コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
リオンが帰って来た初めての金曜日の朝、最近はありがたいことに事件が起きても軽微なものばかりの為にヒンケルの部下達も時間に余裕があり、ここ最近定時に帰れるありがたさを噛み締めていた。
そんな部下の様子を部屋の中から嬉しそうに見守っていたヒンケルだったが、朝一番に署長に呼び出されてしまう。
朝一番の呼び出しなどリオンが警察を辞めて以来ほとんどなかった為に何事が起きたと部下達も気を引き締めたような顔で見つめてくるが、とにかく行ってくると手をあげて部屋を出る。
署長室には部長も同席しており何事だと朝の挨拶を交わしながら二人の様子を探るとそこに座れと椅子を示され、何事だと声に出して問いかけつつ椅子に座るが早いか、先日お前が持ってきた大昔の事件についてだと切り出されて背筋が伸びてしまう。
「……死体という物証がない以上、立件する事はできない」
しかも捜索願が出ているのならば別だが相談があった後にコニーらがどれだけ調べても骨すら出てこないのならお手上げだと部長が実際に手をあげ、署長も肩を竦めてどうする事も出来ない事を示した為、ヒンケルも何種類かの感情が混じった溜息を零す。
「コニーとガビーを労ってやってくれ」
立件するどころか事件化すらできない事に従事させてしまったのだからと部長の言葉にヒンケルも当然の顔で頷き、ヘル・クルーガーに説明をする事を伝えて部屋を出る。
リオンが生まれる少し前のヨハンによるハイデマリーへの暴行事件。その容疑者がヴィルヘルムによって殺害された事件は何よりも時間が経過しすぎている事、証拠が何一つ残っていない事から大方の予想通りの展開になってしまったが、部長が言ったようにそんな何の実りもない調査に二人の優秀な部下を付き合わせてしまった事への労いはしようと決め、自室に戻る為に刑事部屋のドアを開けて己に集中する視線に微苦笑する。
「コニー、ガビー、部屋に来てくれ」
その言葉に皆が何かを察したのかヒンケルの部屋に入る二人を見送った後、自分たちが今抱えている仕事に取り組む為デスクに向かったり資料を取りに別室に出向いたりするのだった。
ヒンケルの部屋に入った二人は丸椅子に座ると同時にヒンケルから想像していた言葉を聞かされ、一度顔を見合わせるが二人とも納得の顔で頷く。
「ヘル・クルーガーに事情を説明しなければならない。連絡先を聞いているな?」
「Ja.この街に部屋を借りていると聞きました」
コニーがガビーに何事かを囁きかけ優秀な部下がスマホを取り出すと、登録してあるヴィルヘルムの連絡先へと電話を掛ける。
その横でヒンケルがやはり物的証拠が何もない事件で年数が経ち過ぎている事、捜索願なども出ていない事から言い方は悪いが聞かなかった事にしたいらしいとヒンケルが署長室があるあたりを見上げながら呟くと、気持ちは理解できますとコニーが苦笑する。
「ガビーと調べている間、本当にヨハンという人について何も出てこなかったんですよね」
亡命した先の施設で三人は出会ったそうだが余程人の印象に残らない人だったのだろうと、時間経過以外にも調査が難しい原因をヨハンの中に見出したのか、コニーが溜息交じりに呟くとヒンケルも確かになぁと腕を組む。
「ただ、ホームでゲオルグに話を聞いたんですが、死体の処理について余程熟知している人がいたんだろうなという印象です」
教会のボランティアや困窮している人への仕事の斡旋をしているだけの男に骨の一欠片も残さずに死体を処理する技術や知識があるとは思えないかとヒンケルが続けると、コニーが頷きつつ死体の処理を目撃しても黙っていられる協力者がいることと続ける。
「確かにそうだな」
「Ja.ニュルンベルクにいたと言っていたのでもしかするとそこの裏社会と関係があるのかも知れませんね」
