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顎先へ向かって流れ落ちてくる汗を、慧は手の甲で拭った。
慧は雑踏の中に立ち止まり、ショーウインドの中に飾られたカチューシャを見つめた。スワロフスキーが鏤(ちりば)められた、大きなカチューシャだ。
「お金は持った……、買えるよな」
稼いだバイト代は、七万円ジャスト。カチューシャは、六万円だ。
高校生カップルのプレゼントにしては、高すぎる。それは慧にも分かっている。だが、美緒は慧にとって特別な女性だ。どうしても、慧は美緒の笑顔を見てみたかった。
買うぞ。そう思っても、店の中に入れないでいる。ここは、慧達が普段出入りする雑貨店のような、安っぽい店ではない。ファッションにそれほど興味のない慧でも知っている、有名ブランドだ。
ショーウインドから店内を覗(のぞ)くと、スーツをピシッと身につけた店員が、一人一人、訪れる客に接客をしている。
高校生の慧が入って、相手にしてくれるだろうか。もしかすると、冷やかしだと思われて門前払いされるかも知れない。
こうした店に入ったことのない慧は、店の前で思案に暮れていた。
照りつける日差しは強く、アスファルトを焼き、熱気を大気中に放つ。熱い空気の膜に包まれ、慧は立っているだけで滝のような汗を流す。
(ダメだ、Tシャツ姿に、こんなに汗を掻(か)いてしまっては、中に入れない)
日を改めるか、そう思った瞬間、慧の目は流れる金色のベールを見た。ショーウインド越しに映る自分の姿。その姿を取り囲むように、金色のベールが流れている。
背後に感じる気配。振り向こうとした瞬間、首筋に冷たい何かが押し当てられた。
「ひゃっ!」
素っ頓狂な声を上げ、慧は飛(と)び退(の)いた。
「アハハハハ!」
振り返ると、白いワンピースを身につけた女性が、体をくの字にして笑っていた。柔らかな、長い金色の髪。アーモンド型をした、サファイア色の瞳。
「波(は)呂(ろ)さん……?」
突然現れたのは、那由多の妹、波呂だ。彼女は冷たいジュースのペットボトルを手にしており、それを慧の首筋に押し当てたのだろう。
「こんにちは、佐藤慧君♪」
波呂は輝くような笑顔を浮かべ、驚く慧の顔をのぞき込んでくる。常軌を逸した美女、とでも形容すれば良いのだろうか。まるで、有名絵師の描くイラストから、そのまま抜け出したかのようだ。
存在自体が、この世の理(ことわり)から浮いている。黛(まゆずみ)波呂は、見るものに違和感を感じさせる、そんな美女だった。
「何をしているの?」
波呂は、慧が入ろうとしていた店内を、ショーウインド越しに見つめる。
「もしかして、私にプレゼント?」
「え? いや、あの、イヤイヤイヤ」
ぶんぶんと、慧は首を横に振る。波呂は、意外そうに「そうなの?」と声を上げる。
「おい、波呂。馬鹿な事を言って慧を困らせるな」
その時、波呂の頭を那由多が小突いた。いや、その力は、小突いたというよりも、殴ったと表現した方が適切かもしれない。その場に蹲(うずくま)る波呂に、慧は近づこうとするが、那由多が手を上げて制した。
「いったぁ~~~!」
唇を尖(とが)らせた波呂は、キッと鋭い眼(まな)差(ざ)しで那由多を見上げる。だが、睨(にら)み付(つ)けられている那由多は涼しい表情で、その眼(まな)差(ざ)しを受け流していた。
「よ、何やってんだ?」
「それ、私が聞いた! 聞いてよ、慧君! 那由多ね、慧君をシカトして行こうとしていたのよ? 酷(ひど)いと思わない?」
「え?」
慧は那由多を見る。Tシャツにジーンズ姿の那由多は、底冷えのする眼(まな)差(ざ)しで、蹲(うずくま)る波呂を見下ろした。
「別に、シカトしようとしていたわけじゃない。凄(すご)く悩んでいたからな、邪魔しちゃ悪いと思っていたんだ」
