『ハロ、オーヴェ、もうすぐクリニックに着く』
デスクに置いたスマホから軽快な映画音楽が流れ出したが診察室の隣の小部屋にいて着信に気づかなかったウーヴェは、書類を片手に片手のステッキを頼りにデスクに戻ってようやく着信があったことに気づき、肩と頬でスマホを挟んで留守番メッセージを聞くが、もうすぐ着くとの言葉に二重窓の外へと目を向ける。
冬が近づく空は既にうす暗く日増しに重苦しい空気を垂れ込めていたが、この重苦しい空の下を電話の声と同じく浮かれた気持ちでこちらに向かっているリオンを想像し、自然と笑みを浮かべてしまう。
もうすぐ着くと言っていたがこの着信はいつだったのかとスマホの履歴を確認すると十分近く前で、ああ、もうすぐ来ると呟き書類をデスクの引き出しにしまい込む。
今日はクリニックの事務全般を担ってくれているリアも帰ったためウーヴェしかおらず、居心地の良い静けさに包まれていた。
それがもう間も無くやって来る男によって破られることへの抵抗感がなくなったのはいつからだろうかとぼんやりと思案しつつデスクの端に尻を乗せる。
付き合い出した当初、騒々しい空気ーとしか言えない雰囲気ーに戸惑いを感じていたが、その空気がリオン独特のものでありまた特徴でもあると気付いた時から騒々しさよりも温かさや人柄を表すものだと好意的に受け取る様になったのだ。
取り立てて大声を出すわけでもないが何故か言動の一つひとつに大げさなほどの音がついて回っているような感覚に囚われ、人によってはそれを騒々しいと受け取ってしまうのだが、ウーヴェの中ではもはやその騒々しさは必要不可欠な温もりとと共にあり、存在しなかった頃を思い出せないほど当たり前のものとなっていた。
欠点としか思えないそれを心地よく感じるようになった己の心の動きに改めて目を向けたウーヴェはどれほど好きなんだと脳内で自嘲気味に呟かれ、そんな事は俺が聞きたいと己の影に向かって苦笑する。
無意識に左足太ももを撫でて目を軽く伏せ、足を悪くした事件を始め悲喜交々の出来事を二人で時には周囲の力を借りて乗り越えて来たが、その一つひとつの中で育まれ大きくなって来た感情だとぼんやりと思案し、肩越しに二重窓の外へと再び目を向ける。
まだもう少し雪が降りだすまでには時間があるが雪が降り凍りつくような寒さに支配される冬になると左足の痛みが過去の事件への扉を開くのではないかという恐怖を覚えてしまうものの、その恐怖が感情を伴って全身へと伝播する寸前、今度は右手をぎゅっと握りしめ薬指に感じる冷たい金属の感触を利用してその恐怖を追い払う。
「……約束」
意識しないで流れ出すその言葉に自ら力を分け与えられたように顔をあげ細く長く息を吐いたウーヴェは、二重窓の外から視線を室内に戻し恐怖に囚われた心身が暴走しなかったことへの安堵に胸をなで下ろす。
もうすぐ着くと言ったくせに何故まだ姿を見せない、声を聞かせてくれないんだと日頃のウーヴェからすれば信じられないような言葉を胸の奥に不満げにぶちまけた時、診察室のドアが壊れたのではないかと疑ってしまいたくなるような激しい音を立てる。
突然の物音に恐怖を感じながらも物音の原因がなんであるかなど考える必要も無いほど明白だった為、呆れた風を装いながらどうぞと声をかける。
「ハロ、オーヴェ! ダーリンが迎えに来たぞー」
「……遅い」
「へ?」
ドアを勢いよく開けて飛び込んできた金色の嵐に眼鏡の下の眼を平にしたウーヴェがボソリと呟くと、寒空の下でも元気一杯と称したくなるような男の顔が呆気に取られたようになり、鳩が豆鉄砲を食ったようなそれに自然と吹き出してしまったウーヴェだったが、ズカズカと己の前にやって来たダーリンが腰に手を当てて口をへの字に曲げた事に気付き謝罪の代わりの頬に手をあてがって不満を訴える唇にキスをする。
「……お疲れ様、リーオ」
「……むぅ」
「どうした?」
「どうしたじゃねぇ! さっきさぁ、遅ぇとか言わなかった?」
「うん? 言ったな」
素直に認めるウーヴェを睨めつける様に見つめたリオンだったが、そんなに俺が来るのが待ち遠しかったのかとにやにやしながら腕を組むとそっと眼鏡を外したウーヴェが小さく息を零した後、リオンの鼓動を速める様な笑みを浮かべる。
「ああ、待ち遠しかったな」
誰かさんがいつも言うから素直になってみようかな。
「~~~~~オーヴェぇ……っ」
「どうした?」
「あーもー!」
どうしてこう俺のダーリンはとくすんだ金髪を掻き毟りながら喚くリオンにウーヴェがくすくすと笑みをこぼし、今日も一日お疲れ様、晩御飯はどうすると問いかけるが、涙の滲んだ目で睨まれて頭を仰け反らせる。
「メシなんかどうでもいい!」
万年欠食児童とからかわれる事もあるリオンの口から流れ出した言葉にウーヴェが軽く目を瞠るが、勢いよく抱きしめられて目を瞬かせる。
「……こら」
「うるせぇ」
出来る事なら四六時中一緒に痛いと思っているお前がそんな事を言うから悪いんだとウーヴェの耳の後ろでリオンが吼える。
「……家に帰ろうか、リオン」
「帰る、今すぐ帰る!」
そしてキッチンに用意されているメシを食う前にお前を食うと涙まじりの声に宣言され、笑みを浮かべたままリオンのくすんだ金髪を撫でたウーヴェは、それも悪く無いとまた素直になってピアスが嵌った耳に囁きかけるのだった。
その後自宅に辿り着き玄関から最も近いリオンの部屋に文字通り転がりこんだ二人は、お互いに呆れてしまうほど貪るように抱き合い、満足した後も付き合いだした頃から変わったようで変わることのない思いを伝えるように互いの体に腕をまわし、今日一日の出来事や週末の予定を話しあうのだった。
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