ゲオルグという当事者以外に唯一事件を知っている男の聴取を幾度か行なったが、死んだヨハンをニュルンベルクの知人の元に運んだがその先については何もわからない、今更嘘をついたり隠したりしないと己の人生の先が見えた者特有の澄んだ目で答えられたことをコニーが思い出し、その先の追求は不可能でしたねと苦笑する。
ゲオルグから教えられた名前の会社はニュルンベルクには存在せず、ニュルンベルク警察にも協力してもらってゲオルグがコニーに伝えた友人知人を調べたが皆十年以上も前に死去していて家族も係累もいない為に彼らの痕跡を追いかけることが出来なかったのだ。
時間経過と物的証拠のなさという壁に阻まれた調査は普段彼らが手掛けている事件においては歯痒さや無気力さを与えてくるが、今回に関しては心の何処かでそうであって欲しいと願っていた為、密かに胸をなで下ろす事でもあった。
ヴィルヘルム・クルーガーは自身が過去に犯した傷害致死事件についての罪を償い罰を受ければそれでいいかも知れないが、今回の事件が明るみに出た際、有名な賞を受賞する実力を持つフォトグラファーと妻が女優ということから間違いなくマスコミが食いつき根掘り葉掘り過去を調べるだろう。
そうすれば必ずあの教会へと行き着き、その結果漸く世間が忘れつつある刑事やシスターが主犯だった人身売買事件も亡霊の如く甦るかもしれなかった。
それだけならばまだしも当時は一介の医者が誘拐されたが何とか事件は解決したとだけマスコミに流した、ウーヴェの誘拐事件も引き摺り出される可能性があった。
己の部下だったジルベルトが絡んだ一連の事件、それがもし全て明るみになったとすればウーヴェの父や兄達が許すはずもなく、記事を書いた人間やその上司だけではなく警察の上層部にも合法非合法に拘らずに強硬手段に出ることが目に見えていた。
署長や部長は今回の事件を下手に突けば国内外でも有名な大企業であるバルツァーが首を突っ込んでくることを計算済みで、自身の保身などあまり考えないヒンケルでさえも過去からの亡霊たちが好き勝手に暴れまわり、今を必死に生きる人間をただ苦しめるだけだと気付き、コニーに何もかもを含有した溜息を一つ零すだけだった。
上司の溜息と珍しくもない表情から全てを読み取ったコニーだったが、ヒンケル同様に事件化されないことを望んでいた為、ヘル・クルーガーへの説明だけはしないといけませんねと苦笑し、ガビーがこの後すぐに来るそうだと通話を終えたスマホをポケットに戻しながら報告した為、それで終わりですねと頷いて伸びをする。
「……そう言えば、昨日マックスが教会でリオンを見た気がすると言っていたんですが、あいつ帰ってきたんですかね」
「そうなのか?」
「はっきりと見ていない、だからもしかするとノアの可能性もあると言ってました」
何しろあの二人はドクが見間違えるほど似ているからとノアがこの街にやってきた時に初めて見たウーヴェが見間違えたことを苦笑交じりに告げると、ヒンケルもあの顔は間違えても仕方がないと苦笑する。
事件に聴取の際、家族だからとノアにも何度か事情を聞いたのだが、誰もがその背中を見てリオンと呼びかけてしまったのだ。
それほど似ているかとノア自身何度目になるそれにもはや呆れる事もなかったが、申し訳ないが本当に似ていると誰もが返すもののしばらくノアと話した後、性格はまったく似ていない、素直なリオンなど気持ちが悪いと言われる始末だった。
「確かに、素直なリオンなど気持ち悪いですよね」
「そうだな、あれを気持ち悪いと思わないのはドクぐらいだろう」
ここにはいない二人を貶すようなことを笑顔で言い合う上司達を黙って見守っていたガビーだったが、ヘル・クルーガーには警部が対応してくれるのかと真面目に問いかけ、我に返った二人がほぼ同時にお前に任せると言い放つが、それは流石に彼に対して誠実じゃないと部下に諭されてヒンケルが低く唸るが、俺はマックスの手伝いに回りますとコニーが素早く逃げた為、仕方がない、彼が来たら部屋に通してくれと告げて二人に戻っていいぞと伝えるのだった。
