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庫裡の客間には、和泉屋の番頭である久兵衛が座っていた。
「やあ、これは久兵衛さんお久しぶりですな。
本日は、いかがなされましたか?」
久兵衛は軽く頭を下げた後に、話をどう切り出したものかと迷うように、一度、天井を見上げてから大きな溜息をついた。
「お武家様と商人では、身分は違えど奉公の厳しさは同じ、どちらも真に気苦労が絶えません。
上から、あれはするな、それをせよと言われれば、その通りにせねばなりませんし、あれは言うな、それを言えと言われれば、それがいくら理不尽なことであっても、そう言わねばならぬのです」
久兵衛は何が言いたいのか、その持って回った言い方に、不審を抱いたワシは素直に聞いてみた。
「久兵衛さん、奥歯に物が挟まった物言いをされても、この年寄りには、何が何だかさっぱり分かりませぬ。
はっきりと言うてくだされ」
すると、決心したように大きく頷いた久兵衛が喋り始めた。
「先日、亀井家ご用人の佐々木様に呼び出されて、またまた無理難題を押し付けられてしまったのです。
実は、五年前に再婚された亀井家では、未だに子が授かりません。
どうやら、再婚相手の多江様は石女(うずめ)のようで子が成せぬとか…
本来であれば離縁になるところですが、そこは、色々と事情がありまして簡単にはいきませぬ。
そこで、真秀様をお家に戻してはどうかという話が持ち上がりまして…」
ワシの表情が、段々と険しくなったことを察してか、声を落とした久兵衛が、そのまま黙って、気まずそうにワシの表情を伺っている。
「この話は、ワシが勝手に判断できる内容ではないので、真秀に相談はしてはみますが、ワシから、どうしても先方に言っておきたいことが有るのです。一言よいですかな」
この言葉に、姿勢を改めた久兵衛は両手を膝に置いたまま軽く頭を下げた。
神妙にお聞きします。という態度なのだろう。
「真秀は犬の子ではありません。
要らぬから貰ってくれ、気が変わったから返してくれと、そういう簡単な話ではないのです。
真秀が、初めてここに連れて来られた時のことを、久兵衛さんは覚えておられますか。
たった十歳の童が、大人達の理不尽を全て飲み込んで、黙ってこの寺にやって来たのです。
あれから五年、真秀は一度として恨みごとを口にしたことはありません。
ただの一度もですぞ。
久兵衛さんにそんな真似が出来ますか。
ワシには出来ません。
我が身可愛さの親に捨てられ、本来であれば愚痴の一つもこぼしたくなるし、家も恋しくなるはずです。
それら全ての悲しみを、あの小さな身体に仕舞い込んで、一生懸命修行に励んできた真秀の切ない気持ちを、少しは考えてくださらぬか。
この世には、お家よりも金子よりも大切なものが有るのです。そう伝えてくだされ!」
この言葉に久兵衛は、もっともだとばかりに深々と頭を下げていた。
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