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受付前に立て掛けられた時計が午前2時を指している。もう何度目の深夜か分からない。淹れたてのはずだったコーヒーはすでに冷めきっていて、香りの残骸だけが僅かに漂っている。
深夜は、夜行性や急患、そういった動物達がここを訪れる。それでも日中より客数は比較的少なく、ここの職員の間ではこの「深夜」の時間が「休憩」と認識されている。
客が来ない間、受付はこれといってする事は無く、ただ隅にある簡素な椅子に座って客を待つだけだ。
廊下から静かな足音が聞こえる。足音は丁度受付の前で止まり、軽いノックの後、ゆっくりと扉が開く。
「えっと、夜遅くにすみません…!コーヒー、いれてほしくて…」
ドアを開けて入ってきたのは、ここの病院ではちょっとしたドジとして知られている看護師だ。看護師ちゃんは俺と同じ犬で、犬仲間としてたまに話すことがある。とはいえ、この看護師ちゃん、めちゃくちゃ可愛い。俺より背がだいぶ低くて、少しもちっとした体型で…
「あ、あの…秘書さん?聞こえてますか…?」
彼女の一声で意識が現実に戻る。だめだ、今日は疲れているのかもしれない。
「あ、うん!コーヒーだっけ?淹れるから待ってね。」
咄嗟にコーヒーマシンを確認する。コーヒーはまだ残っているはずだ。
…あれ?カップが無いな。
誰かがいつの間に持って行ったか?
いや、そんなはずは───
「あ、カップ…!ごめんなさい、さっきインターンさんが掃除のつもりで片付けちゃったのかもしれません…!」
あの兎いつの間に…
「わ、わたし取ってきます!」
「あ、待って…!」
一人で取りに行かせて大丈夫だろうか。
いや、何を心配してるんだ?さすがにあの子もそこまでドジじゃない。
そんなことを考えながら、彼女の帰りを待った。
数分後、彼女は両手にカップを持った姿で受付に現れた。
「秘書さん!カップ取ってきました!」
意外にも待つ時間は短かった。いや、彼女のことを考えながら待つ時間が短く感じた。深く考えすぎていたのかもしれない。大体、看護師ちゃんだって成犬だ。子犬じゃない…
「きゃあっ───」
小さな悲鳴の後、目の前で彼女が思いきりすっ転ぶ。その次、カップが割れる甲高い音が受付中に響く。
「いたっ…!」
見ると、彼女の頬に切り傷ができていた。血が滲んでいて痛々しい。どうやら、転んだ拍子にカップの破片で切ってしまったようだ。
「ご、ごめんなさい…こんなつもりじゃ…!」
彼女が慌てて俺を見上げる。その目は薄らと潤んでいて…
衝動的に手が動いた。
「ひゃっ…!」
ポケットからハンカチを取り出して、目線が合うまで屈み、頬の血を撫でるように優しく拭く。自分でも信じられないほどの反応速度だ。
「あ…ありがとうございます…」
ハンカチ越しに伝わる頬の温かさ、柔らかさ。手首に掛かる滑らかな吐息。生々しい感触を手で感じる。そうしていると、どこか変な気分になる。
なぜか急に恥ずかしくなってきて、思わず手を離す。
「ご、ごめんね、急に触って…!嫌だった?」
彼女は何も答えない。その代わりに、不思議そうな顔で俺を見つめる。
時計の秒針が一秒一秒を刻む音だけが耳に届く。
「…」
彼女は一頻り黙った後、俺の頬に右手を添える。
触れられている。今。左頬に小さな手の温かみを感じる。彼女に聞こえてしまうか不安になるくらいに心臓が脈を早打っている。
「…ちょっと前から思ってたんですけど…」
「わたし…秘書さんのこと……」
(ドアの開閉音)
突然、受付の扉が開く。
その音に驚いたのか、彼女の手が素早く引っ込められる。
「やあ!看護師さんいるー?」
外科医だ。片手にはなぜか消火器を持っている。
「部屋全体で火事起こっちゃってさ〜。医療チーム総出で消しにかかってるんだけど、まだまだ消える気配がなくて…よければ手伝ってほしいんだけど…」
なんて空気の読めない鹿なんだ。
「あっ、わかりました!すぐ行きます!」
彼女が慌てて立ち上がる。
「じゃ、先行ってるから!消火器だけ持参して!場所は…見たら分かると思う!」
それだけ言い残すと、外科医は奥の病棟の方へと歩いていった。耳を澄ますと、何かが倒れる音や誰かの悲鳴が聞こえてくる。
「えっと、わたし、もう行きますね…!」
こちらに寂しげな眼差しを向けた後、ドアへと歩いていった。
去り際に一度こちらを振り返って、一言だけ。
「…ばいばい……」
小さく呟いた後、照れたように小走りで病棟へと向かっていった。