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이태용
夜が守ってくれたものは全部、朝が奪っていく。 昨日までテーブルを挟んで向かいに座っていた同僚は、夜明け前に出ていって、そして顔を無くして戻ってきた。
見られないらしい。到底、見られない状態らしい。
「最後に顔を見せてください」と言った者に、「もう顔が無い」と返された例を、俺はこれまでの人生で一度も知らない。
この仕事はクソだ。 同じ朝を何度迎えても、次の瞬間に生きている保証はどこにもない。窓から差し込む光は白すぎて死者のための色みたいだと思った。
「ヒョン、あの、あいつが……」
振り向かなくても誰だか分かる。震え方が毎回同じだから。
「ああ、うん。だと思った」
ジョンウはまた泣いていたらしい。仲間が死ぬたびに泣く。何度目でも、最初の一回みたいに泣く。慣れろ、とは言えない。俺も慣れていないからだ。涙が出ないだけで、何も感じていないわけじゃない。
「ドヨンア」
彼は名を呼ばれてようやく顔を上げる。
「なに」
「言うなよ。ジャニが死んだって」
一瞬、空気が止まった。聞こえないようなふりをした。
「……誰に」
「ヘチャンと、マーク……言うなよ。絶対に」
どうしてその二人なのか、聞かなくても分かるだろう。一番壊れるからだ。
「わかりました」
そう答えた彼の声が、驚くほど他人のものみたいに聞こえた。 靴を履いて出ていく背中は、絶望そのものに形があるなら、きっとこんな色をしているのだろうと思わせた。
ドアが閉まる音は、妙に乾いていた。
「テヨンア、どこ見てんの」
不意に名前を呼ばれて振り返る。
「あ、ユウタ」
そこに立っていたのは、寝起きとは思えないほど整った顔をしたユウタだった。目は覚めている。むしろ、眠れていない人間の顔だ。
「おはよう。そんなムスッとしてたら、4課の後輩たちに怖がられるよ」
「そ、そう?」
「うん。……ふはっ、ほら、口角下がってる。俺のカッコいい顔でも見て気持ち切り替えてよ」
軽口はいつも通りなのに、どこか薄い。笑っているのに、笑いが顔の表面にしか乗っていない。 ユウタに気を遣われている。その事実が胸の奥に重く沈んだ。
たぶん、起きていたのだろう。俺が夜明けすぐに出ていったことも、戻ってきたことも、玄関先で誰かと交わした短い会話も。ため息も。寝たふりをしたまま、全部聞いていたに違いない。それでも何も聞かない。
聞けば、確定してしまうからだ。
ユウタが無理に笑うとき、楽しいふりをしているとき、俺にはすぐ分かる。長く一緒にいすぎたせいで、誤魔化しが効かない。
そして今、彼は明らかに笑っているふりをしていた。
李永欽
今日は天気予報が外れたらしい。 穏やかなはずの午後を、厚い雲が塗り潰していた。やがて小さな雨粒が落ち始め、窓ガラスを細かく叩く。
公安対魔特異課のオフィスは、いつも同じ匂いがする。 死の気配と、安っぽいコーヒー。それらが古いカーペットに染み込んで、もう分離できない。
俺は明日の任務資料を閉じた。紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。
生存確率——限りなくゼロに近い。
数字を見たからではない。身体の奥が静かに理解していた。長く戦場にいれば分かる。
生き延びる側の直感と、終わる側の直感は、まったく別のものだ。
今、背中のすぐ後ろに立っている。振り返らなくても分かる距離に。 俺を迎えにきた死神が、鎌をもたげて、処刑人のように待機しているようだ。
「ヒョン、またそんな顔して。コーヒー淹れ直そうか?」
明るい声。振り向くとヘンドリーがドアの隙間から顔を出していた。 何も知らない顔。何も壊れていない顔。 その無防備な笑みを見るたび胸の奥が痛んだ。契約している悪魔に心臓を掴まれるよりも、鋭く。
——この男を置いていく。
それだけがどうしても現実味を持たなかった。
ヘンドリーは優しい。理由を説明できる種類の優しさではない。誰かを助けるとか、贈り物をするとか、言葉を尽くすとか、そういう分かりやすいものじゃない。 出会った瞬間に分かる。この人は優しい、と。
根拠も論理もない。ただ皮膚の内側で何かが確信する。野生動物が危険を察知するみたいに、逆方向の信号として。
そして俺は、ずっと一歩後ろにいた。 隣ではなく、少し後ろ。手を伸ばせば触れられる距離で、触れないまま。それが一番壊さずに済む場所だった。
だが——明日は来ない。
少なくとも、俺には。 君の温度に触れていられる時間は、もう終わる。
*
任務前夜。自宅は驚くほど静かだった。
雨は止んでいたが、空気は湿っている。街の音も遠く、部屋の中だけが切り取られたみたいだ。
簡単な食事を終え、ソファに並んで座る。テレビはつけているが誰も見ていない。普段ならヘンドリーがくだらない冗談を言う。俺が適当に返す。そんなやり取りが、今日は一度もなかった。
視線を向けると、彼もこちらを見ていた。 すべて分かっている目だった。 何も言わないまま、ただ待っている。
「……ヘンドリー。俺、明日の任務で死ぬよ」
言葉は驚くほど平坦だった。天気の話でもするみたいに。
ヘンドリーの肩が、かすかに震える。 怒りでも否定でもない。ただ、受け止めてしまった人の反応。
「わかってたんでしょ? 君は賢いから」
「……嫌だって言ったら、ヒョンは行かないんですか」
その声は、かすれていた。久しぶりに口を開いた人間のような、覚束なさがあった。
「行かなきゃならない」
短く答える。 沈黙が落ちる。
「でもね」
自分でも、声が少し揺れたのが分かった。
「一つだけ納得がいかないんだ」
手が自然に伸びる。吸い寄せられるように、彼の頬へ。
温かい。
「君を一人置いていくことだけが、どうしても……」
言葉の続きは出てこなかった。 親指で頬をなぞる。確かめるみたいに、何度も。
「俺は君を愛してた」
今さら、という言葉が一番似合うだろう。
