「家でお前の甥っ子が待ってるぞ
天気の良い日に退院できてよかったな」
兄が自分のレクサスを運転しながら
微笑んでいる
私は退院ししばらく
兄の家に世話になることになった
私に何も聞いてこない兄は
たぶん弘美さんから
色々指示を受けているのだろう
もっとも色々聞かれても
今の自分の状態では上手く俊哉との事を
説明出来なかった
当の本人がどうしてこんなことに
なってしまったのかさっぱりわからないのだから
櫻崎家が所有している高層ビルは
市内に少し離れた大きなターミナル駅
中心部にあるガラス貼りのテナントビルで
兄の住む高層階には数千万は下らない
コンドミニアム型の4LDKのマンションが並び
どれも所有者は関西を代表とする
大金持ちばかりだった
そして低層階にはオフィスや店舗
2階にはすぐ横の大型ショッピングモールに
つながる通路があり
暮らすにはとても便利だが
今の私には都会過ぎてとても騒々しかった
このビルに来たことは以前にもあったのだが
兄の住む家に入れてもらうのは初めてだった
エレベーターで6階に上がり
コンシェルジュのカウンターの前を通ると
高層階住人専用のエレベーターに
乗り換えて最上階まで行く
無重力のようなエレベーターを降りると
すぐに重厚な玄関が目の前にあった
兄がドアを開けるとピンクのTシャツを着て
髪をポニーテールにした
弘美さんが出迎えてくれた
途端に私は後ろめたくなった
どこにも非の打ち所がない
すばらしい義理の姉・・・・
櫻崎家の長男を生んでくれて
父と母とも上手くやっている姉・・・
結婚して夫にこれ以上ないほど愛されて
子供も産み
なおかつ仕事も順調な姉・・・・
彼女はまさしく私の理想だった
私はものすごく惨めな気持ちになり
できるなら引き返したかった・・・
でもどこへも行く所がなかった
なんとなく中へ入りずらくて
豪華な玄関で立ち尽くしていた
「あ・・・・あの・・・・
急に押しかけてきて・・・
ごめんなさ・・・ 」
義姉の腕がそっと体に回ってきたので
私は言葉を失った
「ああっ!
やっとあなたが私の家に来てくれた
もう随分前からずっと待ってたのよ 」
彼女は柔らかくベビーパウダーの匂いがした
咄嗟に私は身を引こうとしたけど
彼女が放してくれなかった
こんな風に大人の女性に抱きしめられたのは
母でも子供の頃依頼だった
急に喉が閉められ呼吸が苦しくなる
もう私は泣きたくないのに
涙が後から後からこぼれだした
彼女も私を抱きしめながら辛かったねと泣いた
この感覚を私は必要としていたのかもしれない
この人は決して私を妙な色眼鏡で見たりしない
どこまでも大切な家族として私を
迎え入れてくれるんだ・・・・
私は独りぼっちじゃない
俊哉に長年家族の厄介者と言われてきたけど
そうじゃない
兄も義姉も私の事をこんなに
大切に思ってくれてたんだ
そう思ったら本当に心が軽くなった
しばらく二人は泣きながら熱い抱擁をといて
兄が私に言った
「甥っ子に会ってやってくれ
今は寝てるからそ~っとな 」
玄関すぐ横の真っ白なドアを開けると
そこは子供用の寝室だった
真っ白な王様のようなベビーべッドに
8か月になる男の子の赤ちゃんが眠っていた 」
「はじめまちてぇ~・・・
陽翔(はると)君でちゅよぉ~ 」
兄が小声で私の右横で言った
思わず赤ちゃん言葉を使っている兄が
おかしくて私は噴き出した
「シ~・・ハル君が起きちゃうわ・・・ 」
やっぱり笑いながら義姉も私の左横で言った
しばらく3人で寝ている赤ん坊を息をつめて
見つめる
このままずっとこうして
一日中でも見つめていられそうだ
なんて・・・・
かわいいの・・・・・
8か月になる私の甥はまるまると太っていて
水色の足まで隠れるロンパースを着ていた
まだ歯の生えそろっていない口を大きく開けて
寝ているさまが本当にかわいらしかった
また涙があふれた
この世にこんな穢れのない生き物がいるなんて
「またモヒカン刈りになっているぞ」
兄がニコニコしながら言った
「あなたに似て
髪が多いから仕方がないのよ
起きたら髪にそっと水をつけて逆毛を
ベビーブラシで梳いてあげるとハンサムになるわ」
弘美さんも笑いながら言った
できれば抱っこしたかったけど
まだコルセットを巻いているので仕方なく
私は彼の手をちょんちょんと
つつくだけで我慢した
スタイリッシュな家具が置かれた
だだっ広いリビングに3人は移動して
私と兄はソファーに移動した
弘美さんはコーヒーを淹れに
キッチンへ向かった
向かいに座った兄が私に言った
「アイツと離婚しろよ!」
厳しい顔で兄に言われた途端
さっきまで赤ちゃんを見つめていた幸せな
気持ちからいきなり現実を突き付けられた
え?・・・離婚・・・・?俊哉と?