「道向こうの日陰で、ジュース一本飲み終わる時間、ずっと見ていたのよ?」
「え? そんなにも長い時間?」
それは、慧も恥ずかしかった。五分か、十分か、往来で足を止め、慧はずっと店の前に立っていたと言うことになる。それだけ長い時間立っていれば、シャツも汗でビショビショになるはずだ。
「あの、また出直してくるよ……」
せめて、もう少し良い服を着てきた方が良いだろう。高級ブランド店に入るには、慧はあまりにも場違いすぎた。
「なに言ってんだよ、また来るのは面倒だろう? ほれ、さっさと行こうぜ? どうせ、店の面構えに圧倒されて足がすくんでいたんだろう?」
那由多は歩き出し、店の前に立った。
「一緒に行ってくれるの?」
「悩んでいる友人は放っておけないだろう?」
「完全にシカトして行こうとしていたのに」
波呂の声は完全に無視し、那由多は扉の前に立った。すると、店員が駆けつけ、内側からドアを開けてくれる。
「慧、行くぞ」
「うん……」
那由多に促され、慧は店内に入った。
外から見るよりも、遙かに広い店内だった。いや、これは店内と表現するよりも、ショールームと言った方が適切だろう。
大理石の床に、高い天井。ショールーム内の所々に棚が置かれ、そこにはバッグや靴、財布などが陳列されている。奥の方には、服が置かれており、フィッティングルームも窺えた。
店内には爽やかな柑橘系の匂いが漂い、優雅なクラシックが流れていた。
「あ~~~! 涼しい! 人間界の夏は、まるで地獄ね! 地獄! 涼しいここは、エデンの湖畔みたい!」
波呂は意味の大(おお)袈(げ)裟(さ)な叫び声を上げながら、両手を広げて冷房の吹き出し口の真下に立った。
「慧、波呂は放っておいて、用件を店員に」
堂に入ってる那由多に言われるまま、慧は近づいてきた店員に用件を告げた。
「畏(かしこ)まりました、少々お待ちください」
店員は恭(うやうや)しく頭を下げ、すぐに奥へと引っ込む。
「鹿島へのプレゼントか?」
「うん……。初めて、美緒さんが目を輝かせて、素敵って言っていた物だから。少し高いけどさ、バイトして、プレゼントするんだ」
「…………」
那由多は応えない。寂しそうな眼(まな)差(ざ)しで慧を見つめ、店員が消えていった白い扉を見つめた。いつもは柔らかい物腰だが、今の那由多からは、少し硬質的な雰囲気が感じられる。
「やっぱり、止めた方が良いかな? 重い男だって思われちゃうかな?」
慧も、那由多と同じ方向を見る。同じ方を向いてはいるが、たぶん、那由多と慧は見ている物が違うのだろう。
「…………いや、良いんじゃないのか? きっと、喜ぶと思う。お前の気持ちが籠もっている品だ。あいつ、大事にすると思うよ」
なら、どうしてそんなに悲しそうな表情をするのだろうか。那由多の笑顔を見て、慧はそんな事を思った。
「お客様、お待たせしました。こちらが、ショーウインドに展示してある物と同じ、カチューシャでございます」
傷が付かないように、白手袋をした店員が、純白の箱に入れられたカチューシャを持ってくる。
「わぁ……」
思わず慧は感嘆の声を上げた。
照明を受けて輝くスワロフスキーは、目が眩(くら)むほどの輝きを放っている。思わず伸ばしかけた手を、慧は止めた。なんだか、あまりにも美しすぎて、自分が触れることが躊(ため)躇(ら)われた。
「あの、これをください! お金ならあります!」
食いつき気味に言った慧に、店員はクスクスと笑う。
「プレゼントですか? 包装はどういたしましょうか?」
「はい、プレゼントです! 可愛く包装してください。お願いします!」
支払いを終え、慧達はショールーム内にあるソファーに腰を下ろし、冷たい麦茶を飲んでいた。
「凄(すご)いお店だね。まさか、買い物をしてお茶を出されるなんて」
「こういう所じゃ、これが普通だろう? もっと太客になると、別室へ通されたりするんだぜ?」
