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────私は、クラスメイト達の甲高い笑い声が嫌いです。
特に、放課後に湧き上がる、あの開放感に満ちた笑い声。
私の勝手な嫌悪感であることは分かっています。でも、あの邪気のない笑い声を聞いていると、まるで自分が笑われているのではないかという思いが、胸の奥からふつふつと込み上げてくるのです。
もちろん、嫌だと思う理由はそれだけではありません。
彼女達がいると、私は、先生に会いに行くことが出来ないのです。
私と先生のことは、誰にも見つかってはいけません。
だって、それは2人だけの秘密なのですから。
今日も私は、誰もいなくなったのを見計らって、旧校舎に急ぎました。
最終下校時刻が近くなると、賑やかな校内も人の姿がまばらになります。図書室と歴史史料室しか解放されていない旧校舎にいたっては尚更です。
3階まで階段を一気に駆け上がると、私は一番奥の図書室の扉を、そっと開けました。
いつもと同じく、室内には誰の姿もありません。多くの生徒達は新校舎の図書室を利用することが多く、ここは、いわば忘れられた図書室なのです。
今日も誰にも見つからなかったことに安堵し、私は窓の向こうの景色に目を向けました。
沁みるような赤い夕焼け空が広がっています。
時折、この図書室を空中楼閣のように思うことがあります。空想の中に出来た、私と先生二人きりの架空の楼閣。まるで、時間が止まってしまっているかのような。
図書室の一番奥、書庫の扉から、ほんの少しだけ蛍光灯の明かりが漏れているのが見えました。どうやら、先生はもう来ていらっしゃるようです。
私は、書庫の扉をそっと開けました。
ちょうど扉の正面に、先生の後ろ姿が見えました。先生は私が来たことにも気付かず、机に向かい、何やら熱心にペンを走らせていらっしゃいます。
東條 理子
声を掛けると、先生は慌てて何かを文庫本の間に挟みました。
それは、小さなメモ用紙のようでした。
東條 理子
伊吹 翼
先生は不機嫌そうに眉根を歪めます。何だかいつもの先生らしくありません。
こんな先生、初めて。
ほんの少しだけ悪戯心の湧いた私は、素早く机の前に回り込むと、メモ用紙を挟んだ文庫本を先生の手から取り上げました。
伊吹 翼
それは、初めて聞いた先生の怒声でした。
思いもかけないことに、私の心臓は縮み上がりました。
慌てて、私は手にした文庫本を机の上に返します。美しい方というのは淡い微笑みだけで相手を魅了してしまうものですが、反面、感情的な反応を示した時は、鋭い刃となって相手の胸に突き刺さります。
私は、そんなにもいけないことをしてしまったのでしょうか。
動揺し、思わず後ずさりする私を、先生の冷ややかな視線が追いかけてきます。
────嫌われたくない。でも、どうすればいいのか分からない。
東條 理子
恐る恐る発した謝罪の言葉も、先生の耳には届いていないようでした。
私には、もう為す術がありません。
肩を落とし、仕方なく書庫を出て行こうとすると、先生は慌てて私の手を掴み、引き止めるようにして引っ張ります。
伊吹 翼
東條 理子
伊吹 翼
それは、許して下さるという意味として受け取ってもいいのでしょうか。
ほっと安堵し、私は先生の顔色を窺います。
先生の目から冷たさは消えたものの、眉間の皺は残ったままでした。
もう一度きちんとした謝罪の言葉を口にしようとしましたが、先生のくれた一瞥で、私は考えを改めました。目は口ほどに物を言います。先生は、これ以上の言葉はいらないと考えていらっしゃるようです。
冷たい目も、眉間の皺も、教室では絶対に見せない先生の顔です。 ────私だけが知る、先生のもう1つの顔。
私は、先生の椅子の隣に腰掛けました。
机の上には、赤いペンが転がっていました。
先生はいつもそのペンでテストの採点をなさいます。そして、答案用紙に点数を書いた後、必ず『頑張りましたね』とか『もう一息ですよ』と言葉を書き添えて下さいます。
先程のメモ用紙も、きっと、この赤いペンで書いていらっしゃったのでしょう。
クラスのみんなは、先生が添えて下さるその一言を楽しみにしているようでした。でも、私は嫌でした。赤い文字で書かれた先生の言葉など、見たくありませんでした。
東條 理子
知らず、言葉がホロリとこぼれ落ちます。
ハッと我に返っても、1度出てしまった言葉は、もう飲み込むことが出来ません。
伊吹 翼
冷たい表情をしていた先生が一変、怪訝な顔をなさいました。
一瞬、私は口籠りました。
きっと他人には理解しがたい感情です。だから口にするつもりなど微塵もなかったのに。
東條 理子
伊吹 翼
東條 理子
その時、私は初めて、先生にもご存知ないものがあるのだということに気づきました。
もっとも、冷静に考えてみれば、それも致し方ないことでしょう。だって、先生のように誰からも好かれている方が、赤い文字の意味をご存じのはずがありませんから。
ですから、私は先生に教えて差し上げました。
東條 理子
私の言葉に、先生はたいへん驚いた表情をお見せになりました。
東條 理子
情けない話です。出来れば、こんな惨めな思い出など先生に語りたくはありませんでした。
けれど、だからこそ、先生から赤い文字はいただきたくないのです。
先生からは、絶対に。
先生は、何度か目を瞬かせると、
伊吹 翼
と、私の顔をじっと見つめながら仰いました。
伊吹 翼
伊吹 翼
と呟いた先生の言葉に、胸の中に淀んでいた暗いものが消えて行くのを、私は感じました。
思わず笑みがこぼれます。
すると、何を思ったのか、右手を伸ばし、私の頭をやわやわと撫でて下さいました。
驚きました。けれど、その手の温もりはとても優しく、私は今までに感じたことのない心地よさと安らぎに、自然と身をゆだねました。
やがて、先生の手はゆっくりと下に落ち、私の胸元────制服の赤いスカーフの上で、ピタリと止まりました。
伊吹 翼
そう言いながら、先生は、私の制服のスカーフの端をクルクルと自分の指に巻き付け始めました。
スカーフが、ゆっくりと襟から引き抜かれていきます。
私は無言のまま、先生の美しい手に絡み付いて行く赤いスカーフをじっと見つめていました。
静かな図書室に、スカーフの小さな布擦れの音だけが、やけに鮮明に響いています。
先生の仕草は優しく、まるで傷つきやすい果実に触れているかのようでした。
言葉では言い表せない甘酸っぱい感情に堪えきれず、私はギュッと唇を噛み締めました。
────先生はお気づきになっていたでしょうか。私の心臓が、嬌声にも似た激しい鼓動を打ち鳴らしていたことに。
やがてスカーフが完全に引き抜かれた時、私と先生は同時に顔を上げました。
先生は────いいえ、きっと先生だけでなく私も恍惚の表情を浮かべておりました。
更に高鳴る鼓動に、深い吐息がこぼれます。
なんて甘やかな沈黙。
先生が仰った『赤は情熱や生命力などの意味を持つ』という言葉が、止めどなく滴り落ちる甘露のように、激しく私の耳を打ちます。
私は、ゆっくりと瞼を閉じました。
この高鳴る鼓動と深い吐息が、私の『情熱』であり『生命力』なのでしょうか。 先生の手に絡みついた『赤』こそが、私の心のすべてなのでしょうか。
先生と二人きりの空間に、最終下校時刻を告げる校内放送が鳴り響きます。
その時の私はもう、『人間失格』の文庫本に挟まれたメモ用紙のことなど、すっかり忘れておりました。
────【東條理子の記憶より】