私はパニックになった
そんなこと考えたこともなかった
途端に兄が声を荒げて言った
「お前!
まさかアイツの所に戻るつもりなのか?
鏡で自分の姿を見ただろう!
冗談じゃないぞっ!」
男性の大声に途端に体がビクンと反応する
急に血の気が引き心臓がドキドキし出す
「拓哉・・・・
そんな急に鈴ちゃんを
せかすような言い方・・・」
弘美さんがコーヒーと医者に言われた
午後に飲む処方箋を持ってきてくれた
ちょっと待ってよ・・・・
別れる決心さえついてないのに?
離婚?・・・
「あのどうしようもないろくでなしの
所に戻るというのか?
今度戻ったらお前は
今の怪我どころじゃすまないぞ!」
どうなんだろう?
私は戻りたいのかな?
私は?
私は離婚したいの?
こんな重大な事私一人で決めていいの?
もし失敗したら・・・・
途端に呼吸が苦しくなる
そして手がこわばりいつものように
ガタガタ体が震え出した
「おい!鈴子!」
「拓哉!っやめて」
今度は弘美さんが声を荒げた
「夕べも言ったでしょう?
これもプロセスの一つなんだから
今鈴ちゃんは退院してきたばっかりなんだから・・」
ガタガタ震える私を見て
兄がフッと怒りを静めた
そして少し間を置いて
なるべく優しい声で言った
「・・・・悪かったな・・・
僕たちはつい話の途中をすっとばして
一気にかたをつけたいと思ってしまう・・・ 」
「そうね・・・ごめんね鈴ちゃん 」
いつも偉そうにしている兄に一言で
態度を変えさせる弘美さんに私は驚いた
「安心していいのよ
弁護士という仕事上私は
あなたのような人を沢山見てきたの
あなたが本当の意味で
この問題を乗り越えるためには
ちゃんと手順を踏まないといけないわ・・・
これからはすべて私に任せて
どうしたいかゆっくり考えて 」
兄はまだ険しい顔をしていたが
反論はしなかった
そしてこの件は私のいない所で
ずいぶん二人で話し合ったのだろう
二人は目を見合わせて無言で会話をしていた
「さてっ・・・と!」
兄が膝をパシンッと叩いて立ち上がった
それを咄嗟にビクンっ私の体が反応した
そんな小さな仕草にも
ビクビクしてしまう自分が嫌だった
それを見て兄がまた顔をしかめた
「僕は仕事に行ってくるよ」
部屋に戻り着替えて出てきた兄に弘美さんが
キスをし玄関まで見送りをする
私はその間ソファーにじっと座り
初めて突き付けられた離婚という言葉を
頭の中で何度も反芻して考えていた
部屋だけは沢山あるから退院してきたばかりの
体を休めてと弘美さんが
客用のベットルームへ案内してくれた
用意してくれていたシルクのパジャマに
着替えた後、彼女は子供を寝かしつけるように
私をベッドに寝かせて上掛けをかけてくれた
そこは落ち着いたグレーと
ベージュで統一された清潔な部屋だった
「ぐっすり眠ってね」
と彼女はささやいた
私はぼうっとして軽いめまいを感じながら
マットに吸い込まれていくようだった
張り詰めていた気持ちが緊張を解いた
遠くで赤ちゃんが泣く声が聞こえた
でもすぐにやんだ
お皿やフライパンがカチャカチャなる音・・・
洗濯機の回る音・・・・
自分以外の人が家にいる音・・・
そういう生活の音が私を癒してくれた
どことなく懐かしい音
いつしかまた私は深い眠りに落ちて行った
大切なことを考えなきゃいけないのに・・・・
どんな辛い事でも
