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馴染みの不動産屋に入ると、すでに話は通してあったらしく、営業課長の中曽根は、紫雨の前にいくつもファイルを並べた。
「ご予算に合うものだと、ここら辺が妥当かと思いますけどね」
言いながら並んだ“情報”に、林は目を丸くした。
「―――紫雨さん?」
「なんだよ」
紫雨がその情報に目を通しながら言う。
「土地探しって言いましたよね?」
「言ったっけ」
それでも紫雨は林を見もせずに情報をチェックしている。
「これって―――」
林は紫雨を見上げた。
「マンションの不動産情報じゃないですか!」
言うと紫雨はその中の二つと選び出し、テーブルの上を滑らせながら中曽根に渡した。
「これとこれ。内覧希望」
「了解です。あ、でもちょっと待ってくださいね」
言いながら傍らにあるパソコンのキーを打ち出した。
「……ちょっと、紫雨さん!」
声を潜めて尚も言う。
「仕事中ですよ!」
「――勘違いすんなよ」
紫雨が林を睨む。
「客の仮住まい先を探して何が悪い」
「―――」
仮住まい?
なるほど、確かにそれなら―――。
「いやいやいやいや!騙されませんよ!仮住まいに月12万もする賃貸マンション借りる人がいるわけないでしょうが!それに仮住まい先の内覧を営業がするなんてアホな話、聞いたことないですよ!」
「ピーピーピーピー、うっせぇな」
紫雨はこちらを睨みながら耳を塞ぐそぶりをした。
「……休みの日でいいでしょう!仕事中にこんなことしてたら――」
それこそ秋山に怒られてしまう…!
「だって、俺、今週も休みとれそうにないんだもん」
言うと紫雨は唇を尖らせた。
「だからって……」
「だってお前、さっさと家決めないと、“やっぱり一緒に住むの辞めましたー!”とか言い出しそうな雰囲気あったし」
視線を逸らしながらボソボソと言葉を続ける。
(―――あ)
『毎日毎日、会社でも家でもあなたがそばにいたんじゃ、一人で考えることも悩むこともできないって言ってんです!』
『ど、同棲もちょっと考えたいっていうか…』
自分の言葉を思い出す。
(不安にさせたのは……俺じゃないか……)
「あー、紫雨さん、すみません」
ディスプレイから顔を上げた中曽根が頭を掻いた。
「こちらの塩原の方の物件はフリーなんですが、もう一つの大窪町の方は、今日1件内覧が入ってまして、お勧めできるかはそれ次第ということになります」
紫雨が情報を覗き込む。
「大窪町の方が勝手はいいんだけどなー」
紫雨がそれを掴みながら、椅子に凭れ掛かる。
「内覧って今日の何時から?」
「あ、えっと」
言いながら中曽根が他のスタッフを振り返る。
「おい、木村。内覧何時からだ?」
木村と呼ばれた若いスタッフが顔を上げる。
「そろそろいらっしゃる頃だと思いますけど」
紫雨は小さく頷くと立ち上がった。
「じゃその結果出たら教えて。もしその客が断ったら俺が内覧―――」
「断る気はないけどね」
突如響いた低い声に、紫雨が猫のように俊敏に振り返る。
「―――久しぶり、子猫ちゃん」
フワッと煙草の香りが鼻を掠めた。
林も一呼吸遅れて振り返ると、そこには短髪の見知らぬ男が立っていた。
「なんでお前がここにいんだよ…!」
背後から聞こえた声に林が驚いて振り返ると、いつの間にか紫雨はすっぽりと林の後ろに隠れていた。
ただならぬ怯えように、林は改めて男を見た。
もしかして―――。
紫雨は男をとっかえひっかえ遊んでいた時期があった。
その中には、もしかしたら岩瀬レベルとはいかなくても、たちの悪い輩も混ざっていたかもしれない。
(―――もしかして、この男も?)
「あー、正式に辞令が下りたんで」
男は紫雨の反応を楽しむように、林の脇から覗き込んだ。
「辞令だと?」
「そう。俺、4月から天賀谷展示場に異動になったんですよ」
「はあ?バカか!新谷に振られたからって来んなアホ!」
紫雨が叫ぶ。
辞令。
天賀谷展示場。
新谷に振られた―――?
「あ」
思い出した。
ビジネスショートの茶色い髪の毛、気の強そうなきつそうな目に、咬筋の発達した鋭い顎のライン。
篠崎が画像で送ってきた、紫雨とキスをしていた男だ。
(この人が――牧村――?)
新谷や紫雨から聞いていた印象では、もっと大柄で強面なのかと思っていたが、意外にもスマートで、身長は紫雨より少し高い林と同じくらいだ。
日焼けをしているのか、それともともと色素が濃いのか、健康的な肌色に、グレーのスーツが嫌味なほど似合っている。
清潔感のある襟元、センスのいいネクタイとは裏腹に、猫背で、両手をだらしなくスラックスのズボンに突っ込んでいるその姿は、まるでオシャレで今風のチンピラのようだった。
「そう。俺、フラれちゃったんですよ」
牧村は前に林がいるのにも関わらず、まっすぐに紫雨を見ながら言った。
「そうだよ。ざまーみろ。この間男が!」
牧村は紫雨の脇を抜けると、
「じゃあ、紫雨さんが慰めてくれる?」
紫雨に出されていた緑茶を勝手に飲んだ。
「あ、お前、何飲んで―――」
文句を言うとした紫雨の口を手で塞ぎながら、カウンターの中に向かって声をかける。
「じゃあ木村さん、内覧お願いしまーす」
「あはい、車回してきます!」
木村が立ち上がり、職員出入口から外に消えた。
そこでやっと手を放し、牧村は紫雨ではなく林を見つめた。
「――それで?こちらは?セゾンの後輩?いやー。顔面の偏差値高いねーセゾンさんは」
「お前に関係ないだろ!」
噛みついた紫雨に変わり、林が事務的に頭を下げる。
「セゾンエスペースの林です。よろしくお願いします」
「…………」
彼は林と紫雨を交互に何度か見比べた。
「―――ああ。これが例のノンケ君ね?」
言いながらふっと鼻で笑う。
「―――」
明らかに馬鹿にした態度に林の内臓が凍り付く。
「君が彼氏くんかぁ。なんか意外だな」
牧村は尚もこちらを覗き込んできた。
「なんだよ、意外って」
紫雨がやっと林の背後から出てきて牧村に詰め寄る。
「いやー、こんな暴れん坊の子猫ちゃんを扱える奴だから、大人しい大型犬みたいなオトナの男を想像してたんだけど」
牧村がプププと口を押える。
「なんか、子犬が子猫を飼ってるみたいで可愛いっすね」
「なんだと?」
紫雨がいよいよ前に出る。
「子犬と子猫が必死になってお互いにマーキングしまくってるみたいな。俺のだぞ!僕のだぞ!!って。二人ともマーキングしすぎて小便臭いのにも気づかないでさー」
牧村は楽しそうに笑いながら反り返った。
(――なんだ、こいつ)
林は素性もよく知らない男のことを初めてムカつくと思った。
(―――俺、この人嫌いかも)
「牧村さん、準備できました」
木村が顔を覗かせる。
「けっ。早く行っちまえ!中曽根さぁーん、ゴキブリに飲まれたからお茶取り替えてくれなーい?」
紫雨が叫び、中曽根をはじめ不動産屋のスタッフが苦笑している。
とその襟首を、牧村の長い指が掴んだ。
「―――ぐェッ」
紫雨が振り返ると、牧村はニヤニヤと笑いながら言った。
「何言ってんすか。あんたらも来るんだよ」