テラーノベル
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赤い光が、世界を包んでいた。
音が遠い。
時間がゆっくりになる。
伊波ライは、ただ小柳ロウを見ていた。
最後の瞬間まで。
彼の顔を。
彼の声を。
彼が自分を見てくれていた時間を。
全部、覚えていたかった。
「……ロウ」
名前を呼ぶ。
返事はない。
当然だ。
もうすぐ。
この人の中から。
自分はいなくなる。
不思議だった。
今まで。
何度も忘れられてきた。
村の人に。
旅人に。
助けた相手に。
ありがとうと言った人に。
次の日には知らない顔をされた。
そのたびに。
悲しくて。
寂しくて。
でも。
「仕方ない」
そう言い聞かせてきた。
だって林檎売りはそういうものだから。
誰かを救うために。
自分を削るものだから。
そう思っていた。
でも。
小柳だけは違った。
初めて会った日。
彼は言った。
『名前くらいは覚えておく』
たったそれだけの言葉。
なのに伊波には。
何よりも大切だった。
覚えている。
森の中で歩いたこと。
どうでもいい話をしたこと。
焚火を囲んで笑ったこと。
怒られたこと。
心配されたこと。
全部。
全部。
「……ずるいよ」
伊波は小さく呟いた。
「ロウは」
「最後まで、俺を一人にしないんだ」
欲しくなかった。
でも。
欲しかった。
小柳の瞳から。
少しずつ光が消えていく。
その目に映る伊波が。
知らない誰かになっていく。
「……誰」
その言葉を聞いた瞬間。
胸が裂けるように痛んだ。
分かっていた。
覚悟していた。
それでも。
やっぱり。
苦しかった。
「そっか」
伊波は笑った。
いつものように。
明るく。
元気に。
何でもないみたいに。
「成功したんだ」
本当は。
言いたいことがあった。
たくさん。
たくさんあった。
ありがとう。
ごめん。
忘れないで。
行かないで。
もっと一緒にいたかった。
でもどれも言えなかった。
だって小柳は。
自分を救うために。
自分を忘れたのだから。
その選択を否定したくなかった。
「ロウ」
最後に名前を呼ぶ。
もう届かない声。
「俺ね」
「ずっと怖かった」
小柳は反応しない。
それでも続ける。
「誰の記憶にも残らないこと」
「俺がいたって証拠がなくなること」
「本当は」
「ずっと怖かった」
床にぱたりと涙が落ちた。
「でも」
「ロウが覚えていてくれた時間があったから」
「俺は」
「ちゃんとここにいたって思えた」
小柳の表情は変わらない。
もう思い出せない。
それでも。
伊波は笑った。
「ありがとう」
「俺を見つけてくれて」
その瞬間。
小柳の手が少し動いた。
伊波の指先に触れる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
「……」
何か言おうとした。
でも言葉にはならなかった。
やがて光が消える。
呪いは終わった。
林檎売りの役目も終わった。
伊波ライは消えなかった。
もう誰かのために消える必要はない。
自由になった。
なのに胸の奥にはぽっかり穴が空いていた。
何度出会っても、初めましてを繰り返していたあの頃。
それでも。
あの日。
自分を覚えてくれた人がいたことを。忘れない。
赤い林檎は。
今日も誰かの手の中で輝いている。
消えた記憶の代わりに。
消えない想いを残して。
コメント
1件
番外編、拝読しました。小柳に忘れられていく瞬間の伊波の心情が、一つひとつの言葉に乗っていて、胸がぎゅっとなりました。特に「ずるいよ」のあとに「一人にしないんだ」と続くところ、あの矛盾した感情がすごくリアルで…。最後に小柳の指が動く描写、あれで全部が報われた気がしました。消えゆく記憶の中で、確かに存在した時間を慈しむ伊波の強さが、とても綺麗でした。
742
夢汰🌩️

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