いつかのように二人揃って警察署から出て行く姿を部屋から見下ろしていたヒンケルは肩の荷が一つ降りたと溜息を吐き、あの時と同じように部屋に入って来たコニーを肩越しに振り返りながら微苦笑する。
「納得はいっていない、そんな顔だったな」
「……これで自分の肩の荷を下ろせる、そう思っていたかも知れません」
罪を償って罰を受けることで己の過去に一つのケリをつけられると思ったのかもしれないがそう甘くはないというところですかねと、コニーにしては珍しく皮肉な物言いにヒンケルが驚いて身体ごと振り返ると、一つ肩を竦めた部下があいつのことを思うと皮肉の一つや二つと呟くが、ヒンケルのデスクの電話が着信を伝えた為コニーが目でどうぞと促す。
「ヒンケルだ……ん? ドクから電話?」
ああ、繋いでくれと告げて部屋を出て行こうとするコニーを呼び止めたヒンケルは、受話器の向こうから聞こえて来る穏やかな声に何度か頷き、先日協力した事件の書類を返却したいから午後からそちらに出向いていいかと問われて首を傾げる。
「ん? 資料なら取りにいかせるぞ?」
『少しお話ししたいこともあるのでそちらに出向きます』
「そうか、そういうことなら来てくれ」
ランチ終わりなら時間は大丈夫だとも告げて受話器を戻したヒンケルは、どうしたんですかとさっきの皮肉気な色を一切感じさせない顔でコニーがデスクに手をついた為、ドクが資料を返しに来るついでに何か話があるらしいとウーヴェとの会話を繰り返すと不思議そうに首を傾げる。
「それぐらいなら後で取りに行くのに」
「ああ、俺もそう言ったんだけどな」
ドクの話とやらがどうか良いことであります様にと願いつつ、では仕事に戻るとコニーが部屋を出て行きヒンケルもデスクについて溜息を零す。
先ほど帰って行ったクルーガー夫妻には申し訳ないが、彼らが犯した罪への贖罪はどこかの教会で行えば良いことであり、蘇ろうとしている亡霊に付き合える程警察も暇ではなかった。
司法的に罰を受けられないのならあとは道徳的に受けてもらうしかないが、それは彼ら自身が考えることであり、生きている人間が犯した事件を相手にする自分達の範疇を超えていると苦笑し、引き出しを開けて閉じる行為でそれらを過去の事件が入っている心の引き出しにしまいこむのだった。
その日は本当に事件の一報がない一日でランチも平和に終えた刑事たちがデスクに戻って書類作業に取り組んでいた時、ドアが開いて宅配便でーすというやけに間延びした大声が突如響き、ある者はラップトップに入力していた文字を打ち間違え、ある者は腹が満ちたことで覚えた眠気を吹き飛ばしてしまう。
「!?」
その大声は言葉の種類は違っても聞き覚えのあるもので、だが今ここで聞こえるはずがないと皆が思いつつも声の主を確かめる為ドアへと目を向けると、そこには見覚えのある髪をかなり短くし、両耳のピアスの数は増えているが以前と全く変わらない笑みを浮かべたリオンが立っていて、その後ろに頭痛を堪える顔でウーヴェが深い溜息をついていた。
「みんな、元気かー?」
「リオン! お前、どこに行っていたんだ!」
帰って来たのか、そもそも何故家出をしたんだと帰って来たことを褒めるより何故出て行ったと責める声を大きくされて蒼い目を憤慨に染めたリオンはみんながイジメると振り返るが、少しだけ低い位置にあるターコイズの双眸に当たり前だバカタレとさらにいじめられてしまいがっくりと肩を落としてしまう。
「来たのならさっさと部屋に来いといつも行っているだろうが、ばか者!」
入口付近の騒動にヒンケルが気付いたのか部屋のドアを開け放ちつついつもの癖で大声を出すと、リオンも条件反射の様に頭を抱えてその場にしゃがみ込み飛んで来るはずのブロックメモを避けようとするが、流石にウーヴェが後ろにいる今ヒンケルもメモを投げつける様な暴挙はせず、ごほんと咳払いをした後、帰って来たのかと少しだけ声を柔らかくする。
