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後日談 返事の庭に、恋人たちの朝が咲く
神杯の残響が静まり、沈黙冠が月虹へ書き換えられてから、三週間が過ぎた。
冬木の街は、何事もなかったかのように冬の終わりへ向かっている。
川沿いの桜並木には、まだ花はない。
けれど枝先には小さな蕾が膨らみ始め、朝の光を受けるたびに、ほんの少しだけ春の気配を滲ませていた。
穂群原学園では、受験と卒業の空気が濃くなっている。
教室の黒板には、卒業式までの日数が誰かの手で書かれていた。
それを見て騒ぐ者もいれば、急に寂しそうな顔をする者もいる。
放課後の廊下では、後輩たちが先輩への寄せ書きを隠すように運んでいた。
遠坂衛二は、自分の席でそれをぼんやり見ていた。
平和だと思う。
不安定な霊脈も、神杯の欠片も、沈黙冠の問いも、今は表に出ていない。
もちろん、すべてが完全に消えたわけではない。
返事の庭はまだ柳洞寺の地下にある。
月虹の輪も、庭の奥で静かに浮かんでいる。
神杯戦争の残響も、遠坂家とアインツベルンの観測下に置かれている。
だが、あの頃のように毎日何かに追われているわけではなかった。
普通に授業を受け、普通に弁当を食べ、普通に帰る。
その普通が、以前よりずっと大切に思えた。
『エイジ』
耳元で、アストルフォの声がした。
霊体化しているので、周囲には聞こえない。
『今、考えごとしてた?』
「してた」
『何考えてたの?』
「平和だなって」
『いいことだね』
「ああ」
『でも、エイジは平和でも考えすぎるから、昼休みはちゃんとご飯食べること』
「まだ昼休みじゃない」
『予約』
「甘やかし予約みたいに言うな」
『ご飯確認予約です』
衛二は小さく笑った。
周囲から見れば独り言に近い。
しかし、最近は柳洞悠馬を筆頭に、衛二の周りの数人はそれをあまり気にしなくなっていた。
柳洞は隣の列から視線だけ寄こす。
「また話してるのか」
「独り言だ」
「もうその言い訳は無理がある」
「だよな」
柳洞は呆れたように息を吐き、それから小さく笑った。
「まあ、元気そうで何よりだ」
その言葉に、衛二は少し驚いた。
「柳洞がそういうこと言うの、珍しいな」
「寺の息子だからな」
「便利な言葉だな、それ」
「使いやすい」
柳洞は平然と答えた。
アストルフォが霊体のまま嬉しそうに言う。
『柳洞、やっぱりいい人だね』
「そうだな」
「何か言われた気がする」
「気のせい」
「そうか」
柳洞は追及しなかった。
その距離感が、衛二にはありがたかった。
◇
昼休み。
屋上の風は、少しだけ春に近づいていた。
冬の鋭さはまだ残っている。
けれど、肌を刺すほどではない。
衛二とアストルフォは、いつもの場所で弁当を広げていた。
アストルフォは認識阻害をかけて実体化している。
以前なら警戒しながらの昼食だったが、今では少しだけ自然になった。
「エイジ、唐揚げ食べた?」
「食べた」
「卵焼きは?」
「食べた」
「お米は?」
「食べてる」
「よし」
アストルフォは満足そうに頷く。
衛二は弁当箱を見下ろしながら苦笑した。
「監視が細かい」
「恋人なので」
「それ、まだ使うんだな」
「使います」
アストルフォは胸を張った。
恋人。
その名前にも、二人は少しずつ慣れてきた。
最初の頃は、言うたびに顔が熱くなっていた。
今でも照れる時はある。
けれど、その照れは不安とは違う。
温かいものだった。
アストルフォは箸を置き、少し真面目な顔になる。
「エイジ」
「何?」
「卒業したら、どうするの?」
「進路の話?」
「うん」
衛二は空を見る。
薄い雲が流れている。
「遠坂家の後継ぎとして、魔術の管理は続ける。大学にも行くと思う。母さんは、魔術師としての勉強だけじゃなくて、普通の学びも続けろって言ってる」
「リンらしい」
「父さんは、ちゃんとご飯が食べられる生活なら何でもいいって」
「シロウらしい」
「アストルフォは?」
「ボク?」
「ああ。これから、どうしたい?」
アストルフォは少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑う。
「エイジ、ボクに聞いてくれるんだね」