「一人の男として、ずっと」
ここまで言ってしまったんだ。逃げ場はもうない。
知っている、わかっている。 この人生に幕を閉じるという行為自体、どこか達観していて、当たり前の事実のように嚥下したのだ。
「……これは俺の最期のわがままだよ」
息を吸う。
「ヘンドリー、俺を忘れないで」
彼の瞳に涙が溜まる。
「一人の男に、命を懸けるほど愛されていたっていう事実を引きずって、一生生きていってほしい」
残酷な願いだと分かっていた。愛というより、呪いに近い。 それでも、何も残さず消えるよりは——
彼は拒まなかった。 絶望に近い愛情を、静かに受け入れる。涙をこぼしながら、小さく頷く。
*
ベッドに沈む体温。
抱き寄せると、ヘンドリーは強くしがみついてきた。まるで離せば消えてしまうものを掴むみたいに。 唇を肌に押し当てる。跡を残すためというより、存在を刻み込むために。
「ヒョンはね、君を置いて死ぬことになるから」
耳元で囁く。
「忘れられない跡を残さないといけないんだ」
肌越しに伝わる鼓動。呼吸。震え。
快楽とは違う。 これは、互いがまだ生きているという確認だ。 ヘンドリーは何かを悟ったのだろう。俺の目を見て、息を詰めた。
欲望ではなく、深い哀悼の色。 今この瞬間から、自分を「思い出」に変換し始めている目。
——本当にいなくなるんだ。 その理解が、彼の中で形を持った。
首筋に顔を埋め、子どものように泣き出す。
「ヒョン、行かないで……行かないでよ……っ」
俺は背中を抱き寄せる。強く、壊れない程度に。
「いいよ、もっと泣いて」
母親が愛おしい我が子をあやすように、髪を撫でた。
「その涙と一緒に、俺を君の血肉にしてよ」
それが唯一、消えない方法だった。
数時間後。空が白み始めていた。
制服に袖を通す。布がやけに冷たい。
ベッドではヘンドリーが眠っている。泣き疲れた子どもみたいに、深く。首筋には赤い痕が残っていた。生々しく、確かな証として。
そういえば、昨晩は月が出ていた。
『月が綺麗ですね』と愛を謳った文豪がいたっけな。なんて思いながら、自分が彼に何度も判を重ねた、愛してるという言葉を反芻した。なんの含みも持たない、小洒落た言い回しもない、ただ直感的な言葉。多分その方が、実感できるだろう。
君は、俺に愛されている。今も、今までも、これからも。
振り返らない。 一度見たら行けなくなる気がした。
ドアを開ける。心は不思議なほど穏やかだった。自分が存在した証を、一番愛する人の中に刻めたから。祝福ではない。呪いの形で。
帰る場所がある人ほど、夜明け前に消えてしまう。そんな気がした。まさか自分がそちら側になるとは思っていなかった。 冷たい空気が肺に入った。空はまだ色を持たない。世界が始まる前の、短い無音。
——君はもう少し長く、こっちにいてね。
声には出さず、そう思った。
김정우
世界が呼吸を整える瞬間に、いつも俺だけが取り残される準備をしている。 朝でも夜でもない、何かが終わって、何かが始まる直前の、あの無音の時間。その静けさの中で、決まって誰かがいなくなる。
ある男は言った。
「君と食べるご飯は美味しい」
また別の男は言った。
「お前はこの仕事に向いてないから出ていけ」
前者は死んだ。後者は、まだ生きている。
どちらも俺にとって大事な人だ。というより——今まで出会った人は、みんなそうだった。
向いていないことくらい、分かっていた。自分が一番。
*
初めて任務に連れて行かれた日。引率の上官が死んだ。次の任務では、守るはずの民間人が死んだ。遺族の顔を見られなかった。 自分のせいで、という確信だけが残った。
死が本当に現実になったのは、同室が空になったときだった。
ベッドの上には何もない。衣類も、本も、靴も、匂いも。そこにあったはずの生活だけが、丸ごと削り取られている。 報告を受けたとき、言葉の意味が理解できなかった。神経が麻痺したみたいに、音だけが頭を通り過ぎる。
嘘だ。だって——
ジャニヒョンは強くて、背が高くて、誰より頼れる人だったのに。
死ぬわけがない。
「……はい……で……は、どうなったんですか」
玄関の向こうから声がした。 テヨンイヒョンの声。少しだけ上擦っている。 知らない人間の低い声。その瞬間分かった。これは確認じゃない。通告だ。
ジャニヒョンは——死んだ。
*
「もう、本当に泣き虫だな、君は……」
困ったように笑う。癇癪を起こした子どもをあやす保護者みたいに。
ドヨンイヒョンは、いつもそうだった。
俺だけが時間に取り残されている。同僚の死を重ねるうちに、他のみんなはどこか静かになっていくのに、俺は毎回、最初の一回みたいに泣いた。
情けなかった。申し訳なかった。背中をさする手は、いつも優しかった。そして——震えていた。俺のために震えているのか、それとも自分を抑えているのか、最後まで分からなかった。
「お前と食べるご飯は美味しい」と言ったユウタヒョンは、本当に、何だかんだで俺を可愛がってくれていた。
ぶっきらぼうで、乱暴で、でも任務の後は必ず「腹減ってるでしょ」と言って何か食べさせてくれた。
あの人が死んだとき、怒る人がいなくなった。寂しさは、叱る声が消えたときに形になる。
ジェヒョンイヒョンは、生きていた。
でも前線からは、あからさまに俺を遠ざけた。
「後方支援でいい」
「資料整理やってろ」
どれも命令の形をしていたけれど、本当は懇願に近かったのだと後で知る。失うことに耐えられない人の、遠回しな防衛。
そして——ドヨンイヒョンが死んだ。
見つけたのはジェヒョンイヒョンだった。 帰ってきた彼は、異様なほど冷静だった。
「殉職だ」
それだけ。顔色も変わらない。声も震えない。目も逸らさない。 完璧な報告。
俺は逆に混乱した。どうしてそんなに平気なのか、理解できなかった。 だが夜中、廊下で水を飲みに出たとき、彼が一人で座っているのを見た。電気もつけずに、ただ壁を見ている。
呼吸が浅かった。まるで何かに押し潰されているみたいに。