自分で決めなきゃいけないのに・・・・
もう頭は回らなかった
兄の家に来てから穏やかな数日が過ぎた
今は甥っ子のハルをベビーカーに入れ
弘美さんと私は私たちの住む高層ビルに
隣接している大型ショッピングモールで
遅めのランチをとっていた
吹き抜けが気持ち良い弘美さんがよくハル君と
ランチをするという
3階のビストロレストランは
アジアンチックなラタンとアイアンフレームの
お洒落な家具が並び、壁にはカラフルな
抽象画が掛けられているお店だった
広めの通路を弘美さんはマザーズバッグと
両肩に沢山の紙袋を抱え
私はハルのベビーカーを押してその後に続いた
真っ白のソファー席に腰かけ弘美さんが言った
「ふぅ~!これで大体はあなたの
身の回りの物は揃ったかしら
部屋着が3パターンと
外出着が4パターンでしょ?
それにあなたのシャンプーと化粧品と・・・
あ~・・・やっぱりあのパンプス買うべきよ!
とっても似合ってたもの! 」
私は涼しい店内に入ったからハルの帽子を取ってやった
ベビーカーのかごからお茶が入った
哺乳瓶を取り出しハルにあたえる
「こんなに買ってもらわなくてもよかったのに・・・
本当に着替えなんて数枚でいいのよ
それにあんな高い化粧品は・・・・」
弘美がメニューを見ながら憤慨して言った
「あなたは着のみ着のままで財布も持たず
逃げ出してきたんですものまだ足りないわ」
私は申し訳なく思って本当の事を
うつむいて親指をいじいじしながら
言いにくい事を言った
「その・・・・
逃げ出してきたわけじゃないの・・・
正確に言うと・・・・
家から放りだされたのよ・・・
多分きっとあの人私がずっと玄関の外で待ってると
思っていたんじゃないかしら・・
また家に入れてもらえるまで
彼なりの・・・・
躾っていうか・・・ 」
グラスの水を飲む弘美さんの手が止まった
彼女がこれほどショックを受けた
顔を見るのは初めてだった
でもすぐに彼女は冷静になった
「あなたの背骨を折って
さんざん痛めつけた後に
下着も履かさずに外に放りだすことを
彼は躾と思っているって事ね?
今までそんなことしょっちゅうあったの? 」
状況を頭にインプットするように彼女は言った
途端に恥入る気持ちが体を駆け巡る
躾なんてものは物事を分かっていない
幼い子供にするものだ
夫に躾けられて暴力を振るわれていた
なんて事を誰かに話したら
軽蔑されるに違いない
しかし義理の姉は他人の事を批判したり
干渉したりするような人ではなかった
聞き上手で鋭いユーモアのセンスを持っていた
彼女といると心が落ち着いた
誰かに会えなくなったり
頼れなくなったりしても
それを埋め合わせるように
人生にはその時々の自分にふさわしい人が
現れてくれるものだ
「お願い兄さんには言わないで・・・
もし兄さんが俊哉の所に
怒鳴り込んでいったら・・・」
「それは大丈夫よ、彼は分別が利く人間よ
私たちの望み通りの結果が出るまでは
そんな無謀な事はしないわ・・・
だから信じて
あなたを助けるためには私達は
どんな困難な事でも必ずやりとげるわ 」
ウェイターが水を持って注文を取りに来た
私たちはそこで一旦話を中断した
ウェイターが去って
再び二人っきりになった時に私は口を開いた
「二人に迷惑をかけてしまって・・・・
本当に申し訳ないわ・・・
貴方たちは全然関係ない事なのに・・・」
「何を言ってるの!