「恋人だからな」
言ってから、衛二は少し照れた。
アストルフォはもっと照れた。
「エイジが言った……」
「言った」
「もう一回」
「言わない」
「えー」
頬を膨らませるアストルフォを見て、衛二は笑った。
アストルフォはしばらく嬉しそうにしていたが、やがて真剣に答えた。
「ボクは、エイジの隣にいたい」
「うん」
「でも、それだけじゃなくて、ボク自身もこの時代のことをもっと知りたい。学校とか、街とか、お店とか、スマホとか、シロウの料理とか、リンの魔術とか、柳洞寺のこととか」
「結構多いな」
「いっぱいあるよ」
アストルフォは空へ手を伸ばした。
「ボク、英霊だけど、今ここにいるから。エイジの恋人としてだけじゃなくて、ボクとして、もっと色んなものを見たい」
衛二はその言葉を静かに受け取った。
恋人になったからといって、相手のすべてを自分のものにするわけではない。
アストルフォには、アストルフォ自身の世界がある。
それを大切にしたいと思った。
「じゃあ、一緒に見よう」
衛二は言った。
「俺も、この街をまだ全部知ってるわけじゃないし」
「デート?」
アストルフォがぱっと顔を輝かせる。
衛二は一瞬言葉に詰まった。
「……そうなるのか?」
「なる!」
「じゃあ、そうだな」
「やった!」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
その笑顔は、沈黙冠の夜を越えた後でも変わらない。
いや。
少しだけ変わった。
前よりも、深い。
明るいだけではなく、怖さも知って、それでも笑っている顔。
衛二はその笑顔が好きだった。
「エイジ」
「何?」
「今、好きって顔してた」
「顔に出てたか」
「出てた」
「じゃあ、言う」
衛二はアストルフォを見る。
「好きだよ、アストルフォ」
アストルフォは一瞬で真っ赤になった。
「急に言うの、ずるい……」
「顔に出てたなら同じだろ」
「声で聞くと違うの!」
アストルフォは照れながらも、とても嬉しそうだった。
「ボクも好き、エイジ」
屋上の風が、二人の間を通り抜ける。
その言葉は、もう沈黙に奪われない。
◇
その日の放課後、二人は柳洞寺へ向かった。
衛二、アストルフォ、柳洞悠馬。
境内では、宗真が落ち葉を掃いていた。
衛二たちを見ると、穏やかに頭を下げる。
「よくいらっしゃいました」
「返事の庭の様子を見に来ました」
衛二が言うと、宗真は頷いた。
「今日は穏やかです」
柳洞が鐘楼を見上げる。
「最近、鐘が勝手に鳴らなくなったな」
「鳴る必要がなくなったのかもしれません」
宗真は静かに言った。
「あるいは、鳴る時を選べるようになったのかもしれません」
衛二はその言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
返事の庭へ続く石扉は、もう以前のような禍々しさを持っていない。
もちろん、簡単に開けてよい場所ではない。
今も封印と結界は必要だ。
だが、そこから感じるものは恐怖だけではなかった。
静けさ。
そして、待つ気配。
宗真が扉の前で手を合わせる。
ユイとミライは先に地下で観測をしているらしい。
石扉が開く。
衛二とアストルフォは手を繋ぎ、階段を下りた。
柳洞はいつものように、境内側で待つ。
「行ってこい」
「ああ」
「戻ってこい」
「もちろん」
アストルフォが振り返って言う。
「柳洞、今度は返事の庭、外側だけでも見に来る?」
柳洞は少し考えた。
「いつか」
「うん。いつかでいいよ」
「急かさないんだな」
アストルフォは笑った。
「待つの、覚えたから」
柳洞は少しだけ目を伏せた。
「そうか」
◇
返事の庭は、静かだった。
白い花々は柔らかく揺れている。
花弁には、たくさんの返事が刻まれていた。
ありがとう。
ごめん。
おかえり。
聞こえた。
忘れない。
ここにいる。
待っている。
急がなくていい。
また呼ぶ。
声がなくても。
届かなくても。
火を囲む。
黒い丘だった場所は、もう黒くない。
夜色の丘。
その上に、淡い月虹の輪が浮かんでいる。
沈黙冠だったもの。
今は、返事が生まれる前の静けさを守る月虹。
ユイとミライは、その丘の前にいた。
ユイは記録を取り、ミライは花々の状態を確かめている。
