コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
私達家族は、裏路地の中でとても幸せに暮らしていました。
裏路地にしては比較的裕福な住民が多く存在する区域の為保護費が潤沢に支払われ、そのお陰で掃除屋や組織の危険が無い安全な場所で私達は日々を重ねていました。
お父さんにお母さん、そして二つ下の私の妹。素敵な艶のある白髪に、 まつ毛が長くて、真っ白な肌で…へにゃっと笑う可愛い可愛い大切な妹は、ちょっと内気だけどよく食べるのが大好きな子。
お母さんの美味しい料理を食べて、お父さんに抱きしめられて、妹の頭を撫でて。そんな風に過ごした毎日はとても暖かくて、かけがえのない大切な日々でした。
「…綺麗な手。」
「ふふん。でもお姉ちゃんも爪綺麗な形してるねっ」
私より一回り小さい手を私の手に合わせ、重なる指の隙間から見えたこの子の表情が。木漏れ日の中にパッと咲いた花みたいに笑うこの子を見て、胸の奥が染まる様に暖かくなりました。
この暖かさが、ずっと続けばいいのに。
…ある日、お父さんとお母さんが喧嘩をしていました。あんなに叫ぶお母さんも、あんなに怒鳴るお父さんも初めてで、私達は部屋で大人しくなるまで待っていました。
…その日以降、お父さんは帰って来ませんでした。
それからお母さんは少しずつ元気が無くなっていきました。ご飯を作らなくなって、 いつも全員が揃っていたリビングでただ椅子に座ったまま。
最初の数日間は啜り泣く寂しい声が家に響いていたが、そんな気力すら無くなってしまったらしい。今では糸の切れた人形みたいに項垂れたままで。 そんなお母さんを横目に冷蔵庫へ向かい、残った食材を漁っていました。二人で暖かいご飯を作り、それを振る舞えばお母さんも元気になるだろう…と、年相応の可愛らしくも馬鹿げた考えからだった。
しかし子供の考える事など何処かしら抜けている物で、キッチンに立った二人はそこで漸く自分達が料理を出来ない事を思い出した。何時だって包丁の心地良い音が響いていたキッチンで少女二人は、包丁を握る事さえ出来なかった。
「…お父さん…」
「………ぁ?」
ふと、妹が口に出した言葉は。
お母さんをこのような様にした原因である父への怒りでも無く、また哀憐でも無く。ただ暖かいあの日を切に願うか細い声だった。
その言葉は当の本人に私、そして背後の影を気落ちさせた。
椅子を引く音。大きくなる足音。
料理は全く出来なかったが、それでもその心意気を買いまた戻って来てくれたのだと思っていた。
…隣の妹が、叩き飛ばされるまで。
考えるよりも先に私は妹へ駆け寄っていた。何が起きたのか分からないといった様子で頬を押さえるこの子。押さえた部分がじわじわと赤くなるのを見て、その元凶へ視線を向ける。
そこにあったのは、刺し殺す程の眼光だった。
疑問、不安、怒り…そういったモノが 恐怖で真っ白になる。
その瞬間私は漸く…ようやく、あの日常が壊れてしまったことを知った。
そこからは最悪だった。
お母さんはいつも何か叫びながら叩いてくるようになったし、結局料理もしないままで。 逃げるように私達の部屋に籠もった私達は、その部屋から出られないまま、たまに投げ入れられるゴミを二人で分け合って食べた。
部屋から出れば何をされるか分からない為、私達は部屋で過ごすようになった。
「……お腹、空いたなぁ」
「…………」
その言葉を聞く度、あの日の暖かさが凍っていく気がした。常に視界に映り続けるこの子の身体はどんどん痩せこけていき、艶のあった白髪はボサボサに、真っ白だった肌は青痣だらけとなり、あんなに可愛らしい笑顔はもう表情一つも変えなくなってしまった 。
