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エバンは何日も病院に寝泊まりしながら、手術室で淡々と手術を終わらせる。あれから何度も手術をしていたため、いつもの調子で慣れてきた。気を抜かないようにと注意して患者の様子を見逃さずに……。冷静さを誰よりも保ち続けた。
今日は、やっと家に帰れる最後の手術。大量出血を引き起こしている患者の手術担当となり忙しく動いていたが、エバンだけは眉一つ動かさず淡々と指示を出している。
赤く色づいた手袋を交換して器具を受け取ると、出血箇所を止血して流し、修理でもするかのような手つきで手術を終わらせる。その速さと正確さは早いうちに噂となり広がった。
「凄いわね」
手術終わりに診察室まで歩いているところを、グラシアとばったり会ってしまった。こうなっては仕方ないと思い切って、立ち止まる。忽ちエバンは嫌そうな顔をした。毛嫌いしているわけではないが、会いたくない獣の一人であった。
「貴方に褒められる筋合いはありません。私は患者さんの病状通りに手術を終わらせているだけですのでね」
瞼を伏せて早く何処かに行けとでも言うような空気感を醸し出した。無口の圧、とはこのことかとグラシアは納得して一歩引く。
「ふふ、そんなに嫌かしら。でも、良ければ今日。食事会にでもどう? 差別されている被食者を助ける方法……教えてあげてもいいわよ」
試すように瞳を半分閉じる。エバンは暫く考えるような仕草を見せて、目を合わせた。瞳は鋭く薄暗い空間の中で光っている。
「実は、あれから調べてみたのです。馬鹿馬鹿しい資料は多かったが、事実は変わりませんでした。被食者は捕食者に逆らうことは出来ない……。所詮ただの餌ですからね。
でもこの関係はおかしいと思いませんか。その関係が争って生きることは仕方ない。逆に言えば捕食者は被食者がないと死に至る」
言いたいこと……分かりますよね、とエバンは目で訴えかける。両者通じ合うように目を合わせて、やっとグラシアは口を開いた。
「……つまり平等に助けるのが普通だと?」
顎に手を当てて眉間に小さなシワが寄る。当然の如く、エバンは頷いて壁により掛かった。
「……助ける方法、それさえもおかしいと言いたいのですよ。差別しているままだと自滅するだけでしょう」
溜息を深くついて呆れたというような表情を見せた。グラシアは納得したように目を輝かせたものの、やはり疑問が喉につかえる。皆が抑圧してきた思いであろう、確かに彼の言っていることは正しい……だが。
「簡単に文化を変えることは出来ない。貴方の言う通り所詮、餌食よ。どうするの」
いつの間にか腕組みをして答えてみなさいとばかりに首を長くする。それなら、とエバンは一本指を立てた。
「まずはトリアージを見直します」
「……トリアージ?」
首を傾げて問い返す。エバンは呆れたとでも言うように顎を引く。ここの連中は人間医療さえ知らないのかという驚きさえあった。説明して納得してもらえればいいが……。
不安もあったが覆い隠すように言葉を並べた。
「災害時など、診療の優先基準をつけるんです。
まず一つ、最優先治療群。赤。
二つ、待機的治療群。黄。
三つ、保留群。緑。
最後は死亡群で黒……この制度は人間の住んでいる地域で使われていました」
聞き終えると驚いたような表情をして、考え込む。獣人世界とも呼ばれるロザンデール以外でも強い捕食者を優先と決まっていたのだ。つまり、中でも弱い被食者は保留と言っても過言ではない。優先基準はより強い力だ。
「確かに、麻痺していたけどそれが普通よね。でも、それをどうやって変えるの?」
回答を待ちわびるかのように身を乗り出す。エバンは鼻で笑い身を翻すと、尻尾をぐねりと動かした。そして課題を告げる教師のように言葉を置く。
「それを考えるのが私らの仕事でございましょう」
「そう……食事会の返事は?」
「遠慮させていただきます」
あの夜からサーフィーは二週間と三日ほど泊めてもらった。怪我していた箇所が予想以上に多かったが、病院に行くことを拒絶したためこの結果になったわけだ。
生憎、エキドナの母は了承して家に迎え入れたが、良いとは思っていないようだ。聞こえないように愚痴る彼女の声は耳に入っていた。ああ、俺は邪魔だと耳を垂らしてションボリしていれば、エキドナに慰められベッドに運ばれた。
それから揺れるキャンドルの火を眺めながら眠りに落ち、今に至る。寝ている間に刺された腹は処置されて包帯を巻かれていた。
