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「……篠崎さん。あ、いえ、マネージャー」
由樹はなぜか言い直して隣の席に座る篠崎に向けて膝を合わせた。
「ん」
視線だけがこちらを向く。
「あ、あの、回覧です……」
「ん」
篠崎が大きな手を出してそれを受け取る。
カクカクとぎこちない動きをしながら前に向き直ると、ロボットみたいに手を出してノートパソコンを開く。
篠崎がため息をつきながら回覧に自分の判子を押すと、椅子を引いて立ち上がった。
ビクリと由樹は避けるように20cmほど離れる。
しかし篠崎は、その横を抜けると、工事課の方へ歩いて行ってしまった。
プシュウと空気が抜けるように小さくなる由樹を見て、向かい側の渡辺が話しかけた。
「ねえ、新谷君。ゴミ箱がいっぱいだよ」
慌てて振り返ると、シンク横にあるゴミ箱が確かに溢れかえっていた。
「わ、気づかなくてすみません!今捨ててきます!」
言うと、
「俺も手伝うよ」
渡辺が立ち上がった。
「?」
(大の男か2人でゴミ捨て?)
違和感を覚え渡辺を見上げると、彼は細い片目を瞑って見せた。
篠崎は工事課の猪尾と、工程表を見ながら何かを話している。
由樹は急いでゴミ袋の口を縛ると、渡辺と共に事務所を飛び出した。
「んでー?何かあった?篠崎さんと」
渡辺が重いゴミ袋を片手で持ちながら笑った。
「君たちがそんな感じだと、俺も気まずいんですけど……」
渡辺は管理棟の裏にゴミを下ろすと、無言の由樹を振り返った。
「……新谷君?」
覗き込む。
由樹は眉間に皺を寄せたまま渡辺を見上げた。
「それが……わからなくて」
「え?何か怒られるようなことをしたんじゃないの?」
「とくには」
「とくにはって。ものすごく機嫌悪そうなんだけど」
渡辺は事務所の気配を伺うように少し首を伸ばしてから、また新谷を覗き込んだ。
「え。マジでわかんない感じ?」
「はい。マジでわかりません」
由樹は眉毛をハの字に曲げてため息をついた。
「思い当たることと言えば、伊勢沢さんの担当を代わったことくらいなんですけど」
「あ、あの母娘の?だって、それは篠崎さんから提案してきたことなんでしょう?」
「はい。お祖母さんが亡くなって、一緒に葬儀に出席してた時に。“お前が担当やれ”って」
「……んじゃ、それで怒るのおかしくない?」
渡辺が首を捻るのに合わせて、由樹も同じ向きに捻る。
「でも、その頃からなんですよね。篠崎さんがおかしくなったの……」
「おかしいって?」
「なんか気づくとこっち見てるし、誰かと話してると睨んでくるし、携帯チェックすると覗き込んでくるし。そうかと思えば脚立運んでると持ってくれたり、展示場のダウンライト交換してたら替わってくれたり、調べものしてたら、参考資料をデスクに置いていてくれたり……」
言葉にすればするほど解せなかった。
本当にどうしてしまったのだろう。
話を聞いていた渡辺は細い目を少しずつ大きくしていき、最後には猫の目のように真ん丸になっていた。
「ねえ。それってさ……。あ、いや、ちょっと待って」
言いながら肉に包まれた丸っこい手を口に当てて肩で呼吸をしている。
「どうしたんですか?思い当たることがあるなら、教えてくださいよ」
「いや、あの、その、俺の勘違いかもしれないし、てか勘違いであってくれって言うか、そのあのさ」
「何ですか?!」
急に焦り出した先輩に由樹は詰め寄った。
「何か分かったなら教えてくださいよ!!マジで胃が痛いんですって!!」
両肩に手を置いて、渡辺の巨体を前後に振る。
「お願いします!このままじゃ、俺、時庭展示場にいられないすよ!!」
「……じゃあ、天賀谷展示場に来ればいいんじゃない?」
「そう!そうなっちゃいますよ!……え?」
言ってから由樹は振り返った。
「俺は大歓迎だけど?」
背後には光沢のあるネイビースーツをバリッと着こなした紫雨が立っていた。
渡辺が呆れたように目を細める。
「ちょっと、出てこないでもらえます?あんたが来ると余計に話がややこしくなるんで」
言うと彼はサラサラな髪の毛を風に靡かせながら近づいてきた。
「おいおい、ご挨拶だなぁ」
言いながら無遠慮に由樹の肩に肘を乗せてくる。
「ねえ、新谷君。俺の地盤調査、なんで同行してくれないの?もう変なことしないから手伝ってよ。うちの展示場、年寄りしかいないんだからさー」
「必要ならいつでも行きますよ」
丁重にその肘を下ろしながら苦笑いをする。
「えー、忙しいんでしょ?あれから何回も頼んでるのにぃ。このままじゃうちのかわいい林が倒れちゃうよぉ?」
言いながら口を尖らせている。
その顔に嘘を言っている気配はない。
初耳だ。
ということは……。
「もしかして、俺の依頼、君の上司が全部突っぱねてるのかな?」
紫雨が片目を細める。
(きっとそうだ。まあ、この間のことがあったから、だとは思うけど)
しかし自分にその話をしようともしない篠崎を思って、由樹は少しだけ胸が熱くなった。
(いやいや!勘違いするな!期待するな!セクハラ被害を受けた部下を守るのは、上司として当然のことだ。うん!)
