晩年の先輩は、酷く衰えて見えた。月光に映し出された彼の横顔は、ほとんど骸骨のようで、私は川鍋暁斎の絵を思い浮かべた。彼を知る人物は少なく、彼の最期は私も詳しいことは知らない。気が狂ったという話を彼の同級生から聞いたが、それもほとんど眉唾であった。彼がした話のように、何処までが本当だったか分からない。右手で左手の指を一つずつ撫でていくのが、彼が話をするときの癖だった。私はそれが、まじないのように思えた。
「僕は昔、姑獲鳥を見たことがある」先輩はそういうと、煙草に火をつけた。その頃の夏は大変に暑く、余計に夜風の心地よさを感じた。だから今でも、夏の夜風を感じると、先輩のその話を思い出す。
先輩は、大学からほど近くにあるマンションに下宿していた。近くに大変きれいな桜が植えてあり、私は先輩に出会う前から、その辺りによく出かけて、桜を眺めたりなどしていた。先輩の下宿はひどくオンボロであったが、部屋の窓辺は鼻先に桜を眺めることができる場所であった。しかし先輩は、私の知る限り、一度たりともその窓を開けなかった。だからその晩、姑獲鳥の話をする先輩の背中に見えた、全開に開かれた窓と、夏の夜の葉桜と、遠くで聴こえる出囃子の音が、今でも鮮明に記憶に残っている。その時私は、窓が別の世と繋がっているような錯覚を覚えた。
先輩はさまざまな話をしてくれた。彼はひどく出不精で、本の虫であったため、四畳半の部屋の壁の殆どが本棚で一杯だった。唯一本棚のない壁に、その窓はあった。文机に向い書き物をする彼は、日光が嫌いでよくカーテンをかけていた。当時まで、私は姑獲鳥というものをほとんど知らなかった。なんでも話によると、子を亡くし死んだ産婦が化けたと言われる、所謂怪異や妖怪の類であるらしい。夜間に飛ぶその半人半鳥の妖怪は、生まれたての赤子のような鳴き声で鳴くらしい。他人の子供を奪って自分の子とする習性があり、子供や夜干しされた子供の着物を発見すると血で印をつける。ゾクリとする恐ろしさと、言葉にできない悲しさを感じた。
ただ、先輩はあの夏の夜。姑獲鳥を天使であるかのように語った。
彼はひょっとしたら、姑獲鳥に連れ去られたのかも知れない。話を思い出しなが、そんなことを思った。暗闇の中で先輩の隣に佇む、首を傾げる半人半鳥の怪物を思い浮かべ、寒気がした。馬鹿馬鹿しくなって2本目のタバコに火をつける。
大学に入ったばかりの私には、東京の街で行き当たる一切が物珍しく見えたためでもあるだろう、先輩にまつわることはそのつ一つが琥珀へ封じられたような甘い色を帯びて、記憶の中にある。記憶の彼は今でも、本でできた四畳半の独房の中で、ひたすらに書き物をしていた。
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