結局、一時帰宅できないまま、夏が終わろうとしていた。
といっても、ノアは不満も不安も抱えていない。
なぜなら、一時帰宅が中止になった翌日、院長ロキから過去一番に長い手紙が届いた。
【こっちは皆元気だ。いらん心配をする暇があったら、真面目に働け。ノアは気持ちを他所に飛ばすと、ろくでもない失敗ばかりするんだから、人の心配より自分の心配をしなさい。あと賃金をいただいている身で雇用主に迷惑を掛けたら容赦はしない。とっ捕まえて説教するよ】
と、いつもの近況報告の後に、筆圧強めの手厳しい内容が加えられていた。
猛毒キノコのカエンタケのような院長の説教を受けたくないノアは、秋になるまでは、これまで以上に仮初めの婚約者業を頑張ろうと心に誓った。
そんなこんなでノアがお仕事に精を出す毎日が過ぎたとある日のこと、早朝にもかかわらずグレイアスから呼び出しをくらった。
***
「ノア様、今日から授業内容を変更しますので、先にお伝えしようと思ってこちらに来てもらいました。朝早くに申し訳ございません」
きりっとした表情のグレイアスは、ノアが何度もあくびをかみ殺しているというのに、嫌味を全然言わなかった。
(……先生、どした??)
宮廷魔術師と、仮初めの婚約者の家庭教師と、アシェルの補佐業と三足の草鞋生活を送っている先生は、超が付くほどの多忙な人だ。
自分より遥かに疲れている人の前であくびをする自分もどうかと思うが、グレイアスには、きちんと睡眠を取ってほしいとノアは思った。ただでさえ低身長の小柄な身体なのだから。
そんな労わりの目を向けたノアだったけれど、次のグレイアスの発言が突拍子過ぎて、本気で眠くなった。
「さっそくですが、来月、ノア様には殿下と共に夜会に出席していただきます。それに伴ってこれまで魔法文字の授業に使っていた時間を全てダンスとマナーの授業に変更します。あと、夜会当日に着用するドレスですが──」
「はいっ、ちょっとタンマです!!」
つらつらと理解不能な言葉を紡いでいたグレイアスに、ノアは体当たりをして止めた。
不意を突かれたグレイアスは、ノアを抱きとめることはできたが、そのまま床にひっくり返った。
「……ノアさま、あなたはいつからイノシシになったんですか? 止めるにしても、もっとやりようがあるのでは?」
「確かに!そこは謝ります。ごめんなさい。でも、こうでもしないと先生が止まらないような気がしまして……つい勢いで、やっちゃいました。だから、下から鬼の形相で睨むのはやめてください」
「なら、今すぐにどいてください。ったく、こんな痴女のような真似をして……殿下が見たら、問答無用で浮気判定を下しますよ……ったく」
男を押し倒すというスタイルになってしまったのは不測の事態だし、グレイアスのひょろっちさにも問題があると思う。
だが、一番の問題はアシェルがこんなことで浮気と認識する可能性があるということだ。
ノアは仮初ではあるが、表向きはアシェルの婚約者。浮気を疑われるというのは、すなわち職務を全うしていないということ。
脳裏にお説教モードに突入したロキ院長の姿が蘇った途端、ノアは「ひゃぁぁ」という情けない悲鳴を上げながら、慌ててグレイアスから離れた。