静寂が支配する深夜の喫茶 桜。
その居住スペースは、明かりを落とされ
まるで時間が止まったかのように
静まり返っていた。
わずかに揺れるのは、紫煙の尾だけだった。
ソーレンの唇から離れた煙草の先が
またひとつ、灰皿へと押し付けられる。
灰は既に溢れ
何本目かも分からない吸殻たちが
無秩序に重なっていた。
「⋯⋯チッ⋯⋯吸い過ぎだな⋯⋯」
そう小さく舌打ちを零したが
その声は誰に向けるでもなく
空気へと溶けていく。
隣には
目を閉じたままの青龍が静かに座っていた。
幼子の姿でありながら
その気配はやはり──龍のそれだった。
瞼の奥に
どれほどの思考が巡っているのかは
読み取れないが
背筋は微動だにせずピンと伸び
穏やかな呼吸だけが生の証を示している。
二人の前にあるのは、一つのベッド。
その中には
泣き疲れたライエルが静かに眠っていた。
眉間には微かな皺。
呼吸は落ち着いているものの
その胸の奥では
まだ波立つものが眠っているようだった。
⸻
ライエルの精神の奥。
意識の底は
どこまでも湖面のように広がる
静かな水面で満たされていた。
そこには、風一つなく
ただ音も光も濁らない世界があった。
その果てない水面の中央に
彼は膝を抱えて座り込んでいた。
白い足首までのローブ。
濡れていないはずなのに
身体は冷えきっていた。
その視線の先──
足元に広がる水面には
波紋が静かに揺れながら
記憶の断片を映し出していた。
映っているのは──アラインの過去。
まだ幼い、ひとりの少年。
背には、深く刻まれた爪痕のような傷。
不死鳥に刻まれたそれは
生まれた直後から
〝神の怒りを受けた子〟と呼ばれ
誰にも抱かれず、誰にも名を呼ばれず
冷たい布にくるまれ孤児院に捨てられた。
誰かの腕に抱かれることも
温かな声で呼ばれることも知らないまま
彼は愛を知らず
他者の温もりを
暴力としてしか認識できなくなっていた。
記憶の中の少年は
次第に異能に目覚めていく。
そして
他者の記憶を読み取り、歪め
支配する術を手にした。
それは、彼にとって唯一の
〝生き残る術〟だった。
やがて、水面の色が濃くなる。
映し出されるのは、炎に包まれた夜。
──不死鳥の炎に焼かれ
記憶の魔女ライエルが命を落とした夜。
その瞬間を
アラインは何度も何度も夢に見てきた。
焼かれる度
胸に浮かぶのは一つの影だった。
黄金の髪、深紅の瞳──
絶望を映したまま
自らに劫火を向けてきた、アリアの姿。
けれど。
「⋯⋯違う⋯違うんだよ、アライン⋯⋯」
ライエルは首を振りながら
震える手で水面に触れようとした。
水面は指先に触れた瞬間
小さな波紋を描き、滲むように揺れた。
「私は⋯⋯
アリア様を⋯恨んだ事なんて⋯なかった⋯⋯
死の間際には⋯⋯確かに、絶望を感じた。
でも⋯⋯でも、私が
最期にお伝えしようと思っていた言葉は──」
言葉の続きを掴む前に
背後に気配を感じた。
ふと振り返ると、そこには──
一枚の巨大な鏡が立っていた。
水面と同じように揺らぐその鏡は
何かを映しているようでありながら
奥には深く果てない闇が広がっていた。
そして
闇の奥から、滲むように声が響く。
「ねぇ⋯⋯
ボクの記憶は、そんなに面白いかい?」
冷たく、けれどどこか愉しげな声音。
それは、鏡の奥から、確かに聞こえてきた。
そして、鏡面に浮かび上がったのは
ライエルと同じ顔をした
けれど、瞳だけが異様に濁った──
アラインの姿だった。
その唇に浮かぶのは
例のあの、嗤うような笑み。
彼の目の奥には
どこまでも深い虚無が──
静かに渦を巻いていた。
「いいえ⋯⋯あなたの記憶は⋯⋯
見ていて、とても悲しいです」
静かな水の世界に
ライエルの声が柔らかく響いた。
湖面に漂う空気すら
彼の言葉に涙の温度を宿したようだった。
鏡の奥で嗤うアラインの顔を見つめながら
ライエルは唇を震わせる。
その目に浮かぶのは、恐れではない。
怒りでもない。
ただ──深い、深い悲しみだった。
「ごめんなさい⋯⋯
あなたが
こんな人生を歩む羽目になったのは
私が⋯⋯弱かったから。
アリア様を⋯⋯
お護りできなかったからだ⋯⋯っ」
その言葉に
鏡の中のアラインが片眉を上げる。
「へぇ?
