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「ねぇ、今日は随分外が揺れるね。あれ、陽炎っていうんでしょ?」
熱のむせ返る夏の宵だった気がする。ずいぶん客の少ない奇妙な温泉旅館の縁側から外をぼうっと眺めながら、僕はそう連れに尋ねる。見えてもない、どうでもいい事を訊くなんてばかばかしいけど、露天風呂からもあがって、テロリストらしくない穏やかな心持ちの僕と…不確定だけど、彼。今の空間が彼と出会って二番目くらいに平穏な気がする。そんなときくらいしか、ばかみたいな構ってちゃんをやってみることはできないのだ。
「そうですよ、夏の風物詩です。」
後ろでやけに分厚い母国語の本に目をやりながら…僕の記憶がそのまま今の通りあるなら、そうであろう連れは…ドス君は僕に正解を教えてくれる。正解、なんて紙っぺらのテストみたいだけど、それより何倍も居心地が良くて、眠たくて、外も暗かった。星は見えず、月明かりが夜空を支配している。そよそよと吹く涼風をすすきがよく表している。とても、すてきだ。
「僕達の故郷ではお目にかかれないよね。いいなぁ、日本人は。」
今日実際に陽炎を見たとき思った感想を、今見ている夜景との感想と絡み合わせて、多大な時差で講釈するように話す。実際、あんな不思議な景色を暑い日には見せてもらえる日本人達は、なんと贅沢しているのか。そう僕は叱責したくなる思いだった。嫉妬による叱責、浮気されたみたい。
「しかし日本の夏は嫌に蒸すでしょう。故郷の雪でもあっと溶けてしまう。」
ドス君は少し声を冷まして、まるでそれが日本に住みたがらない理由だとでも言うように僕に言って聞かせた。それは確かに的確だし、ここでは真白い雪にはお目にかかれない。僕の髪みたいな白い雪が好きだと言っていた彼なら、それはだいぶ堪えることを僕が知らずして誰が知ろう。
「ドス君、モスクワの雪の白色、好きだもんね。じゃあ、日本はだめだ。」
そう僕は自分の意見を捻じ曲げる。事実僕自身もそうは思っていなかった。ただ暢気なこの空気に囚われていたいと言う欲望から出た、ある種の排泄物。いや、そんな汚くはないけど、願望自体はあまり褒められたものじゃないと自分でわかっていた。
「分かって頂けて何より。」
声色だけでわかるくらい穏やかに微笑しているドス君が脳裏に浮かんだ。ドス君はこういうことが好きなのだ。自由意志を追い求める僕を、不自由に囚われさせる。支配欲、ってものが普通より強いのだろう。サディスティック思考は別にいいけど、それは少し困る。僕はもう不自由の骨頂だというのに。
「ドス君のことがまたひとつ知れて嬉しいよ。」
夏の満月に目をとらわれるのも飽き飽きした頃、僕はそう言いながらドス君の方を振り向く。持っていたあの分厚い本はもう机の上に虚しくも放り出され、こちらに少し寄って月を見ていた。その月を見る目と僕の目があったとき、得も言えぬ恍惚と、心臓のどくどくと打つ鼓動の速さを知った。とても、うぶな感覚だった。一瞬のことだったけれど。
「まぁ、ぼくばかりがあなたを一方的に知っていますからね。」
そう言いながら、ドス君は僕の足が放り出された縁側の方へすたすたと歩き出し、僕のちょうど右隣に腰を下ろす。縁側から上品に垂らされた足。とても骨張っていて、細くて、雪の色を感じさせた。色白という奴だった。親友という平等と、そこここに浮き出す不平等。こんな形をしているドス君が僕のリードを握っていると知られれば、たちまち爆笑の渦だろう。
「それも嬉しいけどね。」
そう呟きながら、ドス君の横顔に囚われた目を、そっと夜空に踊る月に向ける。いまだ煌々と夜空を照らし、まるで太陽に見合うようになりたい、なんて言いたげにぎらぎらと照っている。まるで僕のようだ。白で包んだ身も心も、あるひとつに溶かされて、絆されて、それを真似る。似ていないところまで瓜二つだ。
「ストーキングを所望ですか? ぼくは結構面倒ですよ。」
そうやってドス君は妖しく笑って見せる。妖の類のような艶笑さえも似合う、そのすっと通った鼻筋と薄く淡い色の唇、薄らに赤らんだ頰と長く艶のあるまつ毛。風呂上がりならではの、血色の通ったドス君。ああ、やっぱり綺麗だなとほとほと思う。それを月明かりが照らすので、僕はなおさら引き込まれる思いだった。
「もうしているようなものでしょ、それ。ストーキング以上の事もしてるのにさ。」
僕はそうやって笑って返す。本当はその笑顔に触れたり、触れられてみたりしたかった。けど、そんなことをねだれるほど仲が良いわけでもない。親友という関係が肉体関係を内包しているわけでないことぐらいは知っている。それがなおのことこの恋とも言えぬ穢れた心を引っ掻いた。くるしかった。
「ふふ、それもそうですね。では、今晩はその“ストーキング以上の事”でもしましょうか。」
そんな甘言にどくっと鼓動が波打つ。図星だった。してみたかった。しかしその誘いに乗れるほど強くもなかったし、断れるほど強くもなかったので、軽く受け流すつもりで返事を繕う。多分この思案さえ、ドス君は見破っているんだろう。そう思うと、知られてしまうような芝居を打った自身の大根役者ぶりにも嫌悪が湧くし、そんな思考回路をしてしまった自分も嫌悪したくなる。
「……いやに倒錯的な誘い方するなぁ、きみって意外と性豪だね。」
そういう言葉を口から放すとき、僕の顔をいつも愛想笑いが包む。まるで世界から遮断するみたいに、ぱあっと包まれる。その感触を今味わった。気持ちが悪かった。世界が僕を拒絶しているようなこの感触。ああ、いつになれば世界は僕を認め、抱き寄せてくれるんだろう。きっと、今世ではあるわけないけど。
「知ってます。あなただってそうでしょう。」
そう鬱に浸る思考を掻き消すように、ドス君は悪戯っぽく笑って僕を見やる。その眼差しだけで、僕は救われる思いだった。実際そうなのだ。救世主、と言えば大袈裟すぎると野次が飛ぶかも知れないけれど、僕の中でドス君はそれくらい大きな存在なのだ。
「そうだけどさ。だってきみ、きっと上手でしょ? 色んな人とぐっすり眠ってきたんだろうね。」
仄かな嫉妬を綯交ぜに、僕はまるで褒めそやす口調でドス君に答えを返した。たぶんこういう心内も見透かされている。そういう所にぞっこん惚れ込んでいるんだったりするんだが。まぁ、僕が何を思い何を考えていようと、ドス君の気持ちはわからない。それは変わりない真実で、その事が心底つまらなく感じた。そんな心根を知ってか知らずか、月は落ち、すすきは影も見せなくなる。
「上げて下げるなんて酷いですね。ぼくはあなた一筋ですよ。」
その言葉が宵闇にすっと浮き、溶けていった。あたかも女性を口説く様に、軽い口ぶりの、信憑性のない、そして魔性の文句。僕はドス君の唯一になりたかったのかもしれない。叶うはずがないんだけど。…叶ったその時は、僕はどうするんだろう。
「歯の浮くような冗談ばっかり。……まぁ、嬉しいんだけど。」
僕の声もドス君の口説き文句と変わらずに、甘ったるく溶けていった。ただ、それだけ。口先だけの、仄かな非日常。
熱のむせ返る、夏の宵だった気がする。