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「は、早くないですか?」
迷いなく玄関にサンダルを引きずりながら入ってくる上司を見上げた。
「掃除してると時間ってあっという間に過ぎるよなー」
―――う。バレてる。
サンダルを脱ぎながら、彩加が在籍する営業三課の課長でもある|柳原《やなぎはら》|正也《まさや》は無表情でこちらを見下ろした。
上がり框に大きな裸足が上る。
彩加が入社してもう5年になる。当時30代だった柳原ともそれなりに長い付き合いになるが、裸足なんて見たことはない。
彩加は自分の家に男の上司を呼んでしまったことに、今更ながら緊張し始めた。
「じゃあ、お邪魔します」
相変わらず愛想の欠片もない柳原は、表情筋を動かさないまま彩加を見下ろした。
「どうぞ、散らかってますが」
言いながらリビングを指さすと、柳原は、ずかずかと上がっていった。
ダイニングに入るガラス戸をくぐって入っていく。
彩加は小柄なほうなので、ある程度背丈のある大の男はこれを潜らなきゃいけないという事実に少しだけ驚く。
リビングと言えば聞こえはいいが、市営住宅の間取りはそんなに広くはない。なぜか無駄に広いキッチンダイニングが六畳あって、そこに隣接するリビングも六畳の広さだ。
保育園に通う長女と長男の3人で食べるにはちょうどいい小さなこたつテーブルに、柳原はコンビニ袋をドンと置いた。
傍らに置いてあるサイドテーブルを見て、柳原は初めて顔を綻ばせた。
「これか。会社の廃棄のテーブルもらったってやつは」
言いながらその上に置いてあるノートパソコンを覗き込む。
「おっと!!見ないでください」
慌ててその前に立ちはだかると目を細めて彩加を見下ろした。
「見ないよ」
微笑んでテーブル脇に腰かけた。
「はい。これ冷やして」
言いながらプレミアム系のビールとハイボールを次々にテーブルに置いていく。
「あ、はい」
言われた通り、それらを冷蔵庫に突っ込むと、柳原は後ろに手をついて、彩加を意味深に見上げた。
「な、なんすか」
つい会社での癖で、色気のない声を出してしまう。
「そんなに酔っ払ってないんだなーと思って」
「え?」
「部屋に男を誘うぐらいだから、ベロンベロンに酔っ払ってんのかな、って思ったんだけど」
「…………」
いや、LAINをしていた時はもちろん酔っ払っていた。
それこそ、ベロンベロンに。
どうしようもなく酔っ払って。
どうしようもなく寂しくなって。
どうしようもなく誰かに甘えたくなって。
どうしようもなく思い切り抱かれたくなって。
つい、柳原とのトークページを開いてしまったのだった。
「あは、は」
謎の笑いをしながら、冷蔵庫を開けたついでに、食材を取り出す。
「ツマミでも作りますか?」
「……マジで?」
柳原の顔が引きつる。
「俺は、お前のこの間のメロン事件を忘れていないぞ」
メロン事件。
彩加は目を細めた。
綺麗に切ったつもりが全部少しずつ繋がっていて、その一つを持った人が他のくっついてきた大部分を職場の床に落とした悲惨な事件だった。
「メロンなんて高級品、切り慣れてないだけですよ」
言いながらそれを掲げる。
「ほら、それにこれなら安心でしょ?焼くだけっす」
そこにあったのはシャーエッセンソーセージだった。
「俺は、香薫ゝ派なんだけどな」
ボソッと呟いた声を無視して、彩加はコンロに火をつけた。
「俺さー」
焼き上がったソーセージを見て、柳原が呟くように言う。
「切り目入れないで焼いたソーセージ食べるの初めて」
言いながらそれを割り箸で持ち上げる。
「良かったですね。初体験が出来ますよ」
彩加は笑いながら隣に座った。
「ホントに火、通ってんの?」
「大丈夫ですよ、生でも食えますから」
「はあ?こっちはお前と違って野生児じゃねえんだよ」
「よっぽど大事にしてくれたんですねー、元奥さんは」
柳原にはプレミアムビールを渡しながら、自分はストロング系の酎ハイをカシュッと開ける。
「じゃあ、とりあえず」
今更遅いのは百も承知だが、少しは可愛く見えるように、酎ハイを両手で持って小首を傾げて見せる。
「はいはい、乾杯」
缶が安っぽい音を立てる。
しかしその音を聞きながら、最後にその音を聞いたのは、いつ振りだったろうと思い出す。
(やめやめ!ダメだ、思い出しちゃ)
思考をはぐらかそうと、目の前の上司を見る。