私達!家族じゃないの!
関係ない事なんかないじゃない 」
「こんな・・・厄介者の家族なんて・・」
私はハルの足をコチョコチョしながら言った
ハルはキャッキャッと笑ってくれた
弘美さんは驚いて目を見開いた
「まぁ!そんな事を思っていたの?
拓哉はあなたの身の安全を確保してやりたい
一心であんなキツイ言い方になってしまうけど・・・
心の底からあなたを大切に思って心配しているのよ
でもどういう風に物事を進めるかは
あなたが自身が決めることよ 」
私はその言葉に勇気をもらって
結婚してから今までの事を話すことに決めた
:*゚..:。:.
.:*゚:.。
「逃げ出した夜・・・
初めて彼に殺されると思ったの・・・」
ランチを食べ終えた私たちはブラブラと二人で
ショッピングモールの中を散歩した
私の言葉に沈黙が流れ石畳みの歩道を
ベビーカーの車輪がガタガタ揺れる音だけが響いた
吹き抜けで木陰の多いショッピングモールは
平日の昼間の午後は人が少なく
木陰の下の休憩ベンチには学生カップルが多くいた
私たちは雑貨屋やブティック、レストランや
美容院の前を通り過ぎて行った
「その選択は間違いないわ」
義姉がそう言うとハイブランドの子供用品店の
ドアを大きく開けた
私はベビーカーを押して中に入った
ひんやりとした冷房に包まれ
心地よさに深呼吸した
おなかいっぱいになったハルは
ベビーカーの中でスヤスヤ眠っている
「ディオールが
哺乳瓶を出す意味って考えたことある?」
クスクス私は笑った
「間違いなく赤ちゃんは気にしないわね」
彼女も辛らつに言った
子供用品店の子供服の値段を見て
めまいを覚えた
一か月分の俊哉と私の食費に値する服もあった
子供のファッションというのはその気になれば
信じられないぐらいお金をかけられるもの
なのだと思った
さらに義姉は言った
「人は自然と自分の方に原因があると
考えることで他人に危害を加えられることに
自己防衛から来る正当性を持つのよ
だって・・・・
理由もないのに突然気分で虐待されたり危害を
加えられると思うととても恐ろしいでしょ?」
私は綺麗な陳列棚に並べられている
色んな形の哺乳瓶を一つずつ手に取りながら
また戻し話を続けた
「自分がどんな目にあっているのか・・・・
誰にも知られたくなかったの・・・
なんて言うか・・・
恥ずかしくて・・・・・
夫に殴られているなんて・・・・ 」
義姉は悲し気にいった
「てっきりあなたは幸せなんだと思っていたわ
私達は決してあなたを忘れていたわけでは
なかったけど
あなたから連絡が来ることをただ・・・・
ずっと待っていたの」
:*゚..:。:.
.:*゚:.。
家に帰って来てからはもう
話しはじめたら止まらなかった
「俊哉ってとにかく
私を支配したがるのよね・・・・
それに彼の気分に合わせて
欲求がコロコロ変わるの
それはとても些細な事なんだけど・・・ 」
「たとえば?」
弘美さんがハルをベビーバスに浮かべ
体を優しく洗っている
ハルは終始ご機嫌でニコニコしている
「例えば・・・朝和風ハンバーグが
食べたいって行って出て行くでしょ?