「Ja.帰って来ました」
メモが飛んでこないことを察し少しだけ照れた様に笑ったリオンは、ウーヴェのステッキが軽く音を立てたことに気付いて慌ててヒンケルが開けてくれているドアへとウーヴェを先に案内し、自らも呆気にとられた顔で見つめて来る元同僚達に片目を閉じるとドアを閉めつつ中へと入る。
「いてもいなくても騒々しいってドクがいつも言ってたけど、あれは本当ね……」
金色の嵐とも称していたとダニエラがポツリと呟きコニーがやれやれと肩を竦めるが、午前中にもしリオンが来ていればクルーガー夫妻と鉢合わせになっていたと気付き、神か悪魔かの仕業に安堵の溜息を零すのだった。
そんな部屋の外の騒ぎもヒンケルの部屋にまでは届かずにウーヴェを先に座らせて自らはこの部屋では当たり前の丸椅子に腰を下ろしたリオンは、デスクを挟んでヒンケルと対峙する事の懐かしさに眼を細めてしまう。
「懐かしいなぁ」
「そうだな……で、ドク、話というのは?」
「ああ、この資料の返却と……このように無事にリオンが帰って来ました」
今、世話になった所に二人でお詫びに回っていてここが最後ですと苦笑しリオンが持っている茶封筒を差し出したウーヴェは、会長にはこっ酷く叱られたのかとヒンケルが笑い、思いっきり頬を引っ張られた事、親父以上に兄貴にやられたと先週父の家に向かった時の出来事を思い出して情けない顔になったリオンにウーヴェも苦笑するが、社長に怒られたのかとヒンケルが笑った為、笑うなクランプスとつい今までの癖で言い返して睨まれてしまう。
「ゲートルートのスタッフにもリアにも叱られた……」
「当たり前だな、全く」
ただそれはともかくとして帰って来て本当に良かった、もう出て行くなんてことをするなと、ここでリオンが働いている時どんな言動を取ろうとも実は誰よりもリオンの将来について案じてくれていたヒンケルの言葉に素直に頷き、心配をかけました、もう大丈夫ですと頭を下げるその横でウーヴェも安心に眼を細める。
「ドクの話に関係するんだがな……」
「どうしました?」
「いや、今日の午前中にクルーガー夫妻がここに来ていた」
ヒンケルが言いにくそうに口籠るのをウーヴェが促すが聞かされた言葉に二人が顔を見合わせて同時にヒンケルを見つめると、詳しいことは言えないが事件になるかどうかの話だったとだけ返し、リオンが何でもない顔でハイデマリーが暴行された事件についてかと問いかけた為、今度はヒンケルの顔が驚きに彩られる。
「知っていたのか?」
「Ja.……実際その話を聞いたショックで家出をしたってのもありますからね」
家出の真相の一つだと答えるリオンだったが無意識に伸ばした手はウーヴェの手に重ねられ、それを見たヒンケルの顔から驚愕が消えて安堵が滲み出す。
この二人の仲を比較的初期の頃から知っているヒンケルはどちらかの身にどうしようもない程の悲哀や悲痛な事件が起きた時、こうして手を繋いでそれを乗り越えて来たことも聞かされていたし幾度もそれを目の当たりにしていた。
だから今回も乗り越えられたのだろうと気付き、二人がそうしていられるのなら大丈夫だなと問いかけるとリオンが無意識に手を重ねていたことに気付き、そっと握りしめて口角を綺麗な角度に持ち上げる。
「俺は……オーヴェがいる限り大丈夫です」
今回本当にどれだけ支えられて来たのかに気付いたがそれ以上に俺も支えているんだと気付いたと笑うと、隣から伸びて来た手が短くなった髪を一つ撫でていく。
「……夫妻には気の毒だが、その事件は結局不問になった」
「立件もしない?」
「実際問題、物証が皆無では何もできない」
これがリアルタイムで起きた事件ならば皆血相を変えて反対するだろうが何しろ時間が経ち過ぎていること、死体の処理が完璧で骨の一欠片も出てこないんじゃお手上げだと微苦笑したヒンケルだったが、藪をつついて蛇が出て来るだけならまだ対処できるが熊が出て来てしまえばどうあっても太刀打ちできないと肩を竦めながらの言葉が意味することを察した二人は顔を見合わせるが無言で揃って頭を下げる。
