『……真帆』
廃校舎の冷たい床の上。
全ての記憶を解凍され、直視させられた僕の心は、激しいノイズに塗れて悲鳴を上げていた。
目の前に立つ血まみれのコートの亡霊の動きが、ピタリと止まる。
『どうして、あんなこと言った』
バグの隙間から、ナイフがゆっくりとこちらへ向く。
『いなくなればいいって』
胸が潰れる。
「違う……!」
『僕は、君のために』
『守ってあげたいって』
『言っていたのに』
キラーが腕を振るう。
鋭い痛みが走り、僕の頬をナイフが裂いた。血が流れ落ちる。
『君は、僕をいらないって言った』
違う。違う。違う。
「僕は……私は……っ」
キラーが一歩、近づく。
『僕は、いなくなった』
『これで満足か』
血に濡れたナイフの刃が、僕の喉元に迫る。
『君が望んだ通りになった』
息ができない。
『だから今度は、君がいなくなればいい』
「ああ……ああぁっ……!」
僕は、私は、なんて滑稽で惨めな偽物なんだ。
生身の、不器用で優しかった先輩に最低の言葉を投げて死なせ、その罪悪感から逃げるために彼女の皮を被って。それでも完璧に演じ切ることすらできずに孤独死した、ただのクズだ。
「殺して……」
僕は、血まみれの亡霊を見上げて呟いた。
これが僕の生み出した罪の意識なら、早くそのナイフで僕の首を掻き切ってくれ。
もう楽になりたい。こんな空っぽの自分のまま、存在し続けるなんて耐えられない。
キラーが、バグに塗れたナイフを振り下ろそうとした。
僕は目を閉じた。
「……逃げろ、Faux」
血を吐くような、掠れた声がした。
目を開けると、僕の目の前で限界を迎え、荒い息を吐きながら倒れ伏しているゲストが、僕を見つめていた。
「お前だけでも、生き残れ……!」
「ゲスト……」
キラーが、動けなくなったゲストを冷たく一瞥し、僕を見下ろして囁いた。
『合理的な判断だ』
ナイフが、ゆっくりと僕の喉元に突きつけられる。
『逃げればいい』
『見捨てればいい』
『それが、合理的だ』
「Faux!!」
ゲストの叫び声。
その瞬間。
僕の中で、何かがひっくり返った。
(合理的……?)
頭の中で、冷たい数式が組み上がる。
ここで逃げれば、生存率が高まる。ゲストを見捨てれば、僕は苦しまなくて済む。キラーとの対峙を回避すれば、過去から逃げられる。
完璧な最適解だ。
でも。
胸が焼けるように痛い。吐き気がする。呼吸が乱れる。
(それは、本当に『合理的』か?)
記憶の中の先輩の声が、重なる。
『その数式の展開は、根本的な論理が破綻している』
合理性は、目先の結果だけで決まるものじゃない。
この先に発生する『後悔』のコストを含めて計算しなければ、その式は破綻だ。
もし、ここで逃げたら?
また目の前で、自分を庇ってくれた人が死ぬ。
また夜に、吐きながら震える。
また、血の匂いのするコートを着て泣く。
また、自分を殺して、空っぽのまま死んでいく。
それは。そんな未来は。
「……見捨てるほうが、非合理だ」
ピタリ、と。
僕の喉元に迫っていた亡霊のナイフが、止まった。
システムに感情を塗り潰され、ただの殺人鬼になり果てていたはずの彼女が、初めて、わずかに揺れた。
僕は、ガタガタと震える足に力を込め、立ち上がった。
「合理的な判断とは……」
涙と鼻水で、顔はぐしゃぐしゃだった。
それでも、僕は右手で、ずり落ちた伊達眼鏡を強く押し上げた。
「後悔を、最小化する選択だ」
震える左手で、デバイスの画面を叩き割るような勢いでタップする。
「僕は、また後悔するほうが怖い」
過去を乗り越えられなくたっていい。
偽物のままでいい。
この心が病んで腐り落ちるその瞬間まで、僕は、僕の役割を全うする。
『エラーを無視します。Vital Sync、リミッター解除』
僕の悲痛な意志に呼応し、デバイスが爆発的な緑色の光を放った。
最大出力の『Vital Sync』が、僕の生命力をごっそりと削り取り、代わりにゲストの全身を暖かな光で包み込む。
彼の傷が塞がり、失われていた命のデータが限界を超えて充填されていく。
『……! それは非合理だ!!』
