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今朝も変わらず、満員の列車に揺られる。
身体を押し込まれるような車内で、私はつり革につかまりながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
ビルが流れ、住宅街が流れ、見慣れた景色が次々と後ろへ消えていく。
(こういう日常が、辛いことを忘れさせてくれるのかも)
昨日の夜、あんなことがあったのに、電車に乗って会社へ向かっていると、日常に戻ったような気がした。
私はガラスに映った自分の顔を覗き込む。
目を少し大きく開いて、腫れの状態を確かめた。
(大丈夫。メイクでうまく隠せてる)
目立っていないことに、ほっと息をつく。
(誰にも心配をかけたくない)
電車が大きく揺れる。
私は手すりを握り直し、到着までの間、何も考えずに電車の揺れに身を任せた。
「おはようございます。瞳子さん」
いつも通り、朝倉くんと鉢合わせる交差点。
信号待ちをしている私に、いつもの爽やかな声がかかった。
「おはよう、朝倉くん」
顔を上げた瞬間、昨晩の彼の温もりを思い出してしまう。
胸が、ドキンと大きく脈打つ。
(……ダメダメ)
私はすぐに気持ちを切り替えた。
ここは会社へ向かう道。
彼は私の部下で、私は彼の上司なのだ。
昨晩のことを引きずってはいけない。
そう自分に言い聞かせながら、いつも通りに彼を見上げる。
朝倉くんは、いつもと変わらない綺麗な笑顔を浮かべていた。
(昨晩の朝倉くんは……とても紳士だった)
そう思うと、胸の奥がじわりと温かくなる。
私が泣き止むまで、彼は電柱になってくれた。
冗談みたいなことを言いながらも、私が泣いている間は静かに抱きしめていてくれた。
腕の力を抜くこともなく、でも、それ以上何かをしようとすることもなかった。
私が泣き止んだあとも、温かい柚子はちみつティーをおごってくれた。
そして、最寄り駅まで送ってくれた。
手を繋いだり、肩を組んだりすることもない。
ただ、付かず離れずの距離で、ずっとそばにいてくれた。
龍彦にフラれて弱っていた私につけ込むことなど、一切なかった。
(彼は──信じられる)
昨日までの私は、朝倉くんの言動をどこか警戒していた。
距離感がおかしいし、私への執着も強い。
何を考えているのかわからないところもある。
夏目莉央
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くま🐻☁️
12
けれど、昨日の彼を見て、少しだけ考えが変わった。
少なくとも、私が弱っている時に無理やり踏み込んでくるような人ではない。
今回のことで、私の中の彼への信用度は、かなり上がった気がする。
そんなことを考えていると、朝倉くんにじっと見つめられていることに気がついた。
「ど、どうかした?」
鼓動が落ち着かず、咄嗟に目を逸らしてしまう。
「瞳子さん、目に充血が少し残っていますね。これを使ってください」
そう言って、真新しい小さな箱を手渡された。
「え?」
受け取って確認すると、目薬だった。
箱には『白目の充血を解消します』と薬効が記されている。
(うわっ! バレてたっ)
私は思わず目元を手で隠した。
「あ……ありがとう。治ったと思ったけど、やっぱり目立つかな?」
誤魔化すように前髪を直して、少しでも目を隠そうとする。
そして、ちらっと朝倉くんの顔を覗いた。
彼はものすごく柔らかな微笑みを浮かべて、私を見ていた。
「瞳子さんの瞳は、綺麗な薄茶色です」
「え?」
「白目にも濁りはありません。普段の瞳を知っているので、僕が気づいてしまうだけかもしれません」
(へっ! 普段から見られているの……⁈)
思わず、頬に熱がこもった。
普段の私を知っている。
そんな言葉を、真正面から言われると、どうしても意識してしまう。
だけど──。
昨日までなら、ゾクッと背筋が冷えそうなセリフだった。
それが今日は、不思議なくらい有難く感じた。
私が泣いていたことも、目が腫れていることも、彼はちゃんと気づいてくれている。
李人だけじゃない。
朝倉くんも、私を心配してくれている。
(彼は……とてもありがたい存在なんだ)
そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「ありがとう。私、いつも朝倉くんにもらいっぱなしね」
「そんなことはありません」
「ううん。昨日だって助けてもらったし、この目薬ももらったし」
私は目薬の箱を見つめる。
「今度、ランチをおごらせてね」
もらいっぱなしは、私の性に合わない。
何かをしてもらったら、それに見合うものを返したい。
そう思っていたのに──。
「要りません」
「え?」
意外な言葉に、私は顔を上げた。
朝倉くんは頬を緩ませている。
「僕はずっと前に、瞳子さんから大切なものをもらいましたから」
「……私から……何を?」
身に覚えのない私は、思わずポカンとしてしまった。
そんな私を見て、朝倉くんは目尻を下げ、小さく笑った。
けれど、それ以上は何も言わない。
そして、信号を確認するように前を向いた。
「青に変わりました。行きましょう」
「あ……うん」
朝倉くんが先に横断歩道へ歩き出す。
私はその背中を見つめながら、ぼんやりと考えた。
(私が朝倉くんにあげたものって、何だろう)
いくら考えても、思い当たるものがない。
(ああ、きっと学生のころ取引していた株の収益のことだ)
私に考えられるのは、それしかなかった。
学生時代、彼が株で利益を出したことがあった。
もしかすると、あの時のことを言っているのかもしれない。
(今、彼はそのお礼をしているのかな)
そう考えると、目薬を受け取ることにも抵抗がなくなった。
「……ありがとう」
小さく呟いて、目薬の箱をバッグにしまう。
前を歩く朝倉くんの背中を、もう一度見る。
妙に広い背中。
昨日はあんなに頼もしく感じたのに、今朝はなぜか少しだけ意識してしまう。
私はそんな自分に気づかないふりをして、彼の後を追うように歩き出した。