「やめてくれ、ドク。ドクに頭を下げさせたなんてなれば、会長や社長に何を言われるかわかったもんじゃない」
先日のリアと同様、少し顔を赤らめたヒンケルが慌てるように頭を上げろと告げるとウーヴェがニヤリと笑いつつバルツァーの会社と私は何の関係もない、父や兄と一緒にしないでくれと懐かしさすら感じる言葉を告げ、ヒンケルが呆気に取られて言葉を失うが同じくニヤリと笑った後表情を再度変える。
「……ただ、どうも夫妻はお前に会いたいようだったぞ、リオン」
「俺に?」
「ああ。お前がここで働いていたことを知ってお前に会いたいと何度か言っていたな」
その言葉からヒンケルが全ての事情とまではいかなくともある程度知っていると察したリオンはウーヴェの手をしっかりと握りしめて手の甲にキスをした後、ヒンケルに向けて頭を下げる。
「ありがとうございます、警部。……俺はあの二人を親とは思えないし思わない。俺の親はマザーだ。俺の家族はオーヴェやオーヴェの家族とホームにいるあいつらだと思っている」
ヒンケルを真っ直ぐに見つめて告げるリオンの口調には何の衒いも気負いもなく心の底からそう思っているのだと教えるようなもので、それに気付いたウーヴェが逆にリオンの手を握りしめて指をしっかりと組み合わせる。
「……そうか」
「Ja.この件で警部にまで迷惑かけちゃいましたけど、もう決めたことだから」
「お前がそう思っているのなら俺は何も言わない」
それにさっきも言ったが夫妻の件について警察はノータッチになるのだ、言い方は悪いがあとは夫妻がどうするかの問題だと安堵に胸を撫で下ろしたヒンケルにウーヴェも一つ頷き、長い間悩んでいたことにリオンなりに答えが出せたようです、半年間家出をしたことも無駄ではなかったようですと笑うとヒンケルが苦笑しつつ頷く。
「無駄なことなど何一つないということか」
「そうですね」
本当にそうだと笑ってリオンの髪をもう一度撫でたウーヴェは今日はこの後ホームでマザーと少し話をしてくると告げ、仕事の手を止めさせて申し訳なかったと詫びると、ヒンケルが手を振って今日は本当に平和だから気にしないでくれと告げて立ち上がった二人に合わせて立ち上がる。
「警察が平和。最高じゃねぇか」
「そうだな」
平和が一番だと頷くヒンケルにウーヴェが手を差し出して握手をするとリオンも照れたようにヒンケルと握手をする。
「じゃあまた。皆によろしく、警部」
「ああ。年が明けたら飲みに行こう」
もちろんお前の奢りでと笑うヒンケルに、クランプス、早くカゴに入って地獄に行って来いと言い放ち、ヒンケルが何だとといつものようにブロックメモを手に取るとリオンが最強の盾を手に入れたと言わんばかりにウーヴェの背後に回り込んで体を屈めてニヤリと笑う。
「お前! それは卑怯だぞ!」
「へへーん。オーヴェに当てれば親父と兄貴がすっ飛んでくるぜ。やれるものならやってみろ」
己の体を前後に挟んでのまるで基礎学校の学生のようなやり取りに溜息一つ零したウーヴェだったが、埒が明かないと気付いたのか床をステッキで強めに叩くと、その音にリオンの体がびくりと竦む。
「いい加減にしろ、リオン・フーベルト」
「……ぅ」
「ははははは」
ウーヴェに叱られて目に見えてしょんぼりとなるリオンを笑い飛ばしたヒンケルはウルセェと涙目で睨んでくる元部下をもう一度笑い飛ばした後、気を付けてホームに行ってくれと手をあげ、中指を立てるリオンとそんなリオンのピアスだらけの耳朶を思いっきり引っ張るウーヴェを何ともいえない顔で見送るのだった。
午前中はリオンの両親をこうして見送ったが、今はその息子たちを見送っている不思議さにヒンケルが一つ満足そうな溜息を零すと、薬箱の中身を渡してやれば良かったと笑い一つ取り出して甘い薬を服用するのだった。