見てはいけないものを見てしまった気がして、あのとき初めて分かった。
——一番絶望しているのは、この人だ。
取り乱さないのは、俺を壊さないため。
やがて4課へ移る話が出た。精鋭が多い部署だという。マークとヘチャンはそこへ行った。新しい生活を始めたらしい。
残ったのは——二人。 ジェヒョンイヒョンと、俺。
同じ部屋で過ごす時間が増えるにつれ、彼の優しさが分かってしまう。分かりすぎて、苦しくなる。
ドヨンというバディを失った人と、ジャニというバディを失った人。 代わりではない。でも互いに自分たちしか残らなかった。いつの間にか、俺たちはバディになっていた。
その人も、死んだ。
任務中だった。 何が起きたのか理解できなかった。視界が白くなる。音が遠ざかる。
気づいたとき、ヒョンは血の中にいた。
「きゅ、救急車……」
何をすればいいか分からない。ただ言葉だけが口からこぼれる。
その手を、掴まれた。血で滑る指。
「……落ち着け」
声は驚くほどしっかりしていた。
「こういうときくらい、ヒョンの話を静かに聞け」
息が浅い。でも目は真っ直ぐだった。そして、わずかに笑った。
「お前はやっぱ……デビルハンター向いてないな」
その言葉が、最後だった。
*
鏡を見た。顔色は悪くない。むしろ以前より健康的に見える。 水垢一つない洗面所の三面鏡。珍しいだろう、俺が掃除をするなんて。
スポンジを握る手は、少しだけ震えていた。力を入れすぎて指先が白くなる。
テヨンイヒョンがいたら、褒めてくれただろうか。ドヨンイヒョンがいたら、「一人でやらなくていいのに」と言って手伝ってくれただろうか。
——そんなこと、考え出したらキリがなかった。
今日からここを使うのは、まだずっと幼い青年たちだ。さっき会ったばかりの新人たちは皆、驚くほど綺麗な目をしていた。
何も壊れていない目。 守らなければならない。
だから——
強く、優しく。聡い人間に育てる。
俺がやるべきことは、復讐でも自責でもない。流れる血と涙の数を減らすこと。それだけだ。
つけっぱなしのテレビからアナウンサーの声が流れる。
『日中は晴れ間が多く、過ごしやすい気温になるでしょう』
言われて窓の外を見る。確かに空は明るい。下を向いていた昨日までが嘘みたいに——。
今日は上着もいらなそうだ。
世界は何事もなかったみたいに続いていく。俺だけを置いて。
나재민
朝焼けは、秘密を全部連れていってしまう光だと思う。 夜の間だけ存在を許されていたもの——罪も、願いも、言いそびれた言葉も、朝が来ると、何事もなかったみたいに溶けてしまう。
4月某日。 もう春と呼んでいいはずの、やけに暖かい朝だった。瓦礫の隙間を抜ける風が、血の匂いを薄めていく。空は驚くほど澄んでいて、こんな場所にも平等に光が降りてくるのだと知る。
——俺は死んでいた。
愛していた、君のすぐ横で。
気づくのが少し遅れた。だから、どうしようもなく間抜けな気持ちになった。ああ、もう終わりなんだ、と。拍子抜けするくらいあっさり理解できてしまった。
視界の端に、自分の腕が転がっている。他人のものみたいに、妙に遠い。痛みはもうほとんどなかった。その代わり、体の内側がゆっくり空洞になっていく感覚だけがある。
隣には、君が倒れている。
ジェノ。
動かない。呼吸も浅い。血で濡れた睫毛が固まって、目は閉じたままだ。 さっきまで、そこにいたのに。
俺は、生まれたときから一人だった。物心ついた頃にはもう、白い壁と鉄のベッドが並ぶ部屋にいた。名前も、誕生日も、どこから来たのかも、最初から空白だった。 大人たちは優しかったが、忙しすぎて誰のものでもなかった。誰かの帰りを待つという感覚を、俺は知らない。待っても来ないことを、幼い頃に覚えてしまったからだ。 だから、何も期待しなかった。期待しなければ、失うこともない。
世界はずっと均一な灰色だった。寒くもないし、暖かくもない。ただ、そこにあるだけの風景。
君に会うまでは。
君は突然そこにいた。説明も前触れもなく、俺の世界に落ちてきた。 光みたいだった。目が痛くなるほど明るくて、でも見ていたくなる光。
笑うことを、初めて知った。誰かのために何かをしたいと思う気持ちも、初めてだった。君がいれば、それで世界は成立した。他は全部背景でよかった。
だから。
ヘチャンが死んだとき。周りが崩れ落ちるみたいに泣いている中で、俺だけがどうしていいのか分からなかった。悲しいはずなのに、胸が引き裂かれる感覚が来ない。涙も出ない。 ただ、君が壊れていくのを見るのが怖かった。 君は、あんな顔をするんだと思った。呼吸の仕方を忘れたみたいな顔。
隣にいるのに、届かない。触れているのに、遠い。何か言わなきゃと思った。でも、何も浮かばなかった。 だって俺にとっての世界は、君だけだったから。他の誰かを失う痛みを、実感として持っていなかった。 君の大切な人がいなくなった。それは理解できる。でもその喪失の重さを、同じ形では感じられなかった。
申し訳なかった。本当に。
君が沈んでいくのに、手を差し伸べる言葉を持っていなかった。ただ隣にいることしかできなかった。 ——それでも君は離れなかった。 だから余計に思い知った。 俺は君に何も返せていない。君は俺に全部くれたのに。
世界をくれたのに。
俺の人生に舞い降りた天使。
そんな陳腐な言葉を本気で信じさせる唯一の存在。君という贈り物が、突然この世界に落とされた日から、俺の人生はずっと祝祭みたいだった。
君が笑えば、それだけでよかった。 君が困れば、解決したかった。 君が望むなら、宇宙ごと差し出しても惜しくなかった。 単純な「好き」なんかじゃない。もっと静かで、もっと重くて、逃げ場のないもの。 君の全部を肯定したい。君が壊れるなら、その破片ごと抱きしめたい。君が誰かに愛されるなら、その人にさえ感謝したい。
——君が生きていてくれるなら、何でもよかった。
だから。
契約の言葉は、自然と口からこぼれた。