それで作って待ってると
帰って来て和風ハンバーグを見て
本当はカレーが食べたかったとか・・・」
「相当な気分屋ね」
私はバスタオルを広げ
ビショビショのハルを受け取った
「それに・・・・
私の家庭環境をいつも引き合いに出して来て
君はこういう家庭に育ったからこうだって
あまりにも決めつけてしまうものだから
本当にそうなのかな?って
思ってしまうの・・・」
「いわゆる刷り込みね
でもそういう特徴のある人は
本来は頭の回転が速くて気が利く人なのよ
でもその分析基準が妬みや嫉みなので
歪んでいる傾向があるの 」
私は目を見開いて彼女を見た
「そう!そうなの!
付き合った最初はそれはそれは
彼はよく気が付いてくれて
すごいなと思ったものよ
あんな風に優しく甘やかされるのは
とても気分がよくて・・・」
「でも結婚した途端違ったんでしょ?」
「どうしてわかるの?」
私はハッとしてハルの
ベビーパウダーを落としそうになった
「そしてあなたは彼が突然態度を変えたのは
(たしかに自分が悪いのかも)とか
(私さえ我慢すれば・・)
と思ってしまうのよね 」
彼女は慣れた手つきでハルに服を着せ
さ湯を与えながら淡々と続けた
「DVを受ける女性の特徴は一貫しているの
それは・・・我慢強い人よ
その男性を愛する気持ちや恐怖心が優先して
攻撃的な人から受けるハラスメントを
我慢する傾向が強いのよ」
私は散らかしたバスタオルや
お風呂グッズをかたずけながら言った
「そう・・・・・
それなら私が我慢することで
俊哉の我儘を助長させていたわけね・・・
とんだ大馬鹿ものね・・・私は 」
「貴方は決して馬鹿ではないと思うわ
そんな風に自分を思うのは今後いっさい
やめると約束して頂戴 」
義姉が真面目な口調で言った
彼女に対する感謝の気持ちと愛情が
湧き上がってきた
心のどこかにあったかもしれない
今まで小さな彼女に対する妬みや
嫉妬は今この瞬間にまっさらに消え去った
:*゚..:。:.
.:*゚:.。
「拓哉は今夜は遅くなるらしいわよ
私も今夜は楽しちゃおうかな
もう少し飲む? 」
弘美さんが色の綺麗な赤ワインを
冷蔵庫から出して来て微笑んだ
温かい快適なリビングで
フカフカのファーの絨毯を敷き詰めた
ラグの上に
小さなモビールの人形をつるしてある
ベビーサークルの下にハルを入れてやった
さっぱりした彼は頬をピンク色に染め
キラキラした目で必死に足と手で
モビールをいじっている
小さな何やら彼しかわからない言葉を
ゴニョゴニョしゃべっている
寝るには少し早い時間帯だったけど
私達はお互いパジャマ姿でくつろいでいた
「ずっと思っていたの・・・・
私にもっと男性経験があったなら・・・
そうしたら俊哉のあの行動が
おかしいのか普通なのかわかるでしょう?