ウーヴェに引っ張られた耳が痛いとぶちぶち文句を垂れるリオンに、どうせならばもう一方の耳を引っ張って両方痛みを覚えさせようかと冷たく言い放ったウーヴェは、うう、オーヴェのイジワルトイフェル、悪魔といつものお決まりの罵倒を受けて一つ溜息を零すと信号で停まったのを利用し、文句ばかりを垂れ流す口を封じるために顎を掴んで強引にキスをする。
「いやん。ダーリンったら強引なんだからぁ」
「……」
もうこれ以上何も言えないと頭を左右に振って信号が変わったためにアクセルを踏んだウーヴェは、その後ホームに到着するまで口を開かず、助手席でリオンが耳が痛いと言いつつもご機嫌の証である鼻歌を歌っているのを好きにさせるのだった。
到着したホームはクリスマス前の忙しさに満ちていたが二人が来た事に気付き、子供達やシスターらが笑顔で出迎えてくれる。
「いらっしゃい、リオン」
「リオン、ウーヴェ、こんにちはー」
「よー、みんな元気か? 風邪ひいてねぇか?」
駆け寄ってくる子供をひょいと抱き上げて頬にキスをし皆風邪をひいてないかと問いかけつつ廊下を進みキッチンのドアを開けると、その音に気付いたのか室内にいた大人達が振り返り、入って来た二人に気付いて笑みを浮かべる。
「いらっしゃい、リオン、ウーヴェ。寒かったでしょう?」
今ココアを作っている所です、飲みますかと問いかけながらマグカップにミルクパンを傾けたマザー・カタリーナと二人が来たことに驚きと嬉しさを隠さない顔のノアがいて、一纏めに久しぶりと手を上げて挨拶する。
「オーヴェ、そこ座ってろ」
「ハロ、ウーヴェ」
「ああ、こんにちは、ノア」
今日は仕事は休みかそれとも取材旅行から帰って来たばかりかと問いかけつつ椅子を引くと、ノアがお気に入りの写真が撮れたからマザーらに見せに来たと笑い、仕事用のデジカメを取り出してモニターに写真を映し出す。
それを覗き込むウーヴェをちらりと見たリオンは、ココアを飲みますかと問われて首を小さく左右に振った後に咳払いを一つしてシンクに腰で寄りかかりマザー・カタリーナの首を傾げさせる。
「どうしました?」
「なー、母さん、次の日曜にオーヴェと一緒にシュトレンを食いに来ても良いか?」
シンクにもたれて親指の爪をカリカリと引っ掻きながら小さな声で問いかけたリオンは、マザー・カタリーナが危うく鍋を落としそうになったことに気付いて慌てて手を出し、間一髪で鍋を受け止める。
「あぶねぇ」
「……シュトレン、ですか?」
何故今更そんな事を聞くのかと問いかけようとしたマザー・カタリーナだったが、リオンが慌てたようにポケットからハンカチを取り出した為、驚きに目を見張ってハンカチとリオンの顔を見比べてしまう。
「ほら……使えよ」
どうしてもぶっきらぼうになる口調にリオンが苛立たしげに舌打ちをするが早く使えとハンカチを母の手に押し付け、己はミルクパンをコンロに戻した後ウーヴェの背後に回り込んでぎゅっと抱きしめる。
「……もちろん、食べに来て下さい、リオン。ウーヴェも一緒ですよ」
「ありがとう、マザー」
いつもはいただいたものを家で食べるのだが今年はここで一緒に食べたいと笑いつつ首の下で交差する腕を撫でたウーヴェは、もちろんノアも一緒にと隣に視線を向ける。
「……良いのか?」
「何を遠慮してんだよ、ノア」
すっかりここの一員になっているのにと顔を上げて笑うリオンにノアがもどかしそうに口を開くが、それを制するようにリオンが手を立てて咳払いをした後に目を細める。
「お前とは……兄弟というよりは友達でいたい」
「リオン……?」
「……さっきお前も聞いただろうが俺の母親はマザーだ。俺の家族はオーヴェとオーヴェの家族、そしてここにいるみんなだ」
だからお前の両親であるクルーガー夫妻を親とは呼べないと警察署でも告げた事を同じ口調で告げたリオンは、口を閉ざして聞いてくれるノアに感謝しつつ似た手触りの髪を撫でて笑みを浮かべる。