「……俺の全部、あげる」
誰に向けたのかも分からない。けれどこの世界には「そういうもの」を受け取る存在が確かにいる。
血で濡れた地面が、かすかに脈打つ。空気が歪む。気配が、覗き込んでくる。 対価を求めるもの。名前を持たない何か。
「魂も、契約も、残りも……全部」
声は驚くほど穏やかだった。まるで買い物の会計をするみたいに。
「だから、ジェノを生かして」
喉が焼ける。肺が血で満ちていく。
「俺を、お前のものにしていい」
それでも言葉は止まらなかった。
「代わりに——」
視界が滲む。朝の光が強くなっていく。
「ジェノの契約悪魔になって」
返事はない。ただ、了承されたのだと直感した。
君の胸が、かすかに上下する。さっきまで止まりかけていた呼吸が、わずかに戻る。 それだけで十分だった。
生きる。
君は生きる。
それなら、もういい。
体を引きずって君に近づく。腕は一本しか残っていないけれど、触れることはできた。
温かい。まだ、ここにいる。顔を寄せる。血と埃と鉄の匂いの向こうに、知っている匂いがする。
「ジェノヤ……」
返事はない。もちろん、聞こえてもいないだろう。それでも言いたかった。
「最後のわがまま、聞いてよ」
ずっと君を振り回してきた。あちこち連れ回して、無茶を言って、困らせて。それでも君は、いつも受け入れてくれた。 嫌な顔ひとつせずに。
だから、最後くらい——
「お前は、誰のものにもならないで」
自分でも、ひどい願いだと思う。生きてほしいと願っておいて、縛りまで残そうとしている。
でも、これが本音だった。 誰にも渡したくない。世界の全部が君を欲しがっても、拒んでほしい。
君は君のままでいて。
どこにも属さず、誰にも壊されず。
そして、もし。ほんの少しでも思い出すことがあるなら。俺がいたことを、どこかに残していてほしい。
「……ね、好きだよ」
声はほとんど息だった。光に溶けていく。 君の頬に触れた指先から、感覚が消えていく。 温度が分からなくなる。 朝焼けが強くなる。 すべてを塗り潰すみたいに。
ああ、やっぱり。 朝は秘密を連れていってしまう。 俺が何をしたかも、何を願ったかも、どうして君だけが生き残ったのかも、きっと誰にも分からない。君も、知らないまま目を覚ます。
それでいい。そのほうが、ずっといい。 だってこれは、俺が勝手にしたことだから。君の人生に罪を残したくない。
視界が白く満ちる。 輪郭が溶ける。
最後に見えたのは、朝日に照らされた君の顔だった。生きている顔。それだけで十分だった。
——贈り物は、ちゃんと使われてほしい。
意識が途切れる直前、そう思った。
じゃあね——俺のジュピター。
Mark Lee
夜の終わりに名前をつけてしまえば、この痛みもただの記憶に成り下がってしまう。 分類され、整理され、やがて過去という棚に押し込まれて、触れられなくなる。 君がいない朝に慣れてしまうくらいなら、いっそ夜の底で石になりたかった。 光が差し込まない場所で、時間の概念そのものを忘れて、ただ沈んでいく存在でいられたなら、どれほど楽だっただろう。
君が僕の前からいなくなって、ジェノが笑わなくなって、多分もう一か月は経った。数えるのが億劫で、やめた。 ただ、満月を二回見たから、そうなのだろうと。
自分がこんなにも壊れやすい素材で出来ているとは思わなかった。骨ではなくガラスか何かだったのかもしれない。
君が不満を言えば、できる限り改善した。君が名前を呼べば、どんなに遠くても駆けつけた。君が冗談を言えば、軽くあしらった。僕たちはバディだったから。 それ以上でも以下でもない、そう言い聞かせていれば均衡は保たれるはずだった。 君は僕を呼び捨てにすることもあったし、機嫌が悪いと平気で八つ当たりしてきた。でも機嫌がいい時だけ、子どもみたいにくっついてくる。
「まくぅ!」
——ヒョンを付けろと、何度言っただろう。 そのたび君は頬を膨らませて、わざとらしく拗ねるふりをして、結局また笑った。
可愛くないわけないだろう。そんな当たり前のことに、どうしてもっと早く気づかなかったのか。
*
箸が止まった。
静かなリビングに金属の触れ合う音だけが残る。
「ジェミン、いつ帰ってくるんだろ」
また言った。 ジェノは気づいていない。ジェミンは——死んだ。 でもジェノ以外の全員が、言葉にしないまま理解していた。
あいつは変わっていた。良く言えば一途、悪く言えば偏執的。世界の焦点が常に一人にしか合っていないような目をしていた。 ジェノを除いて、皆それを知っていた。
「ジェミンは——」
喉が詰まる。言葉が、舌の上で固まる。
やめた。
「なに?」
無垢な目で見る。
「……いや、なんでもない。多分どっか遊びに行ってて、満足したら帰ってくるんじゃない?」
軽く言った。冗談のように。 言えない。言うべきじゃない。ジェミンが望んだのは、ジェノが生きること。ただそれだけだったはずだから。
「そっか。あいつらしいね」
ジェノは笑った。少しだけ。その笑顔を壊す権利は、僕にはない。 あいつの愛情に浸かれるのは、ジェノだけの特権だから。
だから僕は、事実を一人で引き受ける。死は、共有すると倍になる。抱え込めば、重量は変わらないままただ沈むだけだ。
任務のたびに、誰かがいなくなる可能性を計算するようになった。確率ではなく、予感として。そして予感は、外れなくなっていった。 心のどこかが削れていく。音もなく、粉末になって、気づけば空洞が広がっている。悲しみすら摩耗する。
ただ重さだけが残った。
*
視界が揺れる。 何が起きたのか分からない。ただ、身体が思うように動かない。 膝が地面に触れる。衝撃は感じない。
遠くでジェノの声がした。名前を呼んでいる。返事をしようとして、できない。
その代わり——
別の声が浮かんだ。
「も〜!マクヒョンは本当に俺のこと好きだね」
酔ったときの口癖。あるいは機嫌がいいとき。寄宿舎のリビングで、皆の前で平気で言う。僕はいつも否定した。
だって——