「来たのね」
ユイが振り返る。
「状態は?」
衛二が尋ねると、ユイは微笑んだ。
「安定しているわ。以前みたいに、願いを押し潰したり、返事を奪ったりはしていない」
ミライも頷く。
「ただ、時々新しい蕾が生まれる」
「新しい蕾?」
「返事になる前の感情。まだ言葉にならないもの。以前なら未答区域へ沈んでいたものが、今は月虹の輪の下で静かに待てるようになっている」
衛二は夜色の丘を見る。
そこには、小さな蕾がいくつもあった。
まだ開かない。
でも、枯れてもいない。
待っている。
アストルフォが衛二の手を握った。
「よかったね」
「ああ」
ミライが二人を見る。
「あなたたちが残した火が、庭の底にある」
「火……」
衛二が呟く。
ユイが頷く。
「返事の火種。あれがあるから、庭はすぐに答えを求めなくなった。言えないものを、言えないまま置けるようになった」
アストルフォは夜色の丘へ近づいた。
そして、小さな蕾の前にしゃがむ。
「急がなくていいよ」
彼は優しく言った。
「でも、消えなくていいからね」
蕾が、ほんの少しだけ光った。
衛二はその隣にしゃがむ。
「聞こえた」
蕾は開かない。
けれど、根元に淡い光が灯る。
返事を急がせない返事。
それが今の庭にはできる。
衛二は静かに息を吐いた。
本当に、変わったのだ。
◇
庭の奥には、小さな泉があった。
無窮剣界が閉じた後に残った、硝子の泉。
水面には、夜空と月虹が映っている。
昼でも、夜でもない。
そこだけが、永遠に境界の時間を宿しているようだった。
アストルフォは泉を覗き込む。
「きれい」
「無窮剣界の欠片みたいなものらしい」
ユイが説明する。
「衛二くんの内的世界と返事の庭が重なった痕跡。でも危険なものではないわ。むしろ、庭の安定に役立っている」
ミライが言う。
「剣の設計図が、今は返事の道筋を支えている」
衛二は泉を見る。
水面の下に、星座のような線が流れていた。
剣ではない。
返事の道。
誰かが言葉を見失った時、声を失った時、宛先を見失った時、その道がほんの少しだけ支えるのだろう。
アストルフォが衛二を見上げる。
「エイジの世界が、ここに少し残ってるんだね」
「そうみたいだ」
「寂しくない?」
「不思議だけど、寂しくはない」
「どうして?」
衛二は少し考える。
そして答えた。
「一人で置いてきたものじゃないから」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
「うん」
「アストルフォと、みんなと置いたものだから」
「うん!」
その笑顔を見て、衛二も笑った。
◇
遠坂邸に戻る頃には、夕食の時間が近づいていた。
士郎は台所で鍋を見ている。
凛はリビングで書類を整理していたが、衛二たちが帰るとすぐに顔を上げた。
「庭は?」
「安定してる」
「そう」
凛は少しだけ安心したように息を吐いた。
「なら、今日はもう魔術禁止」
「何もしてない」
「庭に行った時点で精神的負荷はあるの。禁止」
「はい」
アストルフォが元気よく手を挙げる。
「リン、ボクが監視します!」
「任せるわ」
「任されました!」
衛二は苦笑した。
「最近、母さんとアストルフォの連携が強い」
「いいことでしょ」
凛は当然のように言った。
アストルフォも頷く。
「エイジを守る同盟!」
「俺の自由」
「守られる自由もあるわよ」
「母さんの理屈は強い」
士郎が台所から笑った。
「夕食ができるぞ」
その声で、空気が一気に日常へ戻る。
食卓には、温かい料理が並んだ。
味噌汁。
煮物。
焼き魚。
炊きたてのご飯。
アストルフォは目を輝かせる。
「シロウのご飯!」
「今日はたくさん食べろ」
「食べます!」
衛二の皿にも、なぜか少し多めにおかずが乗せられた。
アストルフォがやったのかと思ったが、士郎だった。
「父さんまで」
「今日は庭に行ったからな」
凛が横から言う。
「食べなさい」
「はい」
衛二は箸を取った。
食卓の湯気が、胸に染みる。
戦いが終わっても、日常は勝手には戻らない。
こうして誰かが料理を作り、誰かが食べろと言い、誰かが隣で笑うことで、少しずつ戻ってくるのだ。
アストルフォが衛二の横で小さく言う。
「エイジ」
「何?」