「お前がここの人達を家族と思うのなら俺にとってはお前も家族になる」
でもどちらかといえばお前とはやはりカインやゼップのような関係が良いと笑い、きゃー、恥ずかしいと突然声を裏返らせてウーヴェにしがみつくように腕を回すと、ウーヴェが苦しいと悲鳴を上げる。
「リオン……」
「……オーヴェにも話したけど、意地でも自暴自棄でもなんでもねぇ。本当にそう思っている」
あの二人にとっては残念なことかもしれないがこれが俺の出した答えだとウーヴェの髪にキスをした後、穏やかな顔で友人だと宣言したノアを見つめたリオンは、これからもよろしくと笑って手を差し出すとノアもリオンの意を汲んで手を差し出す。
三人で初めて食事をした時にリオンが友達ならばどれほど楽しいだろうかと想像し、その後友人どころか兄弟であることが判明するなど俄かには信じられない現実を突きつけられたが、それらを乗り越えた先でこうして仲良くしてもらえるなど半年前は考えられないことだった。
それが嬉しいと素直に二人に伝えるとウーヴェが微笑ましそうに頷き対照的にリオンが目を丸くするが、本当に素直な俺を見ているようで気持ち悪いと本音を零してしまう。
「なんだよ、それ!」
「いや……今になってみんなが言ってた事が分かったなぁって」
やっと分かったかとウーヴェに問われて何度も頷いたリオンだったが辛い出来事を乗り越えたからこそ心の底からそう思うことができ、初めてそう呼べた母が涙を拭いたハンカチをリオンの前に差し出しながら雨上がりの青空のような笑顔で頷き胸の前で手を組んで短く祈る。
「皆仲良くなって嬉しいです」
「……マザー、俺とオーヴェのココアもくれよ」
「はい。すぐに作りましょうね」
リオンが自らの意思で初めてマザー・カタリーナを母と呼び彼女もそれを受け入れて頷いた後はいつも通りの二人に戻り、そんな二人をただ見守っていたウーヴェは、キッチンの様子が静かなのに喜びに満ちている事に気づいて顔を出したブラザー・アーベルにどうしたと問われ、いつもは素直にならない捻くれ者が素直になった結果だと告げて天使像そっくりの顔に疑問符を浮かべさせ、素直じゃないのは俺じゃねぇ、オーヴェだと言い返そうとする最愛の男の口に手を当てて文字通りの口封じをして藻掻く様を睥睨し、そんな二人を当初は呆気に取られていたが我慢できないと言いたげにノアが笑い声を上げ始めるのだった。
自宅に帰るノアを送って行く事、日曜にシュトレンを食いに来ることを伝えてマザー・カタリーナの頬にキスをしたリオンは、ブラザー・アーベルに泣きそうな顔をしていると不気味な笑みを見せつけ、駆け付けた司祭とゲオルグに全て解決した、後は彼方の問題だと小さく告げるが、ゲオルグ、地獄でゾフィーと再会するのはまだ早いからもう少し頑張れと病で細くなった肩を撫でる。
「まだダメか?」
「ダメだな」
病気だろうがなんだろうがあんたはそんなことで死なない、今までのようにここの子供達にプレゼントを贈る役目があるんだからなとそのプレゼントで命を永らえた子供達が何人もいることを笑顔で伝え、だから長生きしろと口調は悪く言い放つと、今日の晩飯はゲートルートにしよう、ノアも食っていけとポケットに両手を突っ込む。
「いいな、それ」
そんなリオンの様子にウーヴェもステッキをつきながら頷きどうだとノアをみると、一人の食事は味気ないことを最近気付いたから嬉しいと素直にくすんだ金髪が上下する。
「じゃあ決まりだな。……またな、マザー」
「ええ。気をつけて帰るのですよ、三人とも」
わたくしの大切な子供たちと三人の頬に順番にキスをした母は三人が乗った車が見えなくなるまで入口近くで見守り、雪が降ってきたから中に入ろうと司祭に促されてキッチンに向かおうとするが、自室の前に嬉しそうな顔で立っている娘に気付き胸に手を当てながら頷いてキッチンに入るのだった。