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彼女の中にいる彼が、俺を冷たく見下ろしている。
少しだけ高い鼻筋。伏せた睫毛が落とす、計算された陰影。
俺は指先で自分の頬をなぞる。昨夜、ひまちゃんが愛おしそうに何度も唇を寄せた場所だ。
けれど、彼が口づけたのは俺の皮膚じゃない。俺が必死に模倣し、塗り固めたあいつの残像だ。
「……っ、はぁ……」
俺は洗面台に突っ伏し、肺に溜まった重苦しい空気を吐き出した。
喉の奥がヒリつく。彼女の元彼が好んでいたという強い煙草を無理に吸い続けているせいだ。俺は本当は、煙草の匂いなんて大嫌いだったはずなのに。
ひまちゃんは俺の努力を、あまり知らない。
俺が夜な夜な、あいつの古い SNS や写真を漁り、笑い方の癖や、コーヒーの砂糖の数、歩く時の歩幅までをノートに書き留めていることを。
惨めだった。
生きている俺が、もうこの世にいないやつに勝てないなんて。
どれだけ背伸びをしても、彼女の瞳の奥に映るあいつは、いつも思い出の中で美しく補正され、聖域に鎮座している。
「……死んじゃえば、勝ちだよね」
ポツリと溢れた独り言が、タイルに跳ねて消える。
あいつは死ぬことで永遠の理想になった。
それに対して俺は、生きて、呼吸をして、醜く老いていく。
この生々しい俺という存在が、彼女にとってはいかに邪魔なノイズであるか。それを思い知るたび、胸を掻きむしりたくなるような劣等感に襲われる。
「すち、まだ起きてんの?」
扉の向こうから、ひまちゃんの声がした。
俺は反射的に背筋を伸ばし、表情を殺す。
彼女の中の自分をあいつに作り替え、仮面を貼り付ける。
「あぁ起きてる、……今行くな」
声を低く、少しだけ気怠げに。
リビングへ出ると、ひまちゃんが俺を見て、一瞬だけ眩しそうに目を細めた。
その反応が、俺の心を真っ二つに切り裂く。
嬉しい。ひまちゃんが俺を見てくれた。
苦しい。ひまちゃんが見ているのは、俺じゃない。
彼女が俺の腰を引き寄せ、耳元に鼻を寄せる。
「……いい匂い。あいつと同じ香水の匂い……。落ち着く」
彼女の腕の中で、俺は呼吸を止める。
嫉妬が、ドロドロとした黒い泥のように胃の底に溜まっていく。
俺はあいつの影を演じることでしか、この人に抱きしめてもらえない。
あいつになりたい。あいつになって、彼女の記憶をすべて塗りつぶしたい。
でも、なればなるほど、俺という中身は空っぽになっていく。
「なぁ、……愛してるよ」
俺が言った言葉は、あいつの口癖だった。
ひまちゃんは満足げに微笑み、俺の唇を塞ぐ。
俺は、自分を殺した刃で、今日も彼女を愛し続ける。
死者のドレスを纏い、いつか自分という名前さえ忘れてしまうその日まで。