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「春が来るのが、怖いんだ」
薄暗い大学の資料室で、透(とおる)はぽつりと呟いた。窓の外では、まだ冷たい風に混じって、気の早い桜の蕾が膨らみ始めている。
隣で古びた植物標本の整理をしていた朔也(さくや)は、ピンセットを動かす手を止めなかった。
「贅沢な悩みだな。世の中の人間は、冬が終わるのを待ちわびているっていうのに」
「君は、冬のままでいいと思ってるの?」
透の問いに、朔也はようやく顔を上げた。縁の細い眼鏡の奥にある瞳は、いつも氷のように冷ややかで、けれど時折、射抜くような熱を孕む。
二人の関係に名前はない。ただ、放課後のこの狭い部屋で、誰にも知られず言葉を交わし、時折指先を触れ合わせる。それだけの、壊れやすく、そして閉じた関係。
「春になれば、君は卒業してここを出ていく」
朔也の声は淡々としていた。
「新しい環境、新しい人間関係。君の隣には、僕じゃない誰かが立つようになる。……それは、僕にとっては死ぬのと大差ない」
透は息を呑んだ。朔也の言葉はいつも鋭く、透の心の一番柔らかい部分を正確に傷つける。
「僕は、どこへも行かないよ」
「嘘だ。君の瞳はもう、外の光を追いかけている」
朔也が立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めてくる。資料室特有の、埃と防虫剤、そして朔也自身の清潔な石鹸の香りが混ざり合い、透の感覚を麻痺させていく。
朔也の手が、透の頬を滑り、耳の後ろで止まった。その指先は驚くほど冷たく、けれどそこから伝わる微かな震えが、彼の焦燥を物語っていた。
「いっそ、このまま標本にしてしまえたらいいのに」
朔也が囁く。冗談には聞こえなかった。
「一番美しい瞬間のまま、僕だけの視界に閉じ込めておける。春の風にさらわれて、誰かに見つかる心配もなくなる」
透は逃げなかった。むしろ、その冷たい指を自らの手で覆い、強く握りしめた。
「……いいよ。そうして」
透の言葉に、朔也の瞳がわずかに揺れる。
「君の言う『春』が僕を連れ去るというのなら、僕はここで、君の冬に殺されたい」
重なり合った視線の中で、外から吹き込んだ風が窓をガタガタと鳴らした。
一陣の風と共に、開いた窓から桜の花びらが一枚、床に落ちる。
それは残酷なまでの、春の合図だった。
朔也は、耐えきれないというように透を抱きしめた。背中に回された腕の強さに、透は初めて、この男の底知れない孤独と執着を知る。
「行かせない」
朔也の低い声が、透の首筋に落ちた。
「たとえ春が来ても、君の季節だけは僕が止めてみせる」
外はもう、夕闇に溶け始めていた。
これからやってくる鮮やかな季節の中で、この暗い部屋の二人だけが、永遠に溶けない雪の中に閉じ込められているかのようだった。
コメント
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初めてのBL!頑張ったなー!