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一九三九年、春。
町外れの田園の道。
春になると、その一本道は桜の並木となります。
風が吹くたび、花びらが静かに田んぼへと落ちてゆきました。
その並木の下、濃い色の木のベンチに、桜色の瞳をした一人の少年が腰掛け、一冊の本を開いておりました。
「なに読んじゅーが?」
好奇心旺盛な少女・朝倉 春花は、少年にそう声をかけました。
桜並木の下で本を読んでいた少年は、少し驚いたように顔を上げます。
「……詩集です。」
「詩?面白いが?」
春花はそう言って、少年の隣に腰を下ろしました。
「はい。詩集を読んでいると、なんだか心が落ち着くんです。」
彼は、はにかんだようにそう言います。
「えいことやね。お気に入りの詩ってどれなが?」
「……これです。」
春花は、彼の差し出した詩集のページを覗き込みました。
『花びらひとひら、掌に落ちぬ
風にのせて、もし君に届かばと
言葉にならぬ思ひを
そっと紙に閉じ込めけり
桜の木陰にて、光と影の間に
笑みたる君の声、心に触れぬ
来年もまた、ここにて会へまするや
いまだ見ぬ明日を、花と共に夢みん』
それは、とても素敵な詩でした。
「素敵な詩やねゃ。私も心があったまる気する」
「……そうだと、僕も嬉しいです。」
彼の口角が、微かに上がります。
「そういうたら、まだ名前聞いちょらざったわ。名前、なんて言うが?」
「新美 桜と申します。」
彼は“新美 桜”と名乗りました。
「綺麗な名前やねゃ。私の名前は、朝倉 春花ちや。“春”に“花”って書くがよ。春の花言うたら…桜!一緒やねゃ!」
しまった、話しすぎた……。
春花はそう思い、慌てて桜の顔を伺いました。
すると桜は、ふっと微笑みました。
「……ふふ、そうですね。同じです。」
春花は、自分が先走ってしまったことと、初めて見る桜の笑い顔に、耳が熱くなるのを感じます。
気恥ずかしさを紛らわせるように、春花は話題を変えました。
「名前の由来らあはあるが?」
桜はゆっくりと桜の木を見上げ、静かに言いました。
「……桜、母が好きなんです。だから、僕の名前も“桜”なんです。僕を産むまでの入院中は、桜が見える病室にしてもらっていたとか。僕も桜が好きなんですけどね。」
春花は、横顔の桜の瞳を見つめました。
横からでも分かるほど、その瞳は澄んでいて綺麗でした。
きっと、優しく大切に育てられたのだろう――そう思えるほどに。
「……桜くんの瞳は、桜みたいでまっこと素敵やねゃ。」
桜は桜の木から視線を下ろし、春花の目を見ます。
けれどすぐに視線を逸らしました。
「……初めて、言われました。ありがとうございます。」
桜の耳は、微かに赤く染まっていましたが、春花は気付きませんでした。
「あの、差し支えなければ教えて頂きたいのですが……。春花さんは、高知の方なのですか?……その、土佐弁をお使いなっておられるので。」
桜は、おずおずと尋ねました。
春花は、桜とは対照的に明るい声で答えます。
「そうそう、言い忘れちょったね!ついこの間、この町に引っ越してきたが!」
「そうだったのですか。宜しければ後日、僕がこの町を案内いたしましょうか?」
その言葉に、春花の表情はぱっと明るくなりました。
「たまるか〜!」
二人は、そのまま楽しい昼のひとときを過ごしました。
ふと、桜が腕時計を見ます。
「……あ、では、僕はここで失礼します。」
桜は持っていた詩集を閉じ、ベンチから立ち上がりました。
春花は思わず、桜の空いている片手を取ります。
「……ちっくと待って、桜くん。」
桜は、春花の突然の行動に驚いたように、少しだけ目を見開きました。
「……はい、どうされましたか?」
春花は小さく深呼吸をして、はっきりと伝えます。
「明日も、会えるかえ?」
桜は柔らかく微笑んで言いました。
「……はい、もちろんです。」
春花は、桜の手をぱっと離しました。
「じゃあ、また明日ね!」
「はい。また明日。」
桜は軽く会釈をして、並木道を歩き出しました。
春花は、その背中をしばらく見送っていました。
風が吹くたび、桜の花びらがひらひらと舞い落ちます。
まるで二人の出会いを、そっと祝っているかのように。
春花はふと、自分の手のひらを見ました。
つい先ほどまで、桜の手を掴んでいた手です。
「……明日も、会えるでね。」
小さく呟くと、胸の奥が少しだけくすぐったくなりました。
そのとき、風に乗って一枚の花びらが舞い落ちてきました。
春花は、そっと手を差し出します。
花びらは、静かに春花の手のひらに落ちました。
まだ名前を知ったばかりの少年。
けれどその日から、
春花の春は、少しだけ特別なものになったのです。
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