「今日も帰ってきたね」
「ああ」
「おかえり」
衛二は少しだけ笑う。
「ただいま」
そして言った。
「アストルフォも、おかえり」
アストルフォは嬉しそうに頷いた。
「ただいま」
◇
夜。
衛二の自室。
アストルフォはいつものように、少しだけ部屋に来ていた。
凛の決めた門限はある。
それでも、寝る前の少しの時間だけ、二人は一緒に過ごすことを許されている。
窓の外には、薄い月が出ていた。
衛二は机の引き出しからメモ帳を取り出す。
恋人用約束書。
最後のページには、最終決戦の朝に書いた二行がある。
――すべてを抱えても、返事を続ける。
――一人で抱えない。二人で続ける。
アストルフォはそれを見て、静かに微笑んだ。
「これ、これからも書く?」
「書くか」
「うん。約束は増えるから」
「例えば?」
アストルフォは少し考えた。
そしてペンを取る。
新しいページに、ゆっくり書いた。
――平和な日も、手の力加減を聞く。
衛二は笑った。
「そこなんだ」
「大事!」
「確かに」
衛二もペンを取る。
その下に書く。
――普通の日の返事も、大事にする。
アストルフォは嬉しそうに頷く。
「いいね」
「普通の日の返事って、戦ってる時より忘れやすい気がするから」
「おはようとか?」
「うん」
「おかえりとか?」
「ありがとうとか」
「好きとか」
衛二は少し照れた。
「そうだな」
アストルフォはにこにこしている。
「じゃあ、今言う?」
「アストルフォが言いたそうだな」
「言いたい」
「じゃあ聞く」
アストルフォは衛二の手を取った。
「好きだよ、エイジ」
真っ直ぐな言葉。
何度聞いても、胸が温かくなる。
衛二も手を握り返す。
「俺も好きだよ、アストルフォ」
アストルフォは幸せそうに目を細めた。
「普通の日の返事、できたね」
「ああ」
衛二はメモ帳を閉じる。
アストルフォは少しだけ身を寄せた。
「ぎゅーしていい?」
「いいよ」
アストルフォが抱きつく。
衛二も抱きしめ返す。
「力加減は?」
「ちょうどいい」
「よかった」
「エイジは?」
「ちょうどいい」
二人は静かに笑った。
沈黙冠と戦った日々は、もう過去になりつつある。
けれど、あの日々で見つけたものは、今も二人の手の中にある。
声がなくても。
名前が隠れても。
相手が見えなくても。
返事が消えそうでも。
火を囲む。
一人で抱えない。
二人で続ける。
アストルフォは衛二の額にそっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
柔らかな声。
「ボクはエイジのサーヴァント。そして、エイジの恋人。平和な日も、怖い日も、普通の日も、エイジへ返事を続ける。おはようも、おかえりも、好きも、ちゃんと言う」
衛二は目を閉じる。
「俺はアストルフォのマスターで、アストルフォの恋人。平和な日も、怖い日も、普通の日も、アストルフォへの返事を大事にする。言えない時は待つ。言える時は言う。好きが増えたら、ちゃんと伝える」
アストルフォは嬉しそうに笑う。
「今、増えた?」
「増えた」
「ボクも」
二人は窓の外の月を見た。
そこに月虹は見えない。
でも、見えないからといって、ないとは限らない。
夜と朝の境目に、静かに架かる淡い虹。
返事が生まれる前の沈黙を、終わりにしないための光。
衛二はアストルフォの手を握った。
アストルフォも握り返す。
強すぎず。
弱すぎず。
ちょうどいい力で。
明日も、朝が来る。
きっと、普通の日が来る。
そして二人は、その普通の日の中でまた返事をする。
おはよう。
いってらっしゃい。
おかえり。
ありがとう。
好きだよ。
それらの小さな返事が、返事の庭のどこかで、また一つ花になる。
#異能力バトル
聖杯
523
聖杯
1,207
7
コメント
1件
読み終わりました……すごく、じんわりと温かくなりました。 屋上で「好き」って伝え合うシーンとか、夜の部屋で抱きしめ合う「力加減」を聞くところとか、もう、日常が宝物に見える感じが伝わってきて。戦いを越えたからこその、静かな幸せが本当に綺麗でした。返事の庭に新しい蕾が咲く描写も、二人の“返事”がまた一輪咲くんだなって思えて。 ああ、よかった。本当に、救われた気持ちになりました。