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⧉▣ FILE_006: 女の子 ▣⧉
Lになるかどうか──その問いは、ずっと脳のどこかにこびりついていた。
答えが出せないまま、僕は黙々と部屋の掃除をしていた。
理由は単純。
もしLになるのなら、部屋を片付けている暇もないからだ。
それはつまり──僕が“日常”と呼んでいたものが、終わるということだ。
僕とBは、同じ部屋を使っている。当時のワイミーズハウスは、来た順に部屋が割り振られていた。
No.1としてここに現れたのが僕で、No.2がBだった。
だから、僕たちは同室になった。ただそれだけの理由。
とはいえ、空間ははっきり分かれていた。
左半分が僕。右半分がB。
視線で線を引けるほど、境界は明瞭だった。
Bのテリトリーまで掃除機をかけると、埃はほとんど出なかった。
本棚はきっちり並び、机の上に無駄な物はない。
──誰も暮らしていないみたいだ。
「……綺麗好きだよな」
小さく呟いた声が、部屋の空気をすくって消えていった。
昔はもっと物が散らかっていた気がする。でも今は、“誰かが来るのを待っているみたいに整っている”──
──それに比べて、僕の方は。
白紙の譜面。
書きかけの楽譜。
音のかけらたちが床に散らばっている。
落書きのようなメロディ。何度も同じフレーズを書き直した痕跡。
足の踏み場さえない。
いつか、ネットにあげようと思って描いた楽譜が、床にバラ撒かれていた。
……全部、要らないものだった。
そのひとつひとつを拾い上げて、もう一度見る。どれも、未完成のまま。音になっていない。
「これは……要らないか」
ゴミ袋に放り込む。
「これも」
ひとつずつ、過去を手放していくように。
音を捨てるのは、僕を捨てるのと同じだった。
でも、Lになるということは、きっと──もう僕は僕を奏でられなくなるということなんだ。
それは──寂しかった。
誰にも言えないほど、声にも出せないほど、じわじわと胸を締めつける寂しさ。
誰かに音を聴いてもらうことも、もう許されない。
寂しいけれど、これが選んだ道なのだと、僕は自分に言い聞かせた。言い聞かせなければ、きっとまた音楽にすがってしまうから。
「……やりたくないな」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰にも聞かれない部屋の隅に吸い込まれていった。
ゴミ袋はすでに膨らんでいた。小さい頃に抱いて眠ったぬいぐるみ、着古した洋服、昔描いた夢の景色。──僕が僕として生きた証が詰まっている。
でも、もう、僕の過去はいらない──
Lになるために育てられた僕らに『僕らの夢は必要ない』──
Aは、また一枚、譜面を手に取った。そこには、まだペンの跡が新しい、未完の旋律がひとつだけ、残っていた。
すると──
「ちょっと……」
背後から声がした。
見れば、開けっ放しだった扉にもたれかかるようにして、Cがこちらを睨んでいる。
感情を押し殺したような瞳。その瞳の奥にある怒りだけが、はっきりと見えた。
「……どうしたの? C」
僕が声をかけると、Cは間髪入れずに問い返す。
「Bは?」
「いないよ。たぶん中庭の方じゃないかな。……“弟達”と遊んでるよ」
そう答えた次の瞬間だった。
Cは無言のまま僕の部屋に踏み入れて扉を閉めた。
そして──
──カチャリ。
「えっ」
小さなその音が、部屋の空気を変えた。
僕は手元の譜面から顔を上げる。
「どうして──あんたがL候補なの?」
沈黙が一拍、二拍──
「………………」
その静けさの奥に、僕は思わず自分の内側を覗き込んでいた。
どうして……僕がL候補か?
何度考えても答えなんて出ないし、答えがあるなら、僕だって知りたい。
「それは……僕にも分からない」
ようやく口にできた言葉は、情けないくらい素直だった。
嘘をつくのが面倒だったわけじゃない。
──本当になぜ選ばれたのか分からなかった。
「……分からないって、どういうこと?」
Cの眉間は、さらに険しくなった。
ああ、まずい。また機嫌を損ねた。
自分でも分かるほど、僕の心臓が音を立てた。
「理由もなく、あんたがLに選ばれるはずないじゃない」
「……う、うん。そうだよね」
Cの怒りはもっともだった。
理由もなく、選ばれるわけがない。
それは分かってる。分かっているが──
「僕は……音楽の才能しかないし、推理とか、パズルとか……正直、苦手で……パソコンが得意ってだけで、Lなんて──」
「だから──」
その言葉を、Cがぴしゃりと断ち切った。
「なんで、“Lの才能がない初期ロットのあんた”が選ばれたのかって聞いてんのよ!」
ぐさり、と胸の奥を貫かれた。
その言葉はあまりに鋭くて、反論の余地もないほど真っ直ぐだった。
思考が一瞬で止まる。声が、出ない。
Cは一歩、僕の方へ踏み出した。
「どうせ、“A”っていうファーストアルファベットだからってだけでしょ? 一番最初に入ったからって、それだけの理由でLになれるなんて、いいご身分ね」
「──……」
「あんたがLなんて『名前負け』も甚だしいわ」
──何も言えなかった。
ああ、ダメだ。
分かってた。言われなくても、分かっていた。
自分が選ばれたことへの納得感のなさ。それは、僕だけが気づいていたんじゃなかった。
“選ばれるほどの才能なんて、本当はなかった”ってこと。
