入り口でチケットを出し、徐々に暗くなっていく通路を進む。
「—————」
「—————」
「———すご」
綾瀬が思わず呟くのも頷けた。
幅16メートル、高さ8メートルの巨大な水槽の中で、無数の生き物が息づいている。
屋根がなく、太陽の光が降り注ぐ水槽の中で、魚たちの色とりどりな身体が反射してキラキラ光っている。
「寒流と暖流が出会う潮目をイメージしているんだって」
案内ボードを見ながら言うと、綾瀬は水槽を見つめたまま頷いた。
「———綾瀬くん?」
反応がない。
軽く口を開けたまま、青く輝く世界に吸い込まれていくように、魚の動きを目で追っている。
(へえ。本当に、好きなんだな)
眞美は少しだけ微笑むと、自分も水槽に目を戻した。
マサバ、アカシュモクザメが、キラキラ光るイワシの群れを突っ切っていく。
アカエイがひらひらと赤いお腹を見せながら横切っていく。
スナメリが優雅に泳ぎ、アイナメが金色に輝いている。
(確かに。悪くないかも)
チケットをくれた母の顔が浮かぶ。
(ま、お土産くらい、買っていくか)
そう思いながら、水槽から身体の向きを変えず、横目で綾瀬を見る。
彼はまるで海の水面のように目を輝かせながら、その水槽をいつまでも見つめていた。
ーーーー
「そういうことは早く言ってくださいよ」
水族館を競歩の如く速足で歩きながら綾瀬が眞美を見下ろした。
「イルカショー、4時30分が最後の回だなんて!」
「今気づいたんだもん、しょうがないでしょ。あんたが水槽に張り付いて動かなかったくせに」
眞美のほうは小走りだ。
久々に履いたミュールが痛い。でも時間がない。
『クラゲのプラネタリウム』のゾーンを抜けると、一気に視界が開けた。
太陽の眩しさに目がくらむ。
2000人収容できる大型スタンドには人が溢れかえっており、満席の上、立ち見まで並んでいる。
「あ、栗山さん!前が空いてますよ!」
綾瀬が眞美の手首をつかむ。
(———え)
反応する前に彼は座席脇の階段を駆け下り始めた。
仕方なくついていくと、前席の中央がちょうど2席だけ空いている。
「ラッキー!」
滑り込むように座った綾瀬の横に腰かける。よかった。結構座面が大きい。
(あ、でも……)
「日頃の行いかなー。俺の」
屈託なく笑う綾瀬の顔が近い。座面と座面の間が狭いのだ。
慌てて手を離すが、綾瀬の細い太腿が、眞美のジーンズに包まれた太腿に触れる。
「イルカショーって見るの何年ぶりかな。俺、いつも水槽だけ見て終わるから」
綾瀬は全く気にしていないようすで、巨大なプールを眺めた。
「え、興味ないの?」
「興味ないって程じゃないですけど」
(なんだ。じゃあ、ここまで急いできてくれたのは、私のためだったのか)
そう思うと、触れている太腿が、やけに温かく感じた。
『それでは登場していただきましょう!!イルカのサクラちゃん!ハッサク君でーす!!拍手~!!』
インストラクターのお姉さんが叫ぶと、2匹のイルカが奥のプールからステージプールに入ってきた。
目にも止まらぬスピードでガラス張りのプールを行ったり来たりする。
「すごーい!!」
大音響の音楽と、大歓声の中、自分の声があまり聞こえないのをいいことに、眞美ははしゃいで叫んだ。
綾瀬も笑いながら何か言っているが聞こえない。
聞こえなくても、楽しい!
(イルカショーってこんなに楽しかった?)
眞美は、身体を光らせながら、猛スピードで泳ぎ、首が痛くなるほど高くジャンプをするイルカに見惚れた。
「それでは本日の目玉!!サクラちゃんとハッサク君による、大ジャンプ、ご覧いただきましょう!
前列の皆さん!!準備はいいですね!!」
(ん?準備?)
慌てて左右の客を見る。
皆、一様に雨合羽や薄いジャンバーを着ている。
(げ、嘘!)
パンッ。
何かの破裂音に驚いて後ろを振り返る。
小柄な老婆が折り畳み傘を広げていた。
(————マジで?)
恐る恐る水槽を振り向く。
2匹のイルカは深く潜り、こちらに向かって飛び出すところだった。
「ははは、えらい目に合いましたね」
水族館を出ながら、綾瀬は笑った。
「えらい目どころじゃないわよ。前列だったらああなって当たり前でしょ」
濡れて引っ付くチュニックが気持ち悪い。
眞美は綾瀬を睨みながらその後ろに続いた。
「夏だったら一瞬で乾くんでしょうけどねえ。いやあ、油断しました」
言いながら彼は、自分の車のトランクを開け、バックからグレーと白のパッチワーク柄のトレーナーを取り出し、素早く脱ぎ捨てたシャツの代わりに被った。
(なんで着替えなんか持ってきてるのよ)
恨めしそうに眞美が見つめると、彼はだぼだぼのトレーナーを整えながらこちらを見た。
「あ、栗山さん、もしかして着替え持ってきてない?」
「持ってくるわけないでしょ」
そっけなく言うと、綾瀬は少し微笑んだ。
「ーー何よ」
どこか呆れた様子の顔を睨む。
「ホント、意識が足りないんだから」
「はぁ?!」
「栗山さん。ここに来るまで何時間かかりました?」
「ーー5時間くらい?」
「そうです。それで、俺、夕食を食べるレストランも予約してあるって言いましたよね」
「———う、うん」
言わんとしていることがわからず、眞美は眉間に皺を寄せた。
「夕飯終わるのがどんなに早くても9時だとして。そこから5時間かけて帰ると思ってたんですか?」
「え?どういうこと?」
「ホント、鈍いな。大丈夫ですか?」
「ーーーーー」
「俺が予約したのは、レストランだけじゃないって言ってるんですよ」
目が笑っていない綾瀬の向こう側に、母親の顔がちらつく。
もしかして、あの人、初めから、こういうつもりで遠方の水族館のチケットを―――?
秋の風が、濡れたチュニックを急激に冷やしていった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!