どうやらかなりの間寝ていたらしい。自分の名前だけ伝えて二週間も。相当重症だったのだろう。傷自体は殆ど治癒していた。
「それで、サーフィーだっけ? 何者?」
真横に置かれた椅子にエキドナが腰掛けている。尋問するような空気となり、サーフィーは困惑した。
「何者でもないよ……復讐に命を捧げていた本当に普通の竜」
ややゆっくりと体を起こして目線を合わせる。白い睫毛と整った顔は昨夜と比べて一変していた。まさに、美男。一瞬見惚れたエキドナだったが、冷静に訊く。
「なら今まで何があった? グリンのお坊ちゃまが夜の街を歩くと思えない」
あの王家の血も流れる有名外科医の家系。世の中でも大金持ちやら、地位の高い神のような存在やら。近づくことさえも恐れ多いとされていた。
思い返せば思い返すほどに奇妙な光景である。サーフィーが夜の街、しかもゴミ捨て場なんかに腰掛けていたのだから。
「凄く、恥ずかしいんだけど……兄と喧嘩しちゃって行く宛がないんだよね。こんな弟は要らないって思ったのかもしれない。
だってね、兄ちゃんが百年も居なくなったんだ。悲しくなって、誰かに暗殺されたと思った。戦争の激しい地域だったからこそ俺はそう信じた。だから反社会の業界に仲間入りして敵討ちしてやろうと思った。そしたら帰ってきたんだ。今までやっていたことがまるで無意味のように感じた。馬鹿な弟だよ」
ああ、虚しいな。
意図せず失笑がこぼれた。隣で微動だにせず姿勢を正しているエキドナは、一切笑わずにそれを聞いていた。その真剣そうな瞳にサーフィーは思わず黙り込む。
「そのにーちゃん、お前のこと悪いと思ってないと思う」
沈黙を破った言葉に度肝を抜かれる。
なんだって? あのとき、兄ちゃんは確かに失望していた。
サーフィーは疑問を胸に浮かべて問いただす。声は些か震えが混じりこんでいた。
「何でそう思うんだい?」
エキドナは目を逸らして大きく溜息をつく。アホかお前は、ということであろう。
「兄のために可愛い弟がしたことだ。失望する理由もないだろうし、そのまま帰っても『おかえり』とかで済むだろ」
確かにグリン家が怒ると恐ろしいという噂は遥々遠くの国まで行き渡っている。いつかは、そのことで紛争が起きたとも耳にしていたため、少しは不安だった。しかし、この話には続きがあり紛争なんて三日経てば終わった。熱しやすく冷めやすい……それにプライドも高いと聞く。
「そうかな……兄ちゃんに怒られないかな」
怒られると思えば顔を顰めずにはいられない。あの軽蔑するような冷たい目を思い出すと身の毛がよだつ。
「大丈夫だって、でも怖いなら家に近い道で倒れたふりをしたらいいんじゃないか?」
エキドナは悪戯っぽく笑い、包帯を取り出した。何をするのかと思えば、それを腕なんかに巻いて怪我したかのように細工した。そしてサーフィーを背負って外へ駆け出す。
もう一人で歩けるという叫びは届かなかった。
久しぶりの病院帰りでクタクタだったエバンは、夜空に浮かぶ星を眺めながら帰宅していた。色鮮やかに光る街の光は絶えず煌めいている。
疲労で手が麻痺する中でも、夜景を見ていればすぐに癒えた。
やがて下を眺めていたエバンの目に留まったものは驚愕を生み出す。
ぐったりと倒れている竜人……包帯の間から巻き毛が飛び出し、マントは半分脱げている。それに整った大型犬のような顔……。サーフィーだ。
気がつけば地面まで急降下していた。揺さぶるが反応はない。手首に三本指を当てて脈を測ると、正常だと分かり安堵した。
意識を取り戻したサーフィーは計画通りだと安心して体調が悪いふりをする。
「兄ちゃん……ごめん。体調悪くて」
咳払いしつつ上半身を起こす。それを見るに堪えないと思ったのか。エバンは黙って抱き寄せた。サーフィーは冷たい体と手に震えつつ体を預ける。
「今日は泊まれ」
すぐに手を離されると、冷たい目を向けられる。あの時と同じだと泣かんばかりだった。力を抜いたら涙がこぼれてしまう。上を向かなければ。鼻をクンクン鳴らしながら兄の後を追い飛ぶ。
ああ、これが嘘だとバレたんだとすぐに分かった。病人に適切な治療を施すのがエバンだ。サーフィーは絶望の渦に呑まれて体が重い。何を言われるかという恐怖と、あの目を思い出せば……。いっそ落下して心配してもらいたいとも思えば、俺は悪漢だと落ち込んだ。
自身に落胆したのか、承認欲求が満たされなくてこんなに悩んでいるのかと頭を働かせては、エバンの様子を伺った。
後ろからの弱い視線に気がついていたが、あえて無視することにした。サーフィーが思い詰めていることもわかっている。複雑な感情は胸からゆっくりと全身に広がった。胸が重い、言葉が詰まりすぎたようだ。こういうときに初めて、エバンは猶予した。