強かったら、護れていたら
どうだったって言うの?」
乾いた嗤いとともに投げかけられた問い。
だが、ライエルの目は揺るがなかった。
「少なくとも⋯⋯
アライン
あなたの人生は違っていたでしょう」
言葉には確信があった。
それは後悔の中に灯る
たった一つの信念だった。
「記憶の異能が
こんな⋯⋯歪んだ形で継承されることは
無かったはずです」
アラインは鼻で笑った。
その笑みには、侮蔑も、嘲りも
悟りすらあった。
「ふーん?
少なくともボクは
この力で満足してるんだけどねぇ?」
鏡面の奥で
彼は口元を吊り上げながら囁いた。
だが、その瞳の奥に浮かぶものは
どこか──空虚だった。
その時、ライエルが立ち上がる。
長いローブの裾が水面を撫でる音すら
静寂に溶けた。
鏡に向かって、ゆっくりと
一歩、また一歩と歩を進める。
水のように揺れる鏡面に手を伸ばし──
アラインの顔に触れる。
水面のようなその表面に手が触れた瞬間
波紋がじんわりと広がった。
「あなたは⋯⋯
未だに愛を知らぬ、子供のままなだけです」
指先がアラインの頬をなぞる。
その声は、決して責めるものではなかった。
ただ、彼を〝知っている〟者としての
優しさと痛みを含んだ訴えだった。
「アライン⋯⋯
私が
アリア様にお伝えしたかった言葉は──」
そこまで言いかけて
ライエルの瞳が、淡く輝いた。
そして、その奥にあった最期の記憶が
湖面のような鏡に浮かび上がる。
かつて、全身を炎に包まれ
命が尽きようとしていたその瞬間。
彼が、アリアに向かって口を開いた
あの瞬間──
鏡の中のアラインは、何も言わなかった。
その笑みは消え
まるで見透かすように
ライエルを見返していた。
表情は読めない。
瞳も深すぎて、底が見えない。
ただ──黙っていた。
その沈黙が
どんな言葉よりも重く、深く
張り詰めていた。
そして
フッと鏡の闇に、その姿が溶けていく。
湖面の記憶の中
ライエルの腕はアリアに伸ばされ
必死で叫んでいるが⋯⋯
その言葉は届かぬまま
彼の命は燃え尽きた。
だが、その願いは今も魂に刻まれている。
「私は⋯⋯知っていた」
ライエルの声が、わずかに震えた。
「不死鳥が教会の人間を唆して
魔女狩りを行ったことを⋯⋯
悪いのは、全て⋯⋯
生まれ直しを拒んだ不死鳥なのです!」
感情が激しさを帯びる。
その声は
もう
アラインの姿を写していない鏡面を震わせ
波紋がさざ波のように広がっていく。
「だから、記憶が継承されないように
今世のあなたを不死鳥は呪ったんだ!
アリア様は、悪くないんだ!
だから!だから⋯⋯
もう、アリア様を傷つけないで⋯⋯」
涙が、再びライエルの頬を伝い落ちた。
「お願いです、アライン⋯⋯
私にはもう、記憶の異能は⋯⋯無い。
でも、それでも──
不死鳥を討ち取るために
どうか、力を貸してください!」
ライエルは鏡の水面を必死に
呼び掛けるように
懇願するように叩く。
だが──
その懇願は、鏡を揺らし、空気を震わせ
静かな湖面の水面を
切り裂いていくだけ⋯⋯
鏡は変わらず
闇を揺蕩わせているだけだった。
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