私には見比べられるほどの男性スキルが
まったくなかったのよ 」
私はワイングラスを軽く回して匂いを飛ばし
中身をぐいっと飲み干した
心地よい酸味が口の中から喉に滑り下りて行く
「男性経験が豊富ならそれでいいってわけじゃ
ないとは思うわ
一緒に暮らしながら良い方に
成長していけなかったってことが問題なのよ」
「成長ね・・・・」
ハルはいつしかタオル地のぬいぐるみを
握りしめてフカフカの
ラグの上で寝てしまった
弘美さんは寝室からベビー布団を持ってきて
ハルに掛け、私には体が埋もれるほどの
ビーズクッションを渡してくれた
私はそのクッションを背中にあてがって
ハルの横に心地よく寝そべった
「俊哉はいつも自分が
一番上でないといけないの
自分の欠点や過ちを認める事なんて
まずないし・・・・
変わらなきゃいけないのはずっと私の方で
どんなに謝ってもゆるしてくれなかったわ」
空になったグラスに弘美さんが
ワインをついでくれる
「ずっと思ってたんだけど
彼は本当には私の事を
愛してくれていなかったんじゃないかと・・・
私が世間知らずの小娘だからいいように
自分が操りやすい女だと思っていたの
かもしれない」
「そんなことないと思うわ
たぶん・・・彼も彼なりにあなたの事を
好きだったと思うわ
ただ・・・
虐待したり人をいじめたりする人の傾向性って
パーソナリティ障害を持っていたりするのよ」
「パーソナリティ・・・障害?」
初めて聞く言葉だったラグの上にトレーごと
持ってきた三角にカットされた
色んな種類のチーズを一つつまみ
さらに弘美さんが続ける
「人間は成長していく中で「十人十色」と
いわれるような様々な個性を
獲得しながら発達を続けていくんだけど
たとえば、陽気・几帳面・怒りっぽい・神経質・
飽きっぽいなど・・・
性格を表す言葉は数え上げればキリがないわよね
でも誰もが様々な性格をもっている中で
中にはその一部分が極端に偏ったようになり
社会生活を送る上で自分も他人も
苦しませてしまうようになる人がいるのよ
こうした人々のことを精神医学の分野では
「パーソナリティ・ディスオーダー」と呼んで
日本では・・・
まぁ一種の
「人格障害」と呼ばれるようになっているわ」
「一種の・・・・障害って・・・・
いうものなの?」
私は空のグラスをテーブルに置いた
「ええ・・・・なかでも気分のムラが激しくて
物事の良し悪しを極端に決めつけたり
強いイライラの下で暴力的になってしまったり」
「それ、俊哉そのものよ」
弘美さんは私をみて頷き、さらに続けた
「そして・・・・
そんな人って・・・・
都合よく自分の要求を満たしてくれるような
人を見つけるのがとても上手いのよ
例えば暴力的な人は同じように
暴力的な人を嫌って
大人しくて自分の言いなりになる人を
傍に置きたがるって言うか・・・・
ドラマとかでもよくあるじゃない
親分とヘタレな子分の関係とか・・・」
「あら!素敵!
私はさしずめ俊哉のヘタレ子分って所ね」
私は皮肉ってみせた
「そうじゃないでしょう」
彼女が真剣な面持ちで言った
「貴方は純粋で、素直で愛情深いだけよ!
それは今まであなたの周りに善人しかいなくて
すばらしい環境ですくすくと純粋に
育ったってきたから
俊哉のよう常軌を逸したふるまいに対抗する
用意が出来ていなかっただけよ」
「やっぱり世間知らずってことよね・・・」
私は気を落として言った
「これから知ればいいじゃない 」
弘美さんは手足をだらんと投げ出して寝ている
ハルの方へと寄って行った
「実は私も偉そうに言えないのよね
拓哉と付き合う前はとても女癖の悪い
人と婚約までしていたわ 」
「本当?信じられないわ」
彼女は微笑んで言った
「こればっかりは法律や教科書など
参考になるものはなくてね・・・
あの時ほど無力感や屈辱を味わったことないわ
でも友人の助けやカウンセリングなどを