そっと抱き寄せるが、死んでしまったみたいに冷たい身体同士が重なるだけで暖かくはならなかった。
…お腹空いたな。
そんな日を繰り返していた時、いつもは私達を疎んでいたお母さんが、細い声で私達に話しかけて来た。
「……少し……外へ行きましょう……」
叩かれる事に慣れてしまった私達は断る事も出来ず、また了承の意を言葉にする事も出来ず、一切の表情を殺しながらただ首を上下させるだけだった。
閑散とした路地を幾つか抜けた先、周りの廃れた建物とは全く異なる木造の建物が見えた。立て掛けられた看板には”ピエールのミートパイ”の字。
その店名からして飲食店なのだろうが、なら何故お母さんは其処へ向かうのだろうか? 心変わりした…訳では無いだろう。今だって何かブツブツと呟いては私達を睨んで来る。
その瞳は未だ私を震えさせるが、私の後ろをくっつく様にして歩くこの子はとうに慣れきってしまったらしく、何の反応も無いまま歩幅を合わせていた。
「いらっしゃ〜い!3め…」
「────…」
「…あら?あらら〜?珍しいお客さんね!」
何か話しているが、元気なお姉さんに比べお母さんの声はあまりに小さく聞き取ることが出来なかった。
「…───……────…」
「う〜ん…お断りするわ!貴方はともかくあの子たち、全っ然美味しそうじゃないもの!」
「…─?」
お母さんの絶叫が始まった。お姉さんの胸ぐらを掴み、今にも殴り掛かろうとしている。耳を劈く程の声量の割にその声は聞き取る事が出来ず、あの頃のお母さんは死んでしまったのだろう。私には化け物の咆哮にしか聞こえなかった
そんなお母さんを物ともせず、お姉さんは私達を一瞥した後、カウンターの奥へお母さんを連れて行った。
そんな様を私達二人は、一緒になって眺める事しか出来なかった。
…大分時間が経って、ようやく奥から出てきたのはお姉さん一人だけで。その手に二枚の皿を携えていて。
「さぁ、私特製のミートパイよ!」
駄目な匂いがした。
私達の部屋で山積みになった蛆も湧かない生ゴミより、偶に溢れて止まらなくなる酸っぱい胃の液よりも、もっと酷い…気持ちの悪い匂い。でも、
腹の虫は治まらず、空っぽのお腹がきゅうきゅうと泣いている。本当に久しぶりのマトモな食べ物を目前にして、普段からふわふわしてるこの頭が更に働かなくなってる感覚がする。
(…そうだ、あの子は……?)
なんとか意識を他に向けようとすぐ隣を見やる。整っていても酷く窶れ、貼り付けた様に感情を見せなくなった妹は、細く手に取ったパイを虚ろな目でじっくり見つめた後…
…パクリと、一口。
「…………美味しい。…おいしいぃぃい………」
ポロポロと雫を零し、その表情を綻ばせた。
それが嬉しくて…綺麗で、綺麗で……
自分の事なんて忘れてしまった私は、立ち上る湯気が冷めるまで、その横顔をずっと眺め続けていた。
お母さんが居なくなった私達は、まずお金を稼ぎ始めました。家の中には食べ物なんて一つも無く、冷蔵庫は無為に氷を吐き出し続けたまま。
裏路地の貧相な飲食店や、人手が足りていない工房で雑用でも何でもして。子供相手だからと足元を見られたり支払われないなんて事もあったけど…それでも、前よりはずっと良いから。
そうして溜まったお金で、パジョンを二切れも買ってみたの。
「………うん。」
美味しそう。よく焼けてるし、付属のソースは甘辛い匂いで食欲を誘ってくる。
…でも、不思議とそこまで魅力的に映らなかった。
「…せーのっ」
「「いただきます。」」
どうしても余してしまう広いテーブルで、二つの声が響いた。
