
"りうら"
兄の背中で寝落ちて、 ようやく目が覚めた時。 俺は押入れの中にいて、 襖の隙間から外が見えた。
そのぼんやりとした俺の視界には、 太陽がさんさんと降り注ぐベランダで、 抵抗もせずに母に殴られ続ける兄が、 映画のワンシーンのように写っていた。
思い出された、過去が。 あなたに伝えたかった、知って欲しかった、 俺の生きてきた軌跡が。 つらつらと、延々と語られてきた、 幼い俺たちの生活が。 それらをこぼれ落としていた俺の唇が、 躊躇いによって留められた。
悠佑
優しい声が、俺を呼ぶ。 それに顔を上げて、あなたの顔を覗こうと思えば、 俺の視界が滲んでいることに気づいた。
慌てて袖で涙を拭えば、 困ったように微笑むその顔。 まるで他人事みたいに、 俺の話を聞くあなた。
ねえ、なんで何も覚えてないの、って。 我儘な自分が、そう言いそうになる。 覚えてなきゃ、謝れないよ。 あの時守ってくれてありがとう、 何も知らなくてごめん、 全部背負わせてごめんって、 言わせてよ、って。
でも、その記憶を失わせたのも、 結局は俺のせいだから。 思い出した俺には、ちゃんと、 あなたの過去を話す義務があるんだ。
息を落ち着かせてそう言えば、 俺の頭に乗る温もり。
悠佑
ねえ、もう。そんなこと言わないでよ。
またあの頃みたいに、 あなたに甘えてしまうから。
「俺たちが」って、主語を変えて、 躊躇いながらそう言った瞬間。
今まで穏やかな表情で、 俺の話を聞いていた兄が。 初めて、その顔を歪ませてしまった。
「ライア -その線で⬛︎して-」 第十二話
コメント
3件
まじで泣きました🥲︎🥲︎ 3人の気持ちが痛いほど伝わってきてしんどくなりました(( 更新ありがとうございました!!また何回も見ます!!()
まずあんなに長い文章を似たような表現が被らないように書けることもすごいのに、3人の心情もこっちに伝わってきて没頭してしまいました🥲 みん様の作品を見るのがほんとにだいすきです😭
みん様の作品ほんと好きすぎます🥲 文章ももちろん素敵すぎるんですけど、背景の使い方だとか、1番さんを想う6番と4番の心情の伝え方とかがもう天才すぎて困ります😭😭 ほんとに更新ありがとうございます!!