由樹が真っ赤な顔で頷くのを紫雨は楽しそうに眺めた。
「ところでさ」
紫雨が渡辺に視線を移す。
「聞いた?時庭展示場、来店客数が少なすぎるから、今度から土日のたびに、ナベか新谷君が交代でこっちに来るんだって」
「え?」
渡辺は目を丸くした。
「篠崎さんはマネージャーだから、ここにいなきゃいけないし、一日に最低4件は新規来店あるから年間新規件数足りてるけど、2番手、3番手の君たちは足りてないでしょ?
だから客足が途絶えない天賀谷の方に、君たちのどっちかが来て、接客をするわけ。これ、支部長命令だから」
言いながら紫雨は笑った。
「てか、君たちの上司は知ってるはずだけどなぁ。聞いてない?」
「…………」
二人で顔を見合わせる。それこそ初耳だ。
「じゃあ、俺、お客さんと打ち合わせだから。展示場借りるねー」
言いながら紫雨は踵を返し、事務所の方へ歩いていった。
「…………」
紫雨の姿が事務所のドアに消えるのを待ってから、渡辺が口を開いた。
「……これかもね。篠崎さんが不機嫌な理由……」
由樹は渡辺の巨体を見上げながら頷いた。
「天賀谷展示場に自分の社員が派遣されるのが、嫌なんですかね」
「……まあ、それもあるだろうけど。かわいいかわいい新谷君をさ、あいつのいる天賀谷に行かせたくないだろうし」
由樹は顔を真っ赤にした。
「それには語弊がありますけどねっ」
「はは、事実でしょ」
渡辺は弱く笑ったが、真顔に戻ると、妙に色の綺麗な唇を手で擦った。
「いよいよかもね」
「いよいよって?」
渡辺は由樹から視線を逸らすと、時庭ハウジングプラザを振り返った。
由樹も促されるようにがらんと静まり返ったそこを見る。
「セゾンエスペース、時庭撤退……」
「え……」
「ずっと前から話には出てたから」
渡辺がただでさえ少し下がっている眉尻をさらに下げる。
(セゾンが時庭から消える?)
由樹は展示場を見上げた。
篠崎も、渡辺も、猪尾も、小松も、仲田も、みんなみんな大好きなのに。
「そうしたら、どうなっちゃうんですか?」
言うと渡辺は小さく息を吐いた。
「全員が全員、天賀谷に収まるわけじゃないし、マネージャー2人にリーダー1人なんて管理者も多すぎるから、バラバラにシャッフルされて市外の展示場を含めた人事異動があるかもって噂だよ。
あとは、梨山の方にもできたじゃん?テレビ局主催のハウジングプラザ。そこにセゾンも新規参入するかっていう話も出てるみたい」
(………みんながバラバラにーーー?)
腹の奥から冷たいものが上がってきた。
(そんな。せっかく仲良くなれたのに)
「まだ試験的なものかもしれないけど、あり得るかなー」
言いながら渡辺は管理棟の下屋を見上げた。
そこには大きなジョロウグモが立派な巣を作っていた。