切り分け、ソースに付け、この子の口元まで持っていく。相変わらず窶れてはいるが、それでも前より透き通っている目と目が合う。 少しばかり驚いた後、遅れて前の様にへにゃっと広角を上げる。
…本当に、可愛らしい。
小さな口を精一杯開け、出来る限り頬張ろうとしている。中々噛み切れず藻掻く様を見て、もう片方の手で優しく撫でてしまう。
「……う、うぇ……っぅ 」
「…えっ」
噛み切れ無かった部分がしなだれる。口の中を空にしようと吐き出し続けている。慌てて駆け寄るが、息もできずえづき続けるその背中を擦る事しか出来ない。
そして背に触れる度その弱々しい身体に恐怖を覚える。今にも力尽きそうな体は跳ねる様に震え、最後の体力を使い果たそうとしているかの様だった。
食べられず、働いて、吐き出して。
体の弱いこの子は、もうとっくに限界だったんだ。
「だ…駄目!!…大丈夫、お姉ちゃんが何とか…」
そうだ。私が助けないと
お姉ちゃんなんだから。
(この子が食べられる物…パイ?違う。もっと…… )
この子の美味しそうに食べる姿を思い出す
迷ってる時間は無い。
擦っていた手を下ろし、その手で目元を隠して左手を口元に寄せる。
「これ食べて!!大丈夫だから!!」
「…、……」
パクリと、甘噛みみたいに優しく噛む。しかし優しく撫でるみたいに舌が触れると、口にある物がようやく食べ物だと気付いた様で、どんどん力が強くなっていく。
「…そう、大丈夫だから。…大丈夫。」
噛み千切ろうと左右に動く歯が肉に食い込み、その途中で皮膚が裂ける。皮下組織が押し退けられる様にして分離していき、その先にある細い骨にも圧力が掛かる。そして
「…、………よしよし。……よくできました。」
笑顔のまま寝息を立て眠るその頭を撫でてやる。
その白髪に、少しだけ赤を垂らしながら。
…結局、私達は普通の食べ物を食べられなくなってしまった。幸いあの子は何も知らないし覚えてないみたいだけど、このままじゃ二人仲良く餓死してしまう。
…人。 裏路地での人の命は軽い。
身に染みて分かった事だ。あの子の為なら、あの子の笑顔の為ならば…幾らでも肉は用意しよう。
この子に毛布を被せ、氷水の中から指の欠けた左手を取り出す。歯形になってしまった断面をそっと拭き取り、お母さんが使っていた包丁を右手に携えて。
私は裏路地に駆けた
最初は弱そうな女の人だった。
建物から飛び降りながら思いっきり肩を刺し、転んだ所に馬乗りになって何度も何度も刃を突き立てるとようやく動かなくなった。
持ち上げることは出来ないので足を掴み、目的地までなるべく素早く引きずる。初めての肉の調達はやはり上手くいかず、動かなくなるまで悲鳴を響かせてしまったからだ。
いつ他の人間が来るか分からない為、早くしなければ。
「……………。」
無駄に掌へ力が籠もる。
元は人間だったモノから太く、赤黒い線が描かれている。触れた先の温度が失せる。
すぐ後ろの情景が容易に想像出来てしまい、目を伏せながらただ前へ足を運ぶ。
…ようやく目的地へと着いたようで、目の前のドアを三回ノックした。
「いらっしゃいませ…って、君は…」
「…料理を、教えて貰いに来ました」
「…前にピエールが言ってた子か。さ、入ってきな」
「さぁ!新鮮な食材も持って来たわね!」
「はい」
私がもう一度この店に訪れたのは、この人の料理を学ぶ為。
使っている肉が人の肉だなんて、あの子には絶対に知られてはいけない。それに…あの時の美味しそうに食べる表情が、どうしても忘れられなかったから。
次は、私の料理であの子を笑顔にするんだ。
「まずは下ごしらえよ!どんなに良質な食材でもこの工程は省けないわ。…とは言っても、この食材はもう死んじゃってるから基本的な物を教えるわね!
