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小学生の時だった。
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一番仲の良かった子が、カマキリを飼い始めた。 虫が嫌いだった訳でも、苦手だった訳でもない。 なんでか、そのカマキリは僕の事を睨んでいた。 その焦点の合わない目が、感じたことの無いものを感じさせた。
その日、僕はカマキリの子の家に遊びに行っていた。 ゲームをしたり、テレビを見たり...唯の小学生の遊びだ。 その友達がトイレに行った辺りで、不意に僕はカマキリの飼育ケースを見た。 途端に、背筋が粟立った。 見ていた。 ずっと、僕の事を。 ぴくりとも動かないその身体を、僕の方に捻っている。 鎌のような大きな手を翳して、僕を見つめている。 余りにも動かないから、僕は飼育ケースに少しだけ近づいた。 そう、少しだけだった。
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飼育ケースの透明な蓋を机の隅に寄せ、ケースの中に手を伸ばした。 思ったよりも冷たくてざらざらとした感触が手に染みる。 今にもそのカマキリが、大きな刃で僕自身を切り裂いてしまうと思った。 恐れている筈なのに、理由の無い好奇心は騒いでしまう。 ______つついても、カマキリは動かなかった。
安堵した幼い僕は、ケースに蓋を戻そうと、カマキリから目を離した。 その瞬間を狙っていたかのように、カマキリが飼育ケースから飛び出す。 このカマキリは大切な親友のものだ。 僕が逃がしたと分かったら、███は僕の友達を辞めるかもしれない。 そう思うと、尚更焦った。
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本当に微かに、ぐちゃ、という音が聞こえた。 何かが潰れた音だった。 足の裏に感触があった。 粘着質なものが足の裏に張り付いた感覚は、今でも思い出す事が出来る。 僕はカマキリを両手のひらの上に乗せた。
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何も、感じなかった。 その事に対する恐怖すら湧かなかった。
何を言われているのか分からなかった。 大声で名前を呼ばれたような気もする。 気づいたら、両手にあったねばねばした冷たいものは消え、僕は部屋から追い出されていた。
たったの、虫一匹。 人間だって、神様だって、虫は何百匹とも殺している筈だ。 カマキリを潰した事への罪悪感でも、友達に嫌われてしまった事への孤独感でもない。 それなのに、僕はカマキリと共に、自分の中の何かを潰してしまった気分になった。
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母はいなかった。 いつもの事だったから、僕はランドセルを開いて宿題を取り出した。 今日の出来事が脳をぐちゃぐちゃに掻き回しているようで気持ち悪い。
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地元の公立中学校に入学した。
入学式の日、母は来なかった。 理由は知らなかった。 小学校の卒業式は参加出来なかったから、本当に何も分からない。 クラスメイトは僕の事を笑った。 その中には僕がカマキリを潰してしまった友達もいた。 入学式が終わった後、僕は逃げるように家に帰った。
父は堅実な人だった。 仕事も家事もするし、母の事も愛していた。 不倫なんて以ての外。 僕が六歳の時、両親が離婚する事になったのは、母方の祖父が詐欺で儲けていたからだ。 そして、母はそれを知っていた。 詐欺で儲けた金を仕送りにしている事も、知っていた。 父は、母よりも己を選んだ。 自分を選び、母と僕を捨てて行った。 母の日に、父と花屋に行った記憶だけが、父が居た頃の名残だった。 母には、仕送り金を送って貰える相手がいなかった。 祖父は逮捕された。 祖母は心労で亡くなった。 母には、兄弟が居なかった。 スーパーのレジとか、清掃員とか、そういう安月給の仕事を沢山している。 夜にも殆ど居ないけど、冷めた夕飯が机の上に置かれている事は多い。 “ママ、今日ね、保育園でね、お花かいたんだよ!” “そうなの?ごめんねママ忙しいから後にしてね” “....ごめんなさい” “お母さん、美術の絵、入賞したよ、あの赤い花の絵” “ふーん良かったね、ママ忙しいから後にしてくれる?” “....ごめん” 自分の承認欲求を満たすのは母親だと思っていた。 余裕のあった頃はちゃんと話も聴いてくれたし、沢山褒めてもくれた。 母の情緒は安定していなかった。 機嫌が良かったら夕飯の後のデザートを買ってきてくれる。 でも、悪い時には僕に八つ当たりをする。 いつの間にか僕は、謝罪以外の言葉を忘れてしまっていた。 だから、ほんの少しだけ、零してしまった。 母は、驚いたように僕を見つめ、自分がした事にも驚いているようだった。 僕は、そんな母を好きではなかった。 けど、嫌いになんてなれなかった。 僕にとっての親は母しかいない。 けど、母は僕が居ない方が生きやすい。 夜の仕事までしてお金を稼いで、それだけ僕の事を愛してくれている。
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珍しく、母は家に居た。 温かい夕飯の後、安いプリンを食べさせてくれた。 窓の外の赤い光が、僕の家の前で止まった。 バタンという車の扉が閉じた音が聞こえる。 何人かが僕の家に迫る気配がした。
ドア越しに誰かが何かを言った。 母はそれを分かっていたかのように扉に向かった。 そして、僕に、“ごめんね”と言った。
n o .
それが、僕と母の最後に交わした言葉だった。
僕は、母の歪な愛情を受け取れない。
ウツキ
ウツキ
ウツキ