ガヌロンの心は限界だった。
どれだけ立派な屋敷に住んでいても、ガヌロンの味方は誰一人いないように思える。
自らを追い詰め、呪い続けた結果、その心はガヌロンは死んだと誤解した。
もう死んだ方がマシだ。死んでいる方が楽だ。
だから、もう死んでいる。
もう、何も考えなくていい。
だって、もう死んでいるのだから。
心が急激に回復していく。
回復というのは語弊があった。心そのものが失われていくことで、自らを呪う自分自身もまた失われているだけだ。
強度限界を迎えた心の自己崩壊。
酷使され続けた心の自殺である。
人が自殺する時、そこに苦悩や絶望があることは皆知っていることだが、実はそれだけがすべてではない。強烈な自己愛もまたそこに生まれることがある。
現実で向き合うべきあらゆる責任を放棄し、自己憐憫に浸りながら、胸にナイフを滑らせる。自分が楽になるために、ただその為だけに世界のすべてを拒絶する。
そこにあるのは歪ではあれ、また一つの愛なのだ。
氷の呪いを解く方法はただひとつ。
誰かに愛されること。
ガヌロンは自らの愛によって、呪いを一部打ち消した。
「なんだ、この胸を焼く熱は」
氷塊の一部が欠け割れ、心の底に落ちていくように。
過去の記憶が落ちていく。
誰も知らない心の水面にその氷が触れた時、記憶が流れ出した。
「なんだ、これは」
ありありと浮かぶそれは。怒号をあげ、襲いかかってくるトロンの兵士たちだ。国境を越え、一目散にヴィドール領に攻めて来る。
それは過去のループの記憶。
凍り付いたガヌロンの心が保持し続けてきた。死の記憶である。
停戦条約を破り、宣戦布告もなく、フリージア本国との話し合いすらなく、トロンが単独で攻めてきたのだ。
みるみるうちにランバルドの要所を攻め落とし、ヴィドール領へと押し入り、この館にまで攻めて来る。
「答えろ! なぜフェーデを殺した!」
烈火の如く燃える瞳で、アベル王子が叫ぶ。
それはフェーデが自殺し、ガヌロンのトロン攻めが遅れた世界線。
その世界のガヌロンは何と答えたのだろう。
うまく思い出せないが、言われたことは覚えている。
「貴様には死すら生ぬるい、凍てつく呪いをくれてやる」
アベルの魔法がガヌロンの心を凍らせる。
誰かに愛されるまで解けない氷の呪いは、ガヌロンの人生を大きく歪ませた。
まず、他人への興味が失せた。自分自身のこともどこか他人事のように感じる。
あらゆる記憶が長く保たない。記憶を捕まえようとしても、すべるようにどこかへすり抜けていってしまう。
目も悪くなった。
どういうわけか、すべてがぼやけてみえるのだ。
ヴィドール領から追放され、浮浪者として各地を徘徊しても、ロクな仕事につくことができない。
他人も自分も蔑ろにし、物覚えも悪い。
その上、元貴族らしい傲慢さの残る男など誰も雇いたくはない。
そのルートのガヌロンは食うに食えずに乞食となり、枯れるように死んでいった。
ここにアベル王子の大きな誤算がある。
凍り付いた心が記憶と共に次のループに持ち越されることをアベルは知らなかった。
やむを得ないことだろう。
誰だって、来世の他人がどんな人生を送るかなどわかるわけがない。
今生での行動が来世にどのような影響を与えるか、知り得るわけがないのだから。
「ハハ! ハハハハ!! そうか、そうかそうかそうか!!」
ガヌロンは思い出した。
どういう理由かはわからないが。とにかくトロンが、アベル王子が攻めて来る。
どこからどのように、どんな手段で攻めて来るか、すべてわかっている。
あの苦渋、あの辛酸、すべて克明に思い出せる。
トロンを攻め落とすことができなくても、攻めてきたアベルを仕留めることはできるのだ。
何せ、相手の手はすべて視えているのだ。これほど容易な戦はない。
本来、王子自らが最前線を走るなど考えられないが、絶対にそうなるという確信があった。
ならば手はある。
やりようはある。
今のアベルにトロンを攻める理由がないなら、作ってやればいい。
「アンナ! アンナをここに呼べ!! 出かけるぞ!!」
まだだ、まだ俺は英雄になれる。
人々に愛される人間になれる。
たとえすべてを利用してでも、俺は幸せになってみせる。
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