君は本気じゃなかっただろう。 もし肯定したらどうなる。均衡が崩れる。どちらがどう答えても、関係は同じ形ではいられなくなる。 戦場で必要なのは、安定だ。感情の揺らぎは命取りになる。 だから蓋をした。自分の心に。
よくあるだろう。瓶の蓋が少し傾いたまま閉まっていること。完全には密閉されていないのに、閉じたつもりで放置してしまう。
せっかちで、危なっかしくて、常にこちらの神経を削る君の相手をしていると、丁寧に確認する余裕なんてなかった。
——気づいたときには、開いていた。
中身は全部こぼれて、もう元には戻らなかった。
墓の前で、ようやく言った。
「ヘチャナ、ごめんな。好きだったよ」
意味のない独り言。返事が来るはずもない場所で。 遅すぎた。
呼吸が浅くなる。肺が空気を拒否しているみたいだ。
ヘチャンという呼び名に、ドンヒョクという人間に、振り回され、没入して、甘い罠にかかったままここまで来てしまった。 そして今、その罠の中で静かに終わろうとしている。 君はまた言うだろうか。
——なにやってんの、ヒョン。
呆れた声で。でも少しだけ優しく。
地獄でもいい。むしろその方がいい。君がいる場所に連れていってくれ。 暗闇が近づく。怖くはない。ただ、遅すぎたことだけが悔しい。
最初から認めていれば、何か変わったのだろうか。
君の名前を呼ぼうとして、声にならなかった。最後に浮かんだのは、あの屈託のない笑顔だった。
世界が暗転する直前、ようやく理解した。僕はずっと、君のいる方向へ歩いていたのだと。
钱锟
誰にも見つからない場所で、名前のない祈りだけが朝露に変わっていく。声に出されなかった言葉は、空気に溶けることも許されず、ただ冷えて重くなり、地面に落ちる。
ここは、そういうものばかりが集まる場所だった。
近いうち死ぬような人間は皆、水が流れるように嘘をつく。今足元に埋まっている者たちは十中八九それだった。
嘘は救済ではない。触れた瞬間から気づくまで、遅効性の毒のようにじわじわと心を侵していく。優しい嘘、なんて言葉を最初に考えたのは誰だろう。もし本人がここにいるなら、この光景を見せてやりたい。
すぐ帰ってくると言って、顔を失くして返ってきた者。愛猫を見せてあげるから近いうち会おうと言って、猫だけを残して消えた者。喧嘩した話、聞かせてよ、と言ったきり連絡が途絶えた者。
そんなものばかりだ。
墓標に刻まれた名前はどれもまだ若い。過去にいた者も、今生きている者も、いずれ、いや、近いうちここへ来る。
例外はない。 最初の一人が死んだ日から、墓参りは習慣になった。習慣はやがて日課になり、日課は生活の一部になった。 増え続ける墓の位置を覚える。毎日一人ずつ回る。手を合わせる。
祈っているわけではない。ただ、ここに来ると一日の輪郭がはっきりする。 生きている側の証明として。
弟たちにも教えた。血は繋がっていないが、長く一緒にいすぎて家族という言葉以外では説明できない存在になってしまった弟たち。最初は嫌がっていた。縁起でもない、と笑って。
でも数が増えるにつれ、何も言わなくなった。黙って後ろを歩くようになった。
それは教育のようで、祈りのようでもあった。
もし——自分が死んだら。
こいつらに弔ってもらわなければ、どこにも行けない気がした。 魂があるかどうかは知らない。ただ、誰にも覚えられていない死は、終わりではなく消去に近い。それが一番怖い。僕が何を祈ろうと、この世界では無駄だった。むしろ望む者ほど拒まれる。願う者は皆、朽ちていく。
*
風が吹いた。春とも冬ともつかない、温度のない風。木々の葉を揺らすこともなく、ただ空気の層を静かにずらしていく。
墓石に積もった細かな砂がわずかに滑り落ちた。
「……安らかに」
口に出してから違和感を覚えた。安らぎなど、この世界のどこにあるのか。少なくともここに眠る者たちは安らかではなかったはずだ。恐怖も、痛みも、後悔も、すべて途中で断ち切られた。
安らぎとは、長く生きた者に与えられる終着点だ。奪われた者にあるのは、ただの停止。
それでも言葉にするのは、残された側のためだ。死者のためではない。
靴底が乾いた土を踏む音だけがする。鳥の声も、虫の羽音もない。ここは妙に静かだった。まるで音という概念が外されているみたいに。
ある墓の前で足が止まる。特別な理由はない。ただ、ここへ来ると呼吸が少しだけ深くなる。
手を合わせる。思い出そうとしてやめた。具体的な記憶は、すぐに痛みに変わる。だから輪郭だけを残す。声の高さ、笑い方、歩幅。それで十分だった。
僕は彼らの未来を奪った側の人間だ。守れなかったという意味で。英雄でも、被害者でもない。ただ生き延びてしまった人間。その事実は時間が経つほど重くなる。
罪悪感は風化しない。むしろ保存される。
遠くで雲が流れる。朝の光が少し強くなり、墓石の影が短くなる。一日が始まろうとしている。生者の時間が動き出す。ここに来る前と同じように、街では誰かが笑い、誰かが食事をし、誰かが恋をする。
世界は驚くほど公平に残酷だ。誰が死んでも止まらない。
最後の墓の前で、しばらく立ち尽くす。ここにはまだ名前が刻まれていない。新しい石。空白が不気味に白い。
近いうち、誰かの名前が入る。
もしかすると——自分かもしれない。あまり恐怖は感じなかった。ただ順番が回ってくるだけだ。
しゃがみ込み、指先で石の表面をなぞる。冷たい。朝の温度をまだ持っていない。
「……待っててくれ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。死者か、未来の自分か、それともここへ来る弟たちか。
立ち上がる。
もう振り返らない。振り返ると、ここに置いていかれそうな気がした。
風がまた吹く。今度は少しだけ温度があった。季節が進んでいる。世界は確実に前へ動いている。自分だけが、同じ場所を何度も歩いているとしても。
박지성