まず胸元からへその辺りまで刃先を使って開いて───…」
「………」
「喉仏は後で使うからなるべく傷付け無いように、刃を深く入れて首元を一周。そして背中の肋骨と仙骨を断ち切ってあげると〜?」
「………ぅ……わぁ…」
ピエールが頭を引っ張る。すると簡単に頭は外れ、断面から繋がった背骨がずるずると這い出てくる。
覚悟はしていたつもりだった。ただ、本当につもりなだけだった。少しだけ、少しだけ血を見るだけなんて考えていた軽率で楽観的な自分に今更気付く。この人だって私と同じ様生きていたし、私さえ居なければこの先も生きて居られたのだろう。 私が、殺したんだ。
…それなのに、
「───と、こんな所かしら!血抜きは丁寧に、後は塩水で浸けておくと身が締まって食感が良くなるわよ!」
「はい。ありがとうございました」
「また来なさい!次は生きてる食材で──…」
「はい、また来ますねっ!」
ドアを乱雑に開け、頂いた肉の入ったタッパー、野菜に各種調味料の入った袋を抱え、足早に帰路へ駆けた。
…お腹が空いた
早く、早く食べたくて仕方が無い
「…美味しそうな顔するじゃない…!」
食材を大きく切り分け、フライパン全体に油を敷き、不器用ながらも炒める。 しっかりと下処理された肉も炒め、貰った調味料を回すようにかける。 廃れて久しいこの家に、久しぶりの温かな食事の匂いが充満する。
作っている本人も気が気じゃないようで、何度も置いてある包丁で指を切っては押さえてを繰り返している。
やがて不格好な肉野菜炒めが完成した。食欲を掻き立てる匂いと温かさを孕んだ白い湯気がゆらゆらと立ち上る様は、かつての幸せな家族を想起させた。
「……んぁ……良い匂い……」
「ちょ、ちょっと!そんなに動いて…」
「ふふ、大丈夫だよ。」
力ない足取りでキッチンまで歩いて来る。この子もよっぽどお腹が空いて居るらしく、以前にも増して目に生気がない。
私はそんなこの子を椅子に座らせ、目の前に出来立ての食事を置いてやる。
「わぁ……!!これ、お姉ちゃんが作ったの?」
「…そう…だね。丁度今出来た所だから一緒に食べよう?」
「うん……」
両手を合わせ、二人で命に感謝を伝える。
まずすべきは謝罪なのかもしれないが…そんな事、ただの肉野菜炒めには必要ないだろう。
…この子は前の件もあってか、あまり気は乗らない様に見える。箸で掴まれた肉をただ眺めるだけだ。なら、
「あむ……ん、おいしい。」
「………私も…」
私が先に食べて見せると、恐る恐るといった様子で口に運び始めた。けど、たった一口食べた瞬間タガが外れた様に食べ進め、遂には平らげてしまった。
…本当、美味しそうに食べる子。
「ご馳走様でした!」
「…ん、お粗末様でした。」
そんなこの子の顔を眺めていられる時間が幸せで仕方無く、目の前の皿の中身がどんな味だったかも覚えていない。
また、胸の奥が暖かくなる。
私は名残惜しさを抑えつつ、口周りに付いたソースを指で拭ってやる。するとこの子は少し悪戯っぽい表情をした後、私の指ごと口に含んでしまった。
「あむっ………?……………!!!」
暖かい口内と唾液。絡み付く舌先。ちゅうちゅうと吸ってくるその姿に、包丁で切ってしまった傷がじわじわと心地良さへと変わっていく。
傷口と口内。誰にも触れさせはしない箇所を重ねるその情景は、先の暖かさとはまた違う、火傷を伴う位の熱と鼓動を感じさせた。
必死にしがみつくその姿が、従順で元気いっぱいの犬みたいで。そんなこの子が、愛おしくて愛おしくて…本当に、
「…美味しそう。」
………?
不意に吐いた言葉がどんな意味だったかを思い出せず、その日はこの子を抱き締めて眠った。
しっかりとした食事を安定して食べられるようになった私達は、前よりもいい生活を送ることが出来ていました。
朝食を二人で囲み、二人共別の仕事へ赴き、お昼は私の作った弁当を持たせ、日が暮れる前くらいに帰ってくると、互いに今日の事を話し合いながら夕食を囲む。
本当に、なんの変哲もない幸せな日々。
溜まったお金で素敵な白いワンピースも二人分買い、毎日一緒にお風呂にも入っている。
そのお陰か足元を見られることもなくなり、毎日不自由なく暮らせる程度のお金が入ってくる。