「那由多君、詳しいんだね」
「まあ、いろいろとあってな。何度かこういう店には来ているんだ」
「殆(ほとん)どが付き添いだけどね」
波呂はリラックスした様子で、深々とソファーに体を埋める。長い手を伸ばし、ガラステーブルの上に置かれたボウルから、宝石のような丸く大きなゼリーを手にした。
「ハハ、おいしそ」
赤いゼリーを、波呂は口の中に放る。
久しぶりに見る那由多と波呂を見て、慧は頬(ほお)を緩めた。
「那由多君は、本当にタイミング良く現れるよね。美緒さんに告白された日も会ったし、今日だって、プレゼントで買えるかどうか悩んでるときに来てくれた」
「たまたまだよ。本当に、偶然だよ」
「そ、気にしないで。本当に偶然だから」
那由多の言葉に、波呂も何度も頷(うなず)いて同意する。
那由多と波呂。二人は双子の兄妹と言うが、あまり似ているように思えない。だけど、不思議と周りは違和感なく二人が兄妹だと認識している。慧も、そう認識しているが、よくよく見ると、二人が似ている要素は微(み)塵(じん)もない。
「俺と波呂の事は、深く考えない方が良いぜ」
心を見透かしたように、那由多は笑いながら言った。
「うん……」
二人の関係がどうであろうとも、彼らが良い人には違いない。手にした麦茶の琥(こ)珀(はく)色(いろ)の水面を見ていると、店員が包装されたカチューシャを持ってきた。
「お待たせいたしました」
高価そうな黒い紙袋。その中を覗(のぞ)くと、赤く可(か)愛(わい)らしくラッピングされた箱があった。
「ありがとうございます」
慧は大事そうに受け取ると、店員に礼を述べた。そして、再び灼(しやく)熱(ねつ)地獄の人(にん)間(げん)界(かい)へと出た。
「那由多君も波呂さんも、ありがとう。本当に助かったよ」
「良いの良いの、気にしないで。それよりも、そのプレゼント、いつ上げるの?」
波呂に問われ、慧は答えに困る。手にしたカチューシャを大事そうに胸の前で抱え、慧は「分からない」と答えた。
「ええ? せっかくのプレゼントなのに、上げないの?」
「上げるよ。だけど、これは大切なプレゼントだから、僕たちにとって、特別な日に上げたいと思って。月末にある」
「夏祭り、か?」
先に那由多に言われてしまった。慧は「うん」と頷(うなず)く。
「そう。まだ誘っていないんだけど、その夏祭りで花火を見ながら渡せたら良いなって……」
「慧君、それって……」
何かを言いかけた波呂を、那由多が止めた。
「…………そうだな。きっと、鹿島は貰(もら)ってくれる。頑張れよ」
「うん、ありがとう、二人とも」
那由多は慧の肩を叩(たた)くと、駅と反対側に向かって行ってしまった。
力強い手だった。まるで、慧を励ますような、応援するような感じだった。
この時、慧は波呂が言いかけた事の続きを気にしなかった。知ろうともしなかったし、記憶の片隅にしか残っていなかった。
波呂が言いかけた言葉。それは、きっと夏祭りの日に起こる出来事を、予見した物だったのだろう。
慧がその事を知るのは、もっともっと後の話だ。
その夜。健介から連絡があった。
「オレオレ! なあ、慧! 明後日の月曜日、遊園地でダブルデートだ! ななの了承も、鹿島の了承も得ている! 後はお前だけだ!」
テストが終わった後、健介はダブルデートをしようと言っていた。忘れていたわけではないようだ。ちょうど、その日はバイトが入っていない。答えは『YES』だった。
「決まりだ! じゃあ、また詳細は後で伝えるから! 鹿島には、慧から連絡入れといてくれ」
言いたいことだけを話し、健介は通話を切ってしまった。全くと思いながらも、慧は健介の行動力に助けられている事を感じていた。
「遊園地か、楽しみだな」
机の上に置いてあるプレゼントを見つめながら、慧はベッドに横になった。すぐに美緒に連絡を入れ、慧は明後日のデートに思いを馳(は)せた。