家の門で降りて、服の汚れを払う。ホコリなどが全て落ちると庭まで足を踏み入れた。数日ぶりなはずなのに、林檎の樹を見て愁眉を開く。
内側に開く扉を押すと、クルルが出迎えた。
「サーフィー、どうしたんだよ。そんな大怪我して……仲間のアサシンにでも切りつけられたか?」
揶揄うように声を立てて笑う。サーフィーは苦笑いして髪をかき上げた。
「ご名答。任務の最中に刺されたのは事実だよ」
腹の包帯をずらして縫合跡を見せる。赤く血が滲んでいた。エバンは成る程と声を上げる。
「だから腹を押さえていたのか。なら抱えるべきだった」
後悔するように目を伏せた。サーフィーは「いやいや」と両手を振る。
「平気だよ。エキドナちゃんに看病してくれたし、回復してるもん」
二人は顔を合わせて首を傾げた。
「エキドナ?」
三人は椅子に腰掛けて飯を口に運ぶ。チキン南蛮……少しずつハードルが上がっている。味も絶品と言えるほど美味しかった。頬が落ちるほどだ。
「んでそのエキドナって女が助けてくれたんだな? 姓はなんだ?」
興味半分でクルルが訊くと、無関心そうにエバンも耳を傾けた。やがて答えが降りかかる。
「ガルシー」
「……えっ、ガルシー?!」と、エバンは目を見開いた。知ってるんですかと二人して首を傾げる。
「師範の友人だ。かなり有名な外科医で手術を習った記憶がある」
興奮気味なエバンを見ていると、思わずクルルは噴飯してしまいそうになった。真顔で淡々としているエバンが目を輝かせているのだ。
「それで、彼女はどうだった? 俺は彼女の父さんしか知らないから聞いておきたい」
クルルもうんうんと頷いて耳を傾ける。それが……とサーフィーは俯いてしまった。ほんの少し思い当たる黒い影は長く伸びる。耳に色濃く残った罵声の声を聞き流すわけがなかった。
「彼女は凄く優しかったよ。ストロベリーのキャンディを貰ったり背負ってくれたりね。だけど、彼女の母はどうやら怪しいよ。エキドナちゃんに罵声を浴びせてた。……耳が良いからよく聞こえるんだ」
ハッと息を呑む。重苦しいような空間のなかで、サーフィーは二人の返事も待たずに立ち上がった。
「俺は準備したよ。その声を確かに録音した。これで助けることが出来る。実は前々から目は覚めていたし、その分証拠も集めたんだからね! 法律に則ってあの女を始末してやるんだ」
激昂の声に違う感情も感じた。こいつ、犯罪者のくせに法律を味方につけている。
「でも、その場で助ければ良かったのにな……」
クルルの言葉に深い溜息を漏らす。分かってないなと人差し指を右左させた。
「怪しまれるじゃん! いや、何方にしろ俺が行ったら怪しまれるか」
エバンは二人の間をすり抜けるように言い放った。
「通告したらどうだ。今なら間に合う」
二人して首を傾げる。通告ということは児童相談所のことだろう。
「どう説明すんの」
「道端で聞きましたって言えば信じてもらえるだろう。彼女が危険な目に遭うのは、俺からしても嫌だ」
きっぱりと言われて納得する。早くしなければ彼女が危険な目に合うかもしれない。しかし、通告したところで更に危険な目に合えば大事である。三人は存分に話し合い、埒が明かないとヴァンデルソンに電話する羽目になった。
『どうかした?』
仕事帰りであろうヴァンデルソンの声は意外に明るく、同時にネクタイを緩める音が聞こえた。先ほど話したことと同じことを話すと、ある時は驚いたり相槌を打ったりして答えを導き出した。
『連絡すべきだと思うよ。でも、ガルシー先生は今どこに居るんだ?』
「南サラスコビアの最南端」
『電話は?』
「繋がりませんよ」
海面上昇して大半が沈んでしまった国。当然、電話なんてものは無い。思い返してみれば住宅だけは多かった。スラム街の並ぶ集落は、ほぼ波に呑まれてしまっていた。生きてるだろうか……?
『今すぐ行け!』
そう言われハッとする。行きたいのは山々だが、不安も溢れた。
「仕事、休めるんですか?」
『上手く言っといてやるよ!』
自慢げな声は自信に満ち溢れている。胸を張っている白虎の姿が思い浮かぶと心強かった。
「ありがとうございます。今度、好きなものでも奢ります」
そう告げると電話を切った。そして医療器具の入った鞄を手に持ち、クルルと目を合わせる。
「行くぞ」
「分かりました。けど、サーフィーは?」
「ガルシー家の見張りにする。できるか?」
「うん」
サーフィーは真剣な表情で頷く。そして部屋から出ていく二人の影を見送った。