料理だって、あの子の笑顔を見るため日々精進してるし、こっそり工房製のナイフを買ってからは肉の調達も何一つ不自由なく行えていた。
…行えていた、のだが…
「…またあの人達…」
紫色の衣服を着ていて、鎖をジャラジャラと鳴らしている体中落書きまみれの人達。 あの人達が裏路地へ来たのはつい最近だったが、昼夜問わず闊歩し続けるせいかそれ以降調達しやすい肉を見掛けなくなってしまった。
…邪魔でしかない
家にも肉のストックこそあれど、どれもあまり長持ちしない。というより切らしてはならないのだ。たった一食だって抜きたくはないし、二度とあの子を空腹にさせはしない。
何とか一人行動している奴を見つけ、家までの道に誰も居ない事と、路地に入った所を確認する。少し観察していると呑気に煙草に火を付け始めたので、いつものように飛び掛かる。
「ごめんなさ…えっ」
「…はァ?!」
首元を狙った刃は大きく逸れ、その腕へ大きな赤線を引くだけで、そのまま私も思いっきり転んでしまった。
いや、それよりも…
「お父さ…」
倒れている私の首をその太い腕で絞め上げてきた。圧迫される首から上に血液が溜まり、キーンと変な音が聞こえてくる。
叫ぶようにお父さんが続ける。
「違う…違う違う!!!あのクソ女が悪リィんだよ…!!!ウチの会社は小さいから安定しないって…それに同意したのも、付いてくるっつったのもアイツなのによ…」
「…………。」
「…その面見てると…糞ッ、あの女を思い出して腹立つな。」
固く握られた拳は何度も振り下ろされ、石を打ち付けられたみたいな衝撃の度、手足が訳分からない方向へ伸びては収縮してを繰り返す。暴れ狂う下半身は馬乗りになっている男のせいで自由にならずに。
何かが割れた。
何かが外れた。
何かが溢れた。
体の構造なんて知り尽くしている私には全部解ってしまう。勿体ないなあなんて考えながら、ずっと握っていた拳を男の首元へ思い切り押し付ける。
その掌の中には、工房製のナイフ。
冷たくなってきた指先に暖かさを感じた。それが体温なのか、かつての父の温かさだったのかは分からないが…ナイフを捻った瞬間、もう戻りはしない事を察した。
男は私から降りること無く悶えていたが、その痛みと恐怖を拳に乗せ、最後の抵抗とでも言いたいように振り下ろしてきた。
割れた頭蓋骨の裏から、脳味噌が零れた。
その瞬間、遥か後ろから聞こえてくる銃声。
ナイフを突き刺していた私の腕ごと、男の首が消し飛んでしまった。ほぼ反射で背後を見やれば、赤いコートを羽織った人達。
「命中。処理完了しました。」
「待て待て待て。誰が弾丸使えっつった?銃声で中指の連中集まってくるやろが。」
「…!了解いたしました。上の者のご意向に添えない者には下顎を…」
「せやから弾丸を───!」
何か言い争っているその背後、サングラスを付け、紫色の服装に鎖を巻き付けた男が怒号と共に飛び掛かっているのを見てしまい、私は倒れ込む肉を退け、なんとか動いた両足で逃げ出した。
足元の肉も、ぐちゃぐちゃになった私の脳味噌も、全て無視して。
今の私には知りようのない事だけど、25区の裏路地では親指と中指という組織間で大きな抗争をしていたらしく、たまたま今日。あの場所が始まりだったらしい。
何故比較的平和なこの区域でそういった事案が発生したのだろうか。住人によって保護費が払われている筈のこの区域で、何故この様な酷い痛みを抱えねばならないのだろうか。
…その理由は単純明快で、この区域の住人による行方不明が相次いでいた為だ。
該当区域に住む住人は突然姿を消し、残るのは少量の血痕のみ。死体すら発見されないまま行方不明者を出し続けるこの区域で、高い保護費を払ってまで残ろうとする者は居なかった。
その原因である少女は、何も知らないまま。
…私は、何も知り得なかった。
お父さんがああなった理由も、
お母さんが壊れてしまった理由も。
少なくとも、原因さえ分かっていれば未だに暖かい食卓を4人で囲めていたかもしれないのに。
今はただ、冷たい私だけ。
「…………。」
何だか考えが変な方向へ行ってしまう。
零れる脳味噌を押し戻す。
「………お腹、空いたな。」
お腹なんて、空いてない癖に。
…最初っからずっとそうだった。空っぽで切ないこの心を、胃袋を満たすことで満たしたかっただけ。