キラーが、怒り狂ったように絶叫した。
「違う!!」
僕は、初めて、喉が裂けるほどの声で怒鳴り返した。
「これが、僕の最適解だ!!」
復活したゲストが、弾かれたように立ち上がり、キラーの振り下ろす必殺の一撃を正面から完璧なブロックで受け止めた。
凄まじい衝撃波が廃校舎を揺らす。重い斬撃が何度も、何度も叩き込まれる。しかし今の彼は、先ほどのようにジリ貧で削られる盾ではない。僕の最大出力の回復が、受けたダメージを瞬時に相殺していく。
僕とゲストは、反撃することもなく、ただその猛攻に耐え続けた。
逃げない。過去の亡霊から目を逸らさず、ただ、時間が過ぎるのを耐え忍ぶ。
永遠にも思えるような、絶望的で痛みに満ちた数秒間。
そして。
――カーン、カーン、カーン。
空高くから、試合終了の鐘が鳴り響いた。タイマーが『0:00』を迎えたのだ。
キラーの振り下ろしたナイフが、空を切る。
彼女は、試合終了というこの世界の絶対ルールに従い、闇に溶けるように消えかかっていた。
その、完全に消滅する直前。
キラーが、僕を見て、最後に一言だけ落とした。
『それでも、僕は君を守りたかった』
あの日の先輩の静かな声だった。
僕を許していない。でも、責めきってもいない。
その曖昧な優しさが、どんなナイフよりも鋭い刃となって、僕の胸を深く、深く抉った。
「……あ」
転送の光に包まれながら、僕は自嘲気味に笑った。
何も解決していない。僕は結局、過去から逃げたままだし、一生彼女を思い出すたびに血を吐くような痛みに苛まれるだろう。
それでも、僕たちは生き残ったのだ。
光が収まると、そこは暖炉の火がパチパチと爆ぜる、サバイバーハウスのリビングだった。
「おおー、お疲れ! キラーどこにいたんだあ?」
シェドレツキーがチキンを片手に笑いかけてくる。
「Fauxさん、大丈夫ですか? 紅茶、淹れましょうか」
エリオットが心配そうにキッチンから顔を出し、僕の前に温かいティーカップを差し出した。
「砂糖、いくつ入れますか?」
エリオットの問いかけに。
僕は、一瞬、呼吸が止まった。
三つ。そう答えようとして、あの溶け残った角砂糖の甘さがフラッシュバックして、喉が完全に詰まった。
「……二つで」
僕は、初めてその数を変えた。
エリオットは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに砂糖を二つ入れ、スプーンでかき混ぜてくれた。
「……いただきます」
震える両手でカップを持ち上げ、一口飲む。
三つから二つに減らしたはずなのに。
飲んだ瞬間、吐き気がするほど甘すぎて、目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「? ……ど、どうした? なんか変な物でも入ってたか?」
「うるさいです、シェドレツキー。僕の……僕の、涙腺のバルブが、少しエラーを起こしているだけで……っ」
いつもと何も変わらない、ポンコツな日常。
僕はこれからも、『僕』と言い続けるだろう。
この伊達眼鏡を外す勇気なんて、一生持てない。過去のトラウマは心に重くのしかかったままで。
これから毎夜、きっと先輩を思い出すだろう。
「……相変わらず、窮屈そうだな」
ソファの方から、チャンスがぽつりと呟いた。
僕は彼の方を見ず、ただ、少しだけ胸を張って答えた。
「……これが、僕の最適解ですから」
偽物のままで這い蹲る。
それが、僕という人間の導き出した、無様で哀れな答えだった。
自分の部屋のベッドの上。
僕は、形見の丸眼鏡をそっと外し、布で丁寧に磨いた。
真っ暗な部屋の中で、孤独死したあの日の光景がフラッシュバックして、また身体が震え出す。
文芸部は守れなかった。
大好きな先輩も守れなかった。
その後悔と痛みは、これから先、どれだけ時間が経っても決して消えることはないだろう。
私は、一生この罪を抱えて、狂った偽物のまま生きていく。
僕はまだ、先輩を忘れられない。
けれど――
それでも、今は。
この温かい場所で、大好きな仲間たちと一緒に。
この狂った舞台も、守りたい。