いつもはワックスで左右から後ろに流している髪の毛が、今日はフワフワと漂っている。
前髪も額に垂れていて、40過ぎだというのに幼く見える。
よく見ると、髪が少し茶色い。
瞳の色も―――。
「いつもは何を飲んでんの」
言いながらその瞳がこちらを見下ろす。
柳原の顔を見つめていただけで、先ほどまでのアルコールが一気に戻ってきたように、身体を燃やし始めていた。
「えっと。酎ハイくらいですけど。太るのかなって思って、最近は、アイスコーヒーハイとか飲んでます」
「アイスコーヒーハイ?」
無表情だった柳原の眉間に皺が寄る。
「アイスコーヒーに焼酎混ぜただけなんですけど。部長が勧めてくれて」
「……からかわれてるよ、絶対」
「え、嘘」
「美味いわけないだろ、そんな邪道な飲み物」
「えー、結構おいしかったですよ。氷入れてー」
言いながら立ち上がると、冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出す。
本音を言えば、少し冷気で顔を冷やしたかった。
続けて冷凍庫も開き、冷気を浴びながら氷を取り出す。
それをハイボール用の大きなグラスに入れて、焼酎を注ぎ、アイスコーヒーを入れる。
マドラーなどないので、菜箸でそれを混ぜると、一口飲む。
「ほら、うまいっすよ」
あ、またつい色気のない声が。
もういいやと思いつつ、柳原のそばにしゃがんで、それを渡す。
胡散臭そうな顔をしてこちらを見上げる柳原の、上目遣いで意外に可愛い顔を見ながら、彩加は抱きつきたくなる衝動を必死に抑えた。
(だめだめ、抑えろ。せめて、自分レベルまで課長が酔っ払うまでは)
それに口をつける唇が、男らしい色をしている。
元夫の妙に綺麗な赤色とは違うその唇に、ドキッとするも、切なくなる。
今頃、元夫と子供たちはどんな夜を過ごしているのだろうか。
「……美味くねーよ、やっぱり」
顔中に皺を寄せ、それを返してきた柳原からグラスを受け取ると、彩加はわざとそれをゆっくり回して、柳原が口をつけたところに、再び口をつけた。
「……私は、美味しいと思いますけど」
言いながら、潤む目で上目遣いに見つめると、不味さに崩れた柳原の顔が、すーっと真顔に戻った。
なみなみに入ったアイスコーヒーハイをこぼすまいとするように彩加の手を支えながら、柳原は顏に角度をつけ、その濡れた唇にキスをした。
「ん……」
激しく唇と舌を絡ませた後、彩加は唇から全身に回った熱を冷ますように、手の中にアイスコーヒーハイを一気に飲み干した。
そんな彩加を、仕事でミスをしたときに呆れながら叱責するときと、同じ顔で柳原が睨む。
全部飲み切り、口角から黒い液体を少しこぼしながら据わった目で彩加は上司を見つめた。
「何してるんですか?」
謎の絡みをしだした部下を、柳原が笑う。
「何って」
「セクハラで訴えますよ」
言いながら彩加の手は柳原の頬に触れていた。
(やばい。私、何してんの?)
まるで痴女のような振る舞いに、自分で自分に驚き、そしてドン引く。
しかしそれと共に、今まで飲んだストロング酎ハイと、今、一気飲みしたアイスコーヒーハイが、グルグルと胃袋から全身に周り、脳を溶かしていくのがわかる。
「鈴木」
柳原の声が少し遠くで響く。
(鈴木?ああ、そっか、鈴木か。旧姓に戻ったんだった)
もう離婚して一年以上経つのに、まだその苗字に戻ったことに慣れない。
それはきっと、入社当初にはもう結婚していて、夫の名字で呼ばれ慣れていたからなのだろう。
気を使って、離婚前の名字で呼んでくれる人も多く、この目の前の男も、鈴木と呼び出したのは、つい最近のことだ。
別に離婚は珍しいことではない。現にこの柳原だって、最近、娘の大学進学を機に離婚したばかりだし、総務主任で仕事をバリバリこなしている門脇だって子供はいないけどバツイチだ。
慣れなきゃ。“鈴木”に。
思いながら、重いグラスをテーブルに置こうとして、それがカーペットに転がった。
柳原はそれを拾い上げると、一区切りつけるように彩加の頭を撫でた。
「ほら。まだ開けたばかりだろ。夜は長いんだから。飲もうぜ」
言いながら、自分のビールを一気に飲み干した。
「……あんまり飲まないでもらえます?」
その気持ちのいい飲みっぷりを見ながら、彩加は真顔で柳原を見上げた。
「飲みすぎて勃たなくなると困るので」
柳原は片膝を立てると、
「お前、男と飲むのは、俺だけにしとけよ」
と笑った。