Cの言葉は、僕自身が一番触れたくなかった場所に、容赦なく突き刺さる。
悔しさが、ほんの少しだけ、胸の奥で熱を持つ。無力さと一緒に、反発心がゆっくりと滲み出してきた。
「……ぼ、僕だって、やりたくてやるわけじゃ……」
口をついて出た声は、かすかに震えていた。
「Bが……降りたから。仕方なく、代わりに……」
言ってから、胸の中に冷たいものが走る。
──言い訳だ。
それでも、僕の中にある何かを守りたくて出てきた言葉。
Cは、ため息すらつかずに言った。
「──で? だから、何? “やりたくないけど、仕方なく”……それでLになるの?」
僕は、はっとして言葉を詰まらせる。
「そ、それ、は……」
喉の奥がひりつく。
出しかけた言葉が、罪悪感に押し戻される。
──でも、Cは一歩も引かない。
「あんたが“やりたくない”って言うなら──そのLの座、私に寄越しなさいよ」
言い切ったその言葉に、胸の奥がひゅっとすぼまる。
「私の方が、適任よ」
その瞬間、冷たいものが背筋を走った。
でも──それでも。
僕は、首を横に振った。
「……だめだ」
「っ、なんでよ……」
そう言いかけたCの言葉を、僕は遮るようにして──
彼女の肩を、ガシッと掴んだ。
その手の強さに、Cは一瞬驚いたように目を見開き、
「──ひゃっ」
喉の奥で小さく音を漏らす。
「……それだけは──だめだ」
絞り出すように告げる僕の言葉に、Cは少しだけ戸惑った顔をした。
それから、視線を逸らすようにして、少しだけ頬を赤らめる。
「……な、何よ」
小さく、けれど棘のある声で言う。
「私じゃ才能がないって言うの? あんたよりはマシだと思うけど」
「違う!」
僕は即座に首を振った。
「そういう話じゃない。君に才能があるとかないとか──そういうことじゃないんだ」
Cが不思議そうに眉を寄せた。
「君は、“女の子”だ」
口に出した瞬間、自分でもその言葉の不器用さに気づいていた。理屈じゃない。だけど、それでも言わずにはいられなかった。
「……何? 性別で、差別する気?」
その一言に、僕の心臓が一瞬止まりそうになる。
すぐに、慌ててかぶりを振った。
「違う、そうじゃない。そんなつもりじゃないんだ」
「じゃあどういうつもり?」
僕は唇を噛みしめてから、ゆっくりと彼女を見た。
「僕は……君に、“幸せな人生”を、生きてほしいと思ってる」
「……」
「君はまだ若い。これから、好きな人ができるかもしれないし、家族を作りたいと思うことだってあるかもしれない」
「…………」
「でも……“L”になったら、それができなくなる」
言葉を選ぶように、一つ一つ、ゆっくりと。
「子供なんて作れないし、誰かと穏やかな時間を過ごすことも、幸せな未来を思い描くことすら──許されない」
Cは俯いていた。
僕の手の中で、肩がかすかに震えていた。
「君が、そういう人生を諦めてまで、Lになってほしくない」
それは綺麗事でも理想論でもない。
ただただ、僕の内側に秘めた本音だった。
「Lは──“若い女性がなるには、あまりに苛酷な役だ”」
Cが少しだけ顔を上げた。
その目にはまだ反論の色が残っていたけれど、それでも僕は言葉を続ける。
「Lになることで、捨てなきゃいけない未来がある。その中には──君にしか手にできない幸せだって、きっとあるんだ。それを投げ捨ててまで、Lになるのは……違うと思う」
沈黙が落ちた。
ほんの数秒、けれど息が詰まるほど長く感じられる時間の後──Cは唇を噛み、目を伏せたまま声を震わせた。
「……そんなの、私には関係ない」
その言葉は、確かな絶望を帯びていた。
「旦那も、子供も、未来も──そんなの、最初からいらない。誰にも必要とされなかったし、何もなかった私にとって……」
彼女は自嘲するように言った。
「Lになることだけが、“私の価値”なのよ。──ここにいる理由も、意味も、居場所も、全部……私にはそれしかないの!」
──痛かった。聞いているこちらが痛くなるほどだった。
それでも僕は、はっきりと言った。
「“Lになること”が、ここで育った者にとっての“幸せ”だなんて──僕は一度だって、思ったことがない」
Cの目が、わずかに揺れた。
何かを言い返したそうに唇が開いて、けれど、何も出てこない。
「君には、幸せになる権利がある──Lにはならない幸せを──」
それでも一言、搾り出すように呟いた。
──そうだ。
僕たちはLの名前を“生きる理由”にしちゃいけない。そうやって──心を潰してまで継ぐものじゃない。
それを、僕は伝えたかったのに──
「……あんたって……ほんっとウザイ」
言い終わると、くるりと背を向けた。
そして、ドアの方へ歩き出す。
鍵を、がちゃりと回す手が、ほんの一瞬、止まった。
「もういい……──大嫌い」
そう呟いて、Cはそのまま出ていった。
閉まりかけた扉が、微かに揺れる。
「……………」
ほんの少し、譜面を持つ手の力が抜けた。
Cのあの瞳に、自分はどんなふうに映っていたのだろうか──
「……僕だって、君のことが大事なのに」
その言葉は、誰にも届かないまま、消えた。
開け放たれた窓から入る風が、一枚だけ、床に落ちた譜面を揺らした。未完の旋律は、まだそこで、続きを待っている。筆を取るには、もう少しだけ時間がかかりそうだった。
僕は、拾い上げると、机の引き出しに譜面をしまった。その先に待っているのが、“L”であっても、なくても。
明日が来る限り、この旋律は──終われない。