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ゆでだこ
橘靖竜
32
265
朽羽市、暁町。 歓楽街の外れに建つ雑居ビルの三階。くすんだドアに貼られた小さなプレートには『暁探偵事務所』とある。 田端隼がコンビニの袋を提げて階段を上がってくると、ドアの前に男が立っていた。 四十代。グレーのスーツ。きっちり締めたネクタイ。一見すると真面目なサラリーマンに見えるが、目が落ち着かない。廊下の端から端へ、忙しなく視線が動いている。 「あの、お客さんですか?」 田端が声をかけると、男はびくりと肩を揺らした。
男
田端
事務所の中は、雑然としていた。 書類の山。古びたスチールデスク。壁際に押しつけられたホワイトボードには、走り書きのメモが貼り重なっている。 そのなかで一つだけ、場違いなほど上等なコーヒーメーカーが鎮座していた。 三上冬吾は窓際の椅子に腰かけ、外を見ていた。振り返りもせず、顎だけしゃくる。
三上
男は促されるまま、古いソファに腰を下ろした。田端がさりげなくその斜め後ろに立つ。 しばらく、誰も喋らなかった。 三上がゆっくりと椅子を回し、男を正面から見た。目が合う。男が先に視線を外した。
三上
男
三上
男
三上は黙って男を見る。 田端が口を開きかけた。如月が片手を小さく上げ、それを制した。
三上
男
三上
男
沈黙。 コーヒーメーカーが、低く唸った。 三上は立ち上がり、窓の外に目をやった。暁町の昼は静かだ。夜の顔など、どこにもない。
三上
男
三上
男は少し迷って、それから深く頷いた。
田端
三上
男は深く頭を下げた。その背中が、微かに震えていた。
日が傾きはじめた暁町は、昼とも夜ともつかない曖昧な顔をしていた。 ネオンにはまだ早い。でも、陽の光はもう力を失っている。 三上は一人で歩いていた。 東側の空き地は、雑居ビルとコインパーキングの隙間にあった。雑草が膝丈まで伸び、ブロック塀の角が崩れかけている。規制線はすでに外されていた。黄色いテープの残骸が、フェンスに一本だけ引っかかってひらひらしている。 三上は立ち止まり、空き地全体を見渡した。 それから、ゆっくりと中に入った。
地面に、黒ずんだ染みがあった。 雨が降ったのか、輪郭はぼやけている。だがそれがどんな液体だったか、三上にはわかった。 視線を動かす。 雑草の茂みに、靴が一足。いや、片方だけだ。安い革靴。かかとがすり減っている。左足分だけ。 もう一方は、どこにもない。 さらに奥。ブロック塀の際に、タバコの吸い殻が三本まとめて落ちていた。銘柄は同じだ。誰かがここで待っていた。
三上
誰に言うでもなく、呟いた。
空き地を出ると、すぐ隣に小さな居酒屋があった。『梟』という古びた看板。開店前だが、引き戸は細く開いている。 三上は迷わず中に入った。 カウンターで仕込みをしていた初老の店主が顔を上げた。
店主
三上
店主は手を止めた。三上をじっと見る。
店主
三上
店主は少し考えてから、包丁を置いた。
店主
三上
店主
店主が言葉を切った。
三上
店主
三上
店主
三上
店主
三上は礼を言って外に出た。 暁町に、ネオンが灯り始めていた。
三上
立ち止まり、空き地のほうをもう一度見た。 テープの残骸が、風もないのに揺れた。
事務所に戻ると、呉美鈴がすでにノートパソコンに向かっていた。 画面には遺体の情報らしきデータが並んでいる。田端が隣でメモを取りながら、落ち着きなく足を揺らしていた。
田端
三上
美鈴が画面から目を離さずに口を開く。
美玲
三上
美玲
田端
美玲
田端が黙った。
三上はコーヒーメーカーのスイッチを入れ、椅子を引いて座った。
三上
美玲
三上
美玲
三上は腕を組んだ。
田端
三上
田端
三上はコーヒーカップを手に取り、一口飲んだ。
三上
田端
三上
田端が口を閉じた。 美鈴がちらりと三上を見て、また画面に視線を戻した。
美玲
三上
美玲
三上
しばらく、キーボードを叩く音だけが響いた。
美玲
三上
田端
三上は立ち上がり、ジャケットを手に取った。
三上
田端
三上
ドアが静かに閉まった。
朽羽署の裏手に、二十四時間営業の定食屋がある。 警官御用達の、煤けた店だ。メニューは少ない。味は普通。でも深夜でも飯が食える。それだけで十分な客が来る。 三上が暖簾をくぐると、奥の席に松岡誠一がいた。 四十一歳。くたびれたスーツ。緩んだネクタイ。目の下に薄い隈。仕事帰りなのか、これから仕事なのか、見分けがつかない顔をしていた。 三上を見た瞬間、松岡は露骨に顔をしかめた。
松岡
三上
松岡
三上は向かいの席に座った。店員に目で合図して、コーヒーを頼む。
松岡
三上
松岡
三上
松岡が箸を止めた。 しばらく三上を見てから、大きく息を吐いた。
松岡
三上
松岡
三上
松岡
三上
松岡は黙って定食の残りをかき込んだ。 コーヒーが運ばれてくる。三上は一口飲んで、待った。
長い沈黙の後、松岡が低い声で話し始めた。