切望して、欲しくて欲しくて胸が切なくなる。これを空腹と言わずして何と呼ぶのだろうか。
別に、私は人以外も食べることは出来た。あの日のパジョンだって残りは捨てずに食べられたし、あの子みたいに吐き出しもしなかった。 ただ、人を食べたその時だけが、人間の暖かさが。あの日からの空腹を隠してくれたのだ。
手の内にある暖かさの残穢を舐めた。
…どうしようもない程、鉄だった。
「…………。」
霞み切った視界で扉を開け、慣れた手付きで鍵にチェーンを掛ける。肋の奥の脈拍が切なくて仕方が無い。 立っているのが辛く棚に寄りかかれば、その上にある中身の腐った花瓶が滑り落ち、パリンと音を立てて砕けた。
そんな音に釣られてか、あの子が走ってくる。
「お姉ちゃん?おかえり……」
何にも代え難い素敵な笑顔は数瞬で失せ、私を心配してか心の底から辛そうな表情をする。
…そんな顔、しないでよ。
あの日の暖かさが欲しくて、周りのせいにして。私がこの子を温めてあげなきゃいけなかったのに、 人を殺して暖かさを得ようだなんて
こんな私が、幸せになんてなれるわけないのに。
細く、白く、それでも力強い血脈を感じる健康的な腕に触れる。血で塗れた私の手とは違う綺麗なその掌は、あの日と何も変わらなかった。
…結局、あの日を壊したのは私だった。
顔が、上げられない。
丁寧にその腕を離した瞬間、玄関扉の裏から怒号が聞こえた。
「おい!!!!!ここに居るんだろ!!!!!俺らの家族に刃を突き刺し、あまつさえ命を奪ったクズ野郎が!!!!!
…中指は忘れない。”中指の者に危害を加えた者は関係者、親族もろとも皆殺し”だ!!!!!」
乱暴に叩かれる扉は今にも外れそうで、扉の先にいる人物が容易に想像出来てしまう。
この子だけでもと伸ばす腕に先は無く、ただ断面を見せつけるだけだった。もうこの子の為に料理なんて出来ないし、抱き締める事も叶わないのだろう。
「………ごめんね。…ごめん。……ごめんなさいっ………!!」
ただでさえ霞む視界が歪み始める。
なんて情けない姿なのだろう。
恐る恐る隣の妹を見やれば、私の手首の断面をまじまじと見つめていた。
怖がらせてしまっただろうか?と、すぐさま手を下ろせば、キュウとその場に似合わぬ可愛らしい腹の音が鳴った。
強く私に抱き着いて来る。
「…ごめんね、お姉ちゃん。…でも、もう…我慢出来ない…!」
私の断面へ歯を立て、いつかの夕食みたいにがっつくこの子は、眼前の私を肉としか見ていない様だった。 広がり続ける鈍く深い痛みに、また新鮮な鋭い痛みが乗せられる。痛覚の先へ目をやれば、私を頬張る白銀の天使。
怒号と扉を叩く振動が、最初から存在しなかったみたいに聴こえなくなる。止まっていた心臓が、また脈拍を始めたみたいに胸が熱くなる。
この子以外の全てが、見えなくなる。
「…ずっと満たされなかった。ずっと寒かった。お姉ちゃんのご飯もすごく美味しかったけど…それでも、全然駄目だったの。」
私を突き刺すその目は、あの日のお母さんと酷似していて。酷く恐ろしい筈が、胸の鼓動が抑えられなくて。
「でも、お姉ちゃんだけは違かったの。ずっと頭がふわふわして、何だかドキドキが止まらなくて…とっても暖かかった。 」
「……私…は、…… 私も、ずっと寂しかった。
…あんなになっても、お母さんもお父さんも…大好きだった。」
口にして初めて、これまでの空腹が寂しさであることを知った。
「だけど…だから、貴方だけでも幸せになって欲しかった。…もういいの。今すぐ逃げ──…」
「お姉ちゃん。」
「………?」
「…お腹、空いたな。」
二人共長い時間見つめ合って、互いに馬鹿らしくなって笑った。
どれだけ痛くても、どれだけ血塗れでも。あの日と変わらぬ暖かさが心地良かった。
…震える片手でそっと抱き寄せる。 その身体は今この瞬間も生きてることを誇示みたいに柔く、そして温かかった。 その事実がどれほど私を満たしてくれたのかなんて、この子は知らないのだろう。
もう、お腹は空かなかった。
減っていく体積と、それに反比例する心を満たしていく感覚が、私達の間を埋めていく。
どちらともなく、言葉を吐いた。
「…私達、ずっと一緒だね。」
扉が開いた。