この世に存在する罵詈雑言のすべてを、俺は一度は浴びている気がする。面と向かって吐き捨てられたものも、背後で囁かれたものも、もう区別がつかない。
そして、仲間の命が燃え尽きる瞬間を見送った回数も、同じくらい数えきれなかった。
炎が消えるみたいに、灯りを吹き消されるみたいに、人はあっけなくこの世から退場する。そのたびにそこに残されるのは、肉の温度が急速に失われていく身体と、やけに静かな空気だけだ。
俺は死神だ。
――違う。別に、いまだに厨二病を患っているとか、そういうわけじゃない。 ただこの仕事を続ける中で、亡骸を引き渡した遺族にそう言われたことがあるだけだ。
『君は、まるで死神みたいだ』
またある時その言葉を口にしたのは、仲間の中でも比較的親しかった男だった。冗談めかした声ではあったが、目は笑っていなかった。 疲労と恐怖と諦めが、底のほうで澱んでいる目だった。
ショックだった。――少なくとも、その時は。 仲間が次々といなくなっていく状況で、残された人間に余裕なんてあるはずがない。皆どこか壊れていて、壊れ方が違うだけだった。
彼は、その言葉を言った日のうちに死んだ。遺体は損傷が激しく、顔の判別がつかないほどだった。 だが、持ち物と記録から身元は確定した。まるで最初から、死ぬ予定だったみたいに。
――ファン・ロンジュン。公安退魔特異4課・デビルハンター。
死因――
「俺は見てないから信じない」そう言って上官に噛みついたら、何も言わずに一枚の紙を差し出された。分厚いファイルから抜き取られた、ただのコピー用紙。 そこには淡々と名前が並んでいた。肩書きと、番号と、死亡確認日時。
死亡者リスト。
ロンジュニヒョンの名前は、真ん中あたりにあった。特別でも何でもない位置。まるで、ありふれた消耗品みたいに。 それを見せられた瞬間、怒りも悲しみも湧かなかった。
ただ、肺の奥がじわじわと冷えていく感覚だけがあった。
――拷問だ。
叫ぶ代わりにそう思った。 死体を見せられるより残酷だ。形が残っていれば、まだ「別人かもしれない」と思える。だが文字は逃げ場をくれない。名前は本人そのものだ。
ファン・ロンジュンは死んだ。 それだけが、どうしようもなく確定してしまう。
紙の端が、わずかに震えていた。自分の手が震えているのだと気づくまで、少し時間がかかった。「チソンイ」と呼んで可愛がってくれたあのヒョンの顔は、もう見られないらしい。
*
「チソンア、着替え持った?」
「うん、持ったよ」
チョンロヒョンと玄関で確認をする。それだけの、ただの朝の会話みたいなやり取り。
みんながいなくなってから、このマンションの一室はやけに音が反響する。おしゃべりなチョンロヒョンと俺が二人きり。足音も、衣擦れも、ドアの軋みも、独り言も。二人分しか存在しないことを強調するみたいに響いた。
以前はもっと狭かったはずなのに。
「じゃあ、行こう」
「……行ってきます」
誰もいない部屋に向かって、なんとなく呟く。返事はもちろんない。けれど、言わないまま出るのは落ち着かなかった。 帰ってくる場所が、まだここにあると確認するためみたいに。
今日は簡単な任務だった。雑魚の掃討。危険度も低い。早く終わらせて、飯でも食いに行こうとチョンロヒョンが言った。
だから、着替えを持った。 返り血を浴びたままでは、子どもや恋人同士がいる店には入れない。そんな、ごく普通の理由だ。
——普通だった。
その時までは。
任務は、本当に簡単に終わった。
悪魔は弱く、動きも鈍かった。ヒョンが足止めし、俺が核を叩き潰す。それだけで終わる程度の相手。 肉塊が崩れ落ち、黒い体液がアスファルトに広がる。腐臭が遅れて鼻を刺した。
「終わりだね」
チョンロヒョンが軽く息を吐く。戦闘の緊張が解けた声音だった。
「うん」
俺も頷く。武器を下ろし、肩の力が抜けるのを感じた。
生きている。二人とも、無事だ。
「じゃあ帰ろうか。着替えてさ、何食べたい?」
振り向きながら、いつもの調子で言う。その背中に、ようやく日常が戻ってきた気がした。
次の瞬間。
——ヒョンの体が、不自然に揺れた。
何が起きたのか、理解が追いつかなかった。 遅れて、湿った音が聞こえる。 ずぶり、と。 チョンロヒョンの胸から、黒い腕が生えていた。背後から、貫かれていた。
「……え?」
声が出たのは俺じゃない気がした。
腕が引き抜かれる。同時に、血が噴き出した。まるで圧をかけていた栓を外したみたいに。 ヒョンの身体が崩れる。その背後に、もう一体。さっきの個体とは比べ物にならない、異様な気配の悪魔が立っていた。 気配なんて感じなかった。完全に油断していた。
——遅かった。
それから先の記憶はほとんどない。 気づいたときには、俺はそいつの喉を裂いていた。骨を砕き、肉を引きちぎり、原形がなくなるまで叩き潰していた。
止まれなかった。
止まる理由が、消えていた。
断末魔も、抵抗も、覚えていない。ただ、赤と黒の飛沫だけが視界を覆っていた。やがて動かなくなった肉塊を、なおも殴り続けて—— ようやく、我に返る。
荒い呼吸。震える手。異様な静けさ。 そして。
倒れているヒョンが、視界に入った。
「……ヒョン?」
声がひどく掠れていた。 走る。
滑りそうになる足を無理やり動かして、隣に膝をつく。 血が、広がっている。思っていたよりずっと多い。地面が濡れて光っていた。
「ヒョン、ヒョン」
揺さぶる。反応が鈍い。目は開いているのに、焦点が合っていない。胸の穴から、泡混じりの血が溢れている。呼吸のたびに、ぐぽ、と嫌な音がした。
助からない。
——そんな言葉が、頭のどこかで冷静に響く。
「チョンロや、だめ、まだ寝ないで」
必死に声を出す。言葉が震える。
「ダメだよ、ヒョン、起きて、ほら、帰るって言ったじゃん」
触れている手がもう冷たい。体温が逃げていくのが分かる。 ヒョンの唇が、かすかに動いた。
「……ジェミナ……」
掠れた声。ほとんど空気の震えだけ。
「マクヒョン……」
違う。ここにいるのは俺だ。
「ヘチャナ……」