松岡
三上
松岡
三上
松岡
松岡が少し間を置いた。
三上
松岡
三上
松岡
三上の目が、僅かに細くなった。
三上
松岡
三上
松岡
三上
松岡が三上を見た。疑うような目だ。
松岡
三上
三上は立ち上がり、財布から千円札を一枚テーブルに置いた。
松岡
三上
松岡が何か言いかけたが、三上はすでに暖簾をくぐっていた。
夜の朽羽署裏。 三上は立ち止まり、空を見上げた。星は出ていない。
三上
呟いて、歩き出した。向かう先は、決まっていた。
暁町の夜は、深くなるほど饒舌になる。 ネオンが滲み、酔客の笑い声が路地に溢れ、どこかで演歌が鳴っている。それでも一本路地を入れば、途端に静かになる。 三上が向かったのは、そういう場所だった。
古い割烹料理屋の暖簾の前。 スーツ姿の男が二人、腕を組んで立っていた。三上を見た瞬間、空気が変わった。
男A
三上
男たちが視線を交わす。一人が中に消えた。 しばらくして、戻ってきた。
男A
店の奥の座敷。 辰海は一人で座っていた。年齢不詳。三十代にも五十代にも見える。細身で、動きが少ない。燃え尽きる前の線香みたいな男だ、と三上はいつも思う。 目の前に湯呑みが一つ。煙草が一本、灰皿で静かに燃えていた。 三上が座ると、辰海は煙草を取り上げ、一口吸った。
辰海
三上
辰海
三上
辰海の手が、僅かに止まった。 煙草の煙が、天井へゆっくり昇っていく。
辰海
三上
辰海は煙草を灰皿に置いた。それから、湯呑みを両手で包むように持った。 長い沈黙だった。
辰海
三上
辰海
三上
辰海
三上
辰海
三上は辰海を見た。辰海は視線を外さない。
三上
辰海は少し間を置いた。
辰海
三上
辰海
三上は立ち上がった。
辰海
三上
辰海
三上は辰海を見た。
三上
辰海は小さく、ほんの少しだけ口の端を上げた。
辰海
三上は座敷を出た。
暁町の夜風が、頬を撫でた。 七年前に消えた組。裏切り者。そして身元不明の遺体。 三上は歩きながら、頭の中で線を繋げていた。
三上
ネオンの光の中に、その答えはまだなかった。
翌朝。 三上は男に連絡を入れた。場所は事務所ではなく、暁町外れの古い喫茶店を指定した。 客の少ない、静かな店だ。
男は先に来ていた。 昨日と同じグレーのスーツ。でも今日はネクタイが少し緩んでいる。寝ていないのか、目の下が赤い。 三上が向かいに座ると、男は小さく頭を下げた。
男
三上
男
三上
男の体が、石になった。 コーヒーカップを持ちかけた手が、止まる。 三上は黙って待った。
長い沈黙の後、男はゆっくりとカップをソーサーに戻した。
男
三上
男が目を閉じた。
三上
男は否定しなかった。 ただ、静かに頷いた。一度だけ。
男
三上
男
三上
男
三上
男
三上はコーヒーを一口飲んだ。
三上
男
三上
男
三上
男
三上は男を見た。
三上
男が唇を噛んだ。
男
三上
男の目から、静かに涙が一筋落ちた。拭おうともせず、ただ俯いた。
男
三上は何も言わなかった。 ただ、男が落ち着くまで、コーヒーカップを両手で持って待った。
喫茶店を出ると、朝の光が暁町を照らしていた。 夜の顔は消えている。ただの地方都市の、静かな朝だ。 三上は立ち止まり、煙草を一本取り出した。火をつけて、一口吸う。
三上
煙が、朝の空気に溶けていった。 裏切り者はまだ、どこかにいる。そして桐島が死んでも、その事実は消えていない。
三上
煙草を携帯灰皿に押し込んで、歩き出した。
その夜、三上は一人で暁町を歩いた。 特に目的はない。ただ、頭の中を整理するとき、三上はいつも歩く。街の空気を吸いながら、線を繋げる。それが癖だった。
東側の空き地の前で、三上は足を止めた。 昼間とは違う顔だ。ネオンの光が届かない分、余計に暗い。雑草が風に揺れている。 三上はポケットに手を突っ込んだまま、空き地を見た。
三上
名前を、口の中で転がした。
三上
風が吹いた。フェンスに引っかかったテープの残骸が、ばたばたと鳴った。
三上
でも、その声に棘はなかった。
煙草を一本取り出して、火をつけた。 頭の中で、今日わかったことを並べる。 朽羽皇会。七年前の瓦解。金と名簿を持ち逃げした裏切り者。桐島が知っていた何か。静かすぎる歩き方の人間。 まだ足りない。全然足りない。 でも、輪郭だけは見えてきた。
三上
煙草の煙が夜に溶けた。
三上
静かな殺意だ、と三上は思った。衝動じゃない。計算だ。待ち合わせに応じさせて、人気のない場所で、音もなく仕留めた。 静かすぎる歩き方。慣れている。
三上
携帯が鳴った。 画面を見る。美鈴だ。
三上
美玲
三上
美玲
三上
美玲
三上
美玲
三上は煙草を携帯灰皿に押し込んだ。
三上
美玲
三上
電話を切った。
三上はもう一度、空き地を見た。 桐島健次。名もなき男として、ここに転がっていた。 でも今は、名前がある。過去がある。守ろうとしたものがある。
三上
小さく、誰にも聞こえない声で言った。 それから踵を返して、歩き出した。 暁町のネオンが、三上の背中を照らした。