何時間飲んだのだろう。
彩加は乾ききったコンタクトを通して、テーブルに並んだ缶を見つめた。
「眠いのか?」
もう相当飲んでいるはずなのだが、顔色一つ変えない柳原が壁に寄り掛かりながらこちらを見ている。
いや、顔色こそ変わってはいないが、視線がいつもよりも優しい。
その顔をもっと見つめていたいがーーー。
「さーせん、目が限界」
言いながら彩加は立ち上がると、洗面所にかけていった。
指でコンタクトを抜き取り、洗浄液で表と裏を洗う。
コンタクトケースに保存液を入れて、それを浸す。
「は?カラコン?」
いつの間にか後ろで見ていた柳原が驚いて覗き込む。
「あ、はい、一応」
言いながらもう一つも同じように外して洗浄し、ケースに入れてから、それを柳原にみせた。
「茶色?普通の色じゃん。なんでカラコンなんてしてんの」
いつも表情があまり変わらない彼にしては驚いた顔をしている。
クソ。コンタクトして見たかったな。
0.1の視力を悔やみつつ、彩加は笑った。
「目の色素、異常に薄いんです」
言うと、柳原は彩加の顔を掴んで少し右へ左へ揺らして見せた。
「はあ。なんかちょっと緑っぽいのか?」
「そうなんです。うちの母なんか、もっとグレーっぽいっていうか。母の話ではひいばーちゃんなんて、外国人みたいな顔していたらしくて」
笑いながら話す。
「日露戦争で何か事件があったと私たちは見てるんですけど」
「事件って?」
「だから、ロシア兵と何か間違いがあったと」
「へえ」
柳原が水面台に手をついて、鏡越しに見つめてくる。
「間違いって?」
その首元に柳原の手が触れる。もう一つの手は横から彩加のくびれから臍にかけて巻き付いてくる。
背中に、腰に、そして臀部に、確かに感じる気配と人の温もりが、すっかり火照った彩加の体にさらに火をつける。
いつから自分はこの上司にこんな感情を持つようになったのだろう。
洗面所の鏡に映る自分たちの姿が、あの日の2人と重なる。
そうだ。
あの日だ。
彩加は目を瞑った。
雪が降り続いていたあの日、彩加にとって課長は、特別な存在になったのだ。
1年半前。
市立病院への医療用エアマットレスの搬入は、営業三課の仕事だった。
いつもであれば、週はじめに男性スタッフ数人で一気に終わらせてくるのだが、その日だけは欠員が出て、彩加と柳原で回ることになった。
2月の積雪量マックスの時だった。
ぎりぎり一台分だけ雪掃きがされている搬入口に車を滑り込ませると、かじかむ手をこすり合わせながら荷台から滑車を下ろし、それにエアマットとモーター部分を綺麗に積んでいく。
けして軽くはないそれらを運び終えると、彩加は腰に痛みを感じ、抑えながら左右に振った。
「どれ、行くか」
白い息を吐きながら柳原がポンと彩加の頭を撫でた。
「あ、はい!」
慌てて滑車の持ち手に回ると、それは簡単に雪に嵌り動かなくなった。
「トロいな」
柳原が変わり、それを足も使いながらぐいと押し出すと、滑車は搬入口のスロープを上り始めた。
「さすがプロ」
褒めると、
「お前もだろ」
と柳原が笑った。
(…よかった。普通に仕事できてるじゃん)
いつもの会話のやり取りと、いつもの上司の無表情な顔を見て、彩加は胸を撫で下ろした。
(意外と平気なもんだな)
二人は市立病院の廊下を抜け、搬入用エレベーターに乗った。
ボタンに手を伸ばす。
医療用エアマットの倉庫は7階だ。
彩加がその数字を小さな手で押すと、エレベーターはやけにゆっくりと上昇を始めた。
側面にある鏡に自分を映し、肩に少しだけ積もった雪をはらう。
「雪、やばいすね」
言うと柳原はため息交じりに笑った。
「今日はまだいい方だろ」
「ああ、先週の方がひどかったですもんね」
「先週、俺、国尾地域の施設周りでさ。あっち、こっちの非じゃないから」
「うわー。それは大変でございました」
ちらりと鏡の中の柳原を見る。
滑車に手をかけ凭れるようにしていた男の顔が鏡を通してこちらを見ていた。
(ーーーあ、そうか)
その妙に真剣な顔を見て、彩加は察した。
(そりゃあ、直属の上司なんだから、一番初めに話が行くよね)
チンと音がして、エレベーターが7階についた。
柳原が滑車を押し出し、彩加が落ちないように脇から支える。
倉庫や書庫が並ぶ、人影がほとんどない廊下を二人は進んでいった。
暖房の効いていない倉庫は、下手すれば息も白く染まるほど寒かった。
「これで全部か」
棚に設置し終わり、個別番号を記録し終わると、2人は暗い倉庫で頷きあった。
「はい、お疲れさん」
柳原の大きな手が、また彩加の頭を包む。
「帰るか」
そう言ったくせに、一向に歩き出そうとしない課長を見上げる。
(やっぱり、自分の口から報告しなきゃいけない、んだろうなあ)
彩加はその顔を見上げながら一息ついた。
「————課長」
「どうした」
「私、離婚が決まりまして」
「うん」
(ほら、この反応。やっぱり知ってる。)
「先週の2月15日付で」
「うん」
「鈴木に戻りました」
「そうか」
「ご連絡、遅くなってすみませんでした」
「ーーーいや、そんなのは、いーんだよ」
滑車につけているベルトをまとめながら言う。
「お前が元気なら、それでいい」
「—————」
「あと、子供とな」
「—————」
目頭が熱くなった彩加に、柳原は笑った。
「泣くなよ。30過ぎたら女は泣くな」
「———ひど…」
笑ったところで、薄暗い倉庫の中で抱きしめられた。
当時、課長はまだ、家庭内別居していた奥さんと離婚していなかった。
頭の中で警鐘が鳴り響くとともに、どうしても抗えない不安と喪失感で、彩加はその身体に縋るように抱きついた。
夫よりずっと大きな体。
男らしい匂い。
強い力。
それらに身体を包まれながら。
胸に開いた穴が埋まっていくような感覚を覚えたのだった。
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