ひとつ名前を言うたびに、呼吸が浅くなる。遠くに行くみたいに。
「……チョンロや、俺ここにいる、ヒョン」
必死に顔を近づける。視界に入れば、戻ってくる気がして。
けれど、ヒョンの瞳はどこも見ていなかった。もう、ここじゃない場所を見ていた。
「……チソン……あ……」
最後に、やっと。俺の名前。
その音が、空気に溶ける。次の瞬間、胸の上下が止まった。 しばらく気づかなかった。動かなくなったことに。
「……ヒョン?」
呼んでも、もう反応はない。まばたきもしない。息もしない。ただ温度だけが失われていく。
そのときようやく理解した。
——本当に、死んだ。
叫びは出なかった。涙も出なかった。胸の奥に何かが落ちていく感覚だけがあった。底の見えない穴に、重い石を投げ込んだみたいに。
音は、しなかった。 ただ、空っぽになった。
それ以来、何かを感じようとすると、その穴に全部吸い込まれていく。 悲しいはずなのに、悲しくならない。怖いはずなのに、怖くならない。
——防衛本能だと、後で誰かが言った。
そんなことはどうでもいい。 あの日から俺の世界は音を失った。ヒョンが名前を呼ぶ声も、笑う声も、全部、あの場所に置き去りになったまま。 俺が名前を呼べるヒョンたちは、もうみんな返事をしない。
あの時からだと思う。 何かが決定的に摩耗し始めたのは。 悲しみは消えなかった。ただ、表面に浮かび上がってこなくなっただけだ。深いところで沈殿して、触れようとすると水底の泥みたいに濁る。
それ以来、俺は泣いていない。
泣く必要がないからじゃない。泣くための部品が、どこかに落ちてしまっただけだ。
大崎将太朗
眠っているあいだに、誰かの人生から外されてしまうことがある。 昨日まで確かに隣にいたはずの人が、朝になったら最初から存在しなかったみたいに消えている。
理由も、前兆も、置き手紙すらない。君がいなくなった理由は分からないのに、いなくなった時間だけは正確に覚えていた。 時計の針の位置。カーテンの隙間から差していた光の角度。部屋の温度。空気の匂い。 まるでそこから世界がずれてしまったみたいに。
「ソンチャン……」
思わず口から滑り落ちた名前を、今も探している。誰もいない場所で呼ぶたびに、声だけが空中に取り残される。
君がいない間に僕は『最強』になってしまった。望んだわけじゃない。必要だったから、そうなっただけだ。
悪魔はどんな姿をしていても残酷だった。人の形をしていても、獣でも、神話の幻みたいな姿でも、中身は同じ——他者の生を食い潰す存在。時に醜く、時に神獣のように神秘を纏うそれらを斬り続けるうちに、僕のほうが人間から遠ざかっていった気がする。
血の匂いに鈍くなり、断末魔に動じなくなり、生と死の境目が曖昧になっていく。鏡に映る自分が、どちら側の存在なのか分からなくなることがある。
寂しい。
一人で強くなってしまっても、君がいないというコントラストが強まるだけで、何も嬉しくなかった。 強さは共有できて初めて意味を持つ。君に見せる相手がいないなら、ただの空虚だ。
僕が単独でデビルハンターをしている理由は、僕が弱いからだ。君を探すために始めたはずなのに、その途中で出会った人たちは、みんな優しかった。
任務の合間に他愛ない話をして、無事を確認し合って、次も会おうと笑う。そういう関係を持ってしまえば、失ったとき僕は壊れる。まともな精神状態でいられない。探すどころではなくなる。
だから距離を置いた。最初から、一人でいると決めた。僕が僕にした約束を守るために。
それに——皮肉なことに、僕はラッキー体質らしい。 他の人たちのように悪魔と契約しなくても、身一つで大抵のことができてしまった。 傷はすぐ塞がるし、勘もやけに当たるし、死にそうな場面でもなぜか生き残る。まるでこの世界が「まだ死ぬな」と言っているみたいに。
昨晩、政府の人間から連絡が入った。
4課が全滅した、と。
『公安退魔特異4課』。知らないはずがない。僕の同期は、ほとんどそこにいた。
任務先で偶然会うと、向こうから声をかけてくれた。人懐っこくて、騒がしくて、やたらと距離が近い。年齢よりずっと幼く見えた。ああ、この人たちは“人と生きている”んだと分かった。 誰かと食事をして、誰かと帰って、誰かの死を本気で悲しめる。 そうやって魂を削っていく。
僕には真似できない生き方だった。
そして——
みんな、死んだ。
ヘチャン。ジェミン。マーク。ロンジュン。ジェノ。ヤンヤン。
名前を思い浮かべるたびに、胸の奥が静かに冷える。痛みというより、温度が消える感覚。 僕と同じ年に生まれて、同じ時代の空気を吸って、同じテレビを見て、同じ流行に笑っていた人たち。 もう、どこにもいない。メールを送っても返事は来ない。既読もつかない。電話をかければ、 「現在使われておりません」という無機質な音声が流れるだけだ。
それが一番、現実味があった。人は死ぬと、連絡がつかなくなる。ただそれだけのこと。
*
「……もう、誰もいないんですか?」
気づけばそう聞いていた。回線の向こうで、少し沈黙が落ちる。
『……生存が確認されているのは二名』
機械的な声。
『一名は前線を離脱し、現在は教育係に就いている』
ジョンウヒョンだとすぐ分かった。
『もう一名は……出勤していません』
言葉を選んでいる気配があった。
『所在は寮のままですが、連絡が取れず、実質的に任務には参加していない状態です』
胸の奥がざわつく。ヤンヤンの顔が浮かぶ。 その隣に、もう一人。
シャオジュン。
バディだった。誰より近くで、誰より多くを共有していたはずの存在。 言えなかった言葉も、間に合わなかった約束も、きっと山ほどある。
——分かる。痛いほど分かる。
親友を失い、再会を求めて彷徨っている自分には、その感覚が手に取るように理解できた。
ヤンヤンが一度、寮に遊びに来いと言ってくれたことがある。シャオジュンと同室だと笑っていた。 あの部屋は、まだそこにあるのだろうか。思い出だけが残った場所として。