受けて人をより良く知るようになったの
あなたもうちの事務所の心理カウンセリング
を受けるといいわよ」
「そうね・・・・・ 」
私もハルの方に体を寄せた
三人でハルを挟んで川の字になって
リビングに寝っ転がるのはとても気分がよかった
「赤ちゃんって・・・α波でてるわよね」
「本当に」
俊哉のあの横暴さはどんなに彼を愛しても
どんなに彼の言う事を聞いて努力しても
治ることはないと思っていたけど
障害だと聞かされるとなぜかスッキリした
ハルの頭に鼻をこすりつけると
ミルクとベビーシャンプーの良い香りがした
こんなに純粋無垢で
天使のような赤ちゃん・・・
他人を信用しきって自分の体を投げ出している・・
もしも俊哉だったら
こんなか弱い生き物をどうするだろう・・・・
応えはハッキリしていた
私はもう二度と誰かに
怒鳴られたり、殴られたり
自分に危害を加えられたりしたくない
一方が力にものを言わせ
一方がただ従うだけの関係なんて愛と呼べるはずがない
「実は・・・・・
あんまり時間がないのよね・・・・」
弘美さんが大きな肌掛け布団を持ってきて
そっとハルと私に掛けてくれた
そして真剣な面持ちで言う
「時間って?」
私は眠たげに聞いた
本当にハルを見ていると睡魔に襲われる
「実は私達はあなたが彼の家から逃げ出してから
彼の行動をずっと調査していたんだけど
この数週間あなたの実家にずっと
無言電話がかかっているの」
私は冷やりと血の気が引いていくのを感じた
きっと私が逃げ出したことは彼の想定外
だったはず
「それで?」
聞きたくはなかったけど
もう向き合う時期だった
私は彼女の言葉の続きを待った
「そして3日前にあの男から
あなたの捜索願いが出ているのよ
彼は善良な夫の仮面をかぶってあなたは何か
事件に巻き込まれてしまったと
警察の前でポロポロ涙を流したそうよ
悲劇の主人公になりきっていたみたいだわ」
さらに弘美さんが言った
「私は病院であなたの姿を一目見た時から
あなたを守るために最大の準備はして
きたわ・・・・
でも・・・・・
決めて戦うのはあなたよ鈴ちゃん」
ハルを挟んで握りしめられた手は
とても温かく・・・・
これほど心強い手はなかった
今まさに・・・・・
大切だと思っていた俊哉への愛が
波に打たれて崩れかけていた砂の城のように
最後の波にさらわれて・・・・
綺麗に跡形もなく消え失せた
私は一滴涙を流してこう言った
「離婚するわ・・・・・」
:*゚..:。:.
.:*゚:.。
心理カウンセリングにかかるのは
生まれて初めてだった
私の想像では無機質な部屋に昔の理容店みたいな
真っ黒なレザーの寝椅子に寝かされ
白衣を着た教授みたいな専門家に
カルテ片手に私のおかしい所を
色々つつき回されるのかと思っていた
でも義姉の紹介でやってきたのは
まるで美容サロンのような
ビルの一室だった
通された診察室Aには天井まで一面の
水槽が壁に埋め込まれていた
水色の水槽に照らされて自分の顔も水色になる
その中を優雅に美しい熱帯魚が泳いでいる
「わぁ・・・・すごい・・・」
まるで海の中に潜っているような錯覚を覚えた
私はあまりの迫力の水槽に思わず
手をついて見入っていた
「この水槽はお気に召しました?」
柔らかい声に振り向くと
そこにはとても美しい女性が立っていた
「え・・・・と・・・ 」
サーモンピンクのタートルニットに
オフホワイトのパンツ姿
茶色のセミロングのストレートの髪の
ほっそりとした女性が立っていた
瞳は優しそうな少しタレ目で
キラキラしていた
「はじめまして
櫻崎鈴子さんですね?
私は離婚カウンセラーの羽野上奈々です 」
私はなんだかあっけにとられたような気持ちで
しばらくこのカウンセラーらしくない人を眺めていた
「あ・・・・よ・・よろしくおねがいします
えっと・・・先生・・・」
私はしどろもどろになって言った
「ふふ カウンセラーらしくない?