しばらく迷ってから、僕は決めた。 会いに行こう。君を探す旅の途中で、同じように取り残された人を見捨てることはできない。 それが無意味でも、何も変わらなくても。
少なくとも——
そこに誰かがいた証を、消したくなかった。
*
寮の場所はかつて4課に所属していた上官が教えてくれた。住所を口にする声は、必要以上に事務的だった。人が住む場所ではなく、保管庫か何かの位置を伝えるみたいに。
エントランスは無人だった。受付の椅子には薄く埃が積もっている。照明の一部が切れ、廊下は昼間でも薄暗い。 人の気配が希薄だ。本当に、人が減ったんだ。ここには確かに生活があったはずなのに、今はその残滓だけが漂っている。エレベーターの鏡に映る自分の顔が、やけに硬く見えた。
記憶を頼りに廊下を進む。ヤンヤンが先導してくれた日のことを思い出す。軽い足取りで、振り返りながら笑っていた。
「こっちこっち」
子どもみたいに。 その背中はもうない。
——目的の号室の前で、足が止まる。 ドアは閉まっていた。鍵もかかっている。それなのに。
いる、と直感した。生活の匂いが、わずかに漏れている。完全な廃室とは違う、微かな温度。
インターホンを押す。
無音。
もう一度押す。反応はない。 しばらく待ってみても、中で動く気配は感じられなかった。 帰るべきなのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。ここまで来て引き返したら。きっと二度と来られない。
喉が乾く。意を決して、声を出した。
「こんにちは。誰かいますか?」
自分の声が、廊下に吸い込まれる。
「ショウタロウといいます」
名乗る。知らない相手でも、そうするのが礼儀だと思った。
——ガタッ。
明確な物音がした。 息を呑む。
いる。確実に。
しかし、それきり沈黙が落ちた。近づく気配も、離れる気配もない。もどかしさが募る。 ここまで来て、言葉を選んでいる余裕はなかった。
「シャオジュニヒョン、いるなら開けてください。僕です」
拳が自然と握られる。
「話があるんです」
本気だった。昨夜から頭の中で一つの仮説が離れない。 ソンチャンを消した悪魔。ヤンヤンを殺した悪魔。 記録に残っていた痕跡。遺体の損壊の仕方。異常な再生速度。目撃証言に共通する「音」。
——同じ存在だ。 確証はない。けれど、確信に近いものがあった。
しばらくして。内側で鍵が回る音がした。 ゆっくりとドアが開く。
そこに、シャオジュンがいた。 見た目はほとんど変わっていない。背筋は伸びているし、身なりも整っている。 ただ——目に灯っていたものが、消えていた。光を失ったというより、燃え尽きた灰だけが残っているような。
「……久しぶり」
声も静かだった。感情の起伏がほとんどない。
部屋の中は整頓されていた。以前訪れたときとほとんど同じだ。物の配置も、空気の密度も。ヤンヤンの私物が少し減っている以外は。ふと、あの日の言葉が蘇る。
——「ジュン哥はね、潔癖なの。俺がちょっと汚しただけですぐ怒る」
笑いながら、わざと大げさに言っていた。少し盛って、面白おかしくして。ヤンヤンらしい語り方だった。 今はそれを否定する声もない。形式的な世間話をいくつか交わした。近況、仕事、互いの無事。どれも本質から遠い。
やがて、沈黙が落ちる。
逃げ場がなくなった。
「辛いこと……聞いてもいいですか?」
言葉を選んだつもりだった。ヒョンはわずかに目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……君は、もう少しストレートに言うべきだよ」
責める声ではない。ただ事実を述べているだけ。
それから、彼は話し始めた。
ヤンヤンが目の前で死んだこと。避けられなかった一撃。体が裂ける音。血が温かかったこと。 悪魔は、形が定まらない存在だった。人の影のようでもあり、獣のようでもあり、見ている角度によって違って見える。攻撃は速く、重く、当たれば形が残らない。 遺体は——損傷が激しすぎて、ほとんど判別できなかったという。回収されたものは、骨片と血に濡れた布だけ。DNA照合でようやく特定された。
「……骨壷は、空だった」
ヒョンはそう言った。
「何も入っていない。それでも、抱えて帰るしかなかった」
両腕で何かを抱く仕草をする。その姿はあまりにも静かで、あまりにも重かった。
「軽かったよ」
かすかに笑う。
「信じられないくらい」
部屋に沈黙が満ちる。
長い独白だった。言葉は淡々としているのに、そこに積もっている孤独の量が分かる。僕は何も言わなかった。言えることなど、何もなかった。
*
日が暮れる前にと、二人で墓地へ向かった。簡素な十字架が、土に刺さっているだけの場所。名前の刻まれたプレートも小さく、遠目にはどれも同じに見える。ずっと気にかけている人間でなければ、目的の場所に辿り着けない。
ヒョンは迷わなかった。ヤンヤンの墓の前で、立ち止まる。
僕は手を合わせた。
「ヒョン」
目を開けた。
「あいつを倒したら、デビルハンターを辞めましょう」
シャオジュニヒョンが顔を上げて、目を見開いた。
「もう、これ以上傷つかないでください」
沈黙。
そして。ヒョンの瞳から、一筋の涙が落ちた。 長い睫毛、凛とした眉、澄んだ瞳、通った鼻筋。 そのすべてが、感情を宿した瞬間だけ、あまりにも人間らしく見える。
泣いている。
一つ年下の、少し生意気で愛らしいバディを失って、この美しい男が、今ここで泣いている。声は出ない。ただ涙だけが静かに落ちる。
僕は堪らず視線を逸らした。胸が詰まって、自分まで泣きそうになる。
泣いてはいけない。これは二人の時間だから。侵入していい領域ではない。
ヤンヤンとシャオジュン。その関係の終点を、自分はただ、証人としてそこにいるだけ。
風が吹き、十字架がわずかに軋んだ。 遠くで鳥が鳴いた。
世界は何事もなく続いている。 ここに一つの人生が埋まっていることなど、まるで知らないみたいに。