ちょっと驚いているようね? 」
「す・・・すいません」
「こんなでもあなたよりずっと年上なのよ
どうぞ座ってリラックスして、魚は好き? 」
「・・・・食べるのは好きです・・・ 」
私は圧倒される水槽をみて言った
奈々さんは笑った
「あなたって面白いのね
患者さんにリラックスしてもらえるように
設置しているのよ 」
「義姉から聞きました・・・・
あの・・・弁護士さんだったんですよね」
奈々さんが花柄のトレーに
紅茶を持ってきてくれて言った
「ええ・・・
今でも弁護士と兼用でこのカウンセリングを
しているわ
初めはクライアントの法的な離婚処理を
ずっとやっていたんだけど
でも法的な手続きなどは誰でもできるけど
本当は離婚で傷ついた人のメンタルケアの方が
よっぽど大事なのではないかと思ったの」
奈々さんは私の瞳を見つめて言った
私はそんな彼女に今までの俊哉との
結婚生活の悩みを打ち明けた
彼女は聡明でとても賢く私が感じた事や
体験したことを拙い言葉で話しても
それを少し聞いただけで宇宙の謎を
解き明かすかのように見事に解説してくれた
そして義姉も言っていたように
俊哉はDVやモラハラ夫の典型的なパターンで
「自己愛型のパーソナリティー人格障害」
だということがハッキリした
この人達の特徴は支配欲が強く
傲慢で自分にしか興味がなく
そして相手をコントロールするために
激しい怒りを武器にする
そして他人と自分の境界線が薄く
相手を取り込んでがんじがらめにしてしまう
その障害にあてはまる
家庭生活の具体例40項目を書かれた
ファイルを渡された
私がチェック項目をつけていくと
ほぼ当てはまっていたのには本当に驚いた
まるで過去二年私たちの夫婦生活をそのまま
描写しているかのようだった
しかし
精神異常者と人格障害はまったく違うと
奈々さんは主張した
なぜなら自己愛型人格障害者は自分の感情は
時と場合によってはきちんとコントロールできるからだ
例えば自分の本性がバレてしまうと不利な立場の人間、職場の上司や親などに対しては上手に猫をかぶり
決して職場では上司などに暴力を振るったりはしない
それは自分にとって不利益な行為だとキチンと理解していて
職場では善良で評判の良い人間が家に帰ると
妻やペットなど自分より立場の低い者に
暴力を振るったりするのだ
そして彼らはそれに罪悪感を感じない
自分に都合の良い言い訳をし
自己を正当化する
他者の痛みなど彼らにとっては何の意味もない
「つまり俊哉は頭がおかしいわけじゃなくて
危険型のナルシストだというわけですね?」
私は温かい紅茶を一口飲んで奈々さんに尋ねた
どうして俊哉がああいった行動を起こすのが
心から腑に落ちたら
なんだか彼に対する恐怖心がなくなっていった
奈々さんが私をまっすぐ見つめて言った
「基本的にはそうなるわね
まぁ・・・
これに幼少時期の家庭環境なども重なって
さらに複雑にパターン化はできるけど
でもどんな家庭に育だとうとその人格を
築いてきたのは本人の責任だわ
彼らはただ他者への思いやりに欠け
人を操ろうとする傾向が強いのよ 」
私はずっと思っていたことを聞いた
「そういう性格って・・・・・
今から治そうと思えば治るものかしら・・・」
奈々さんは首を振った
「残念ながらね・・・・
治っていたらこの国に刑務所はいらないわ
もちろん何かのきっかけで治ることも
あるかもしれないけど・・・・
基本的に反省が出来ないのよ
自分が悪いと思えないので変わる必要がないの」
「一番最初に彼に殴られた時・・・・
少しも悪びれない彼を見て
腹が立つ気持ちと・・・
彼を許してあげたい気持ちとで・・・
心が引き裂かれたかのようでした・・・・」
私は泣きながら奈々さんに訴えた
こんなこと友達にも・・・親にも・・・
ましてや義理の義姉にも誰にも言えなかった
きっと呆れられると思っていた
しかし奈々さんは言った
虐待を受けた被害者にも
典型的な障害パターンがあるらしく
今の私のように大半が加害者を許して立ち直らせてやる責任が自分にあると思っていて
虐待と許しの無限ループの中に陥って
しまっている事もあると言う
「許さなくていい」
と奈々さんにハッキリ言われてみるみる目に
涙がたまった
ハラハラ流れる涙は私が変われる証拠なのだと
彼女は言った
「一緒に治していきましょう、鈴子さん
あなたの人生は始まったばかりなのよ」
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