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神作家だぁ...!
天井は低く、壁沿いには古びた配管が入り組み、水の流れる音がどこからか微かに響いている。
「……妙な気分になるな、ここ」
ゾロがぽつりと呟く。
その声に、サンジがちらりと横目を向ける。
問い返すわけでもなく、ただ「どういう意味だ」とでも言いたげに、視線を送る。
ゾロはそれを受け取る前に、少しだけ目をそらした。
「そうだな」
サンジは口元でふっと笑いながら応じる。
「元々、そういう“雰囲気”を売りにしてた場所だったんじゃねェのか?」
視界の隅に、色褪せたポスターが映る。
水に濡れ、端がめくれ上がった紙の中には、「縁結び」「幸運の潮流」などの文句がかすかに読み取れた。
賑わいの面影が、壁の一部に、まだ残っている。 けれど、その空間にはもう誰もいなかった。
残されているのは、使い古された構造と、
かつて“誰か”がここで確かに過ごした時間の痕跡だけ。
一歩、また一歩と進むごとに、
その“残されたもの”に触れてしまいそうな感覚があった。
空間は次第に開け、天井の一部がガラス張りになっている場所に出る。
外の海がすぐそこにあるのか、青い光がゆらゆらと差し込んでいた。
サンジが足を止める。
見上げたガラスの天井は、まるで水面の裏側のように揺れていた。
「……変だよな」
「ん?」
「水族館って、魚がいねェと、こんなにも空っぽに見えるもんなんだなって」
言いながら、サンジはポケットに手を入れた。そこには煙草があったが、火はつけなかった。 青い光の中では、煙を吐くことさえ、ためらわれた。
ゾロは何も言わず、ただ少し遅れて隣に立った。 見上げる先、わずかにひび割れたガラスの向こう。波の気配だけが、ぼんやりと感じられる。
「……でも、空っぽでも、なんか……残ってんな」
ゾロのその一言に、サンジは小さく頷いた。
誰かが、何かをここに残そうとしていた。
けれどそれは、名前のつかない、ただの“気配”のようなものだった。
そして、ふたりの手のひら。
そこに伝わる体温と、じんわりにじむ手汗の感覚だけが、たしかに“今”を感じさせていた。
どちらが先に繋いだのかも、もうわからない。 ただ、離さない理由だけは、きっとお互いに知っていた。
「……ったく」
サンジがふいに笑った。
その笑みは、いつもの皮肉めいたそれではなく、どこか困ったような、それでいて優しいものだった。
「こんなとこで手ぇ繋いでたら、そりゃ妙な気分にもなるだろ」
軽口だった。いつも通りのサンジらしい言葉選び。 けれど、その手をほどこうとした瞬間——
ゾロの指が、わずかに、けれど確かに力を込めた。
「……別に、いいだろ。誰もいねェんだし」
その声は低く、まるで空気に溶けるようだった。
サンジの足がふと止まる。
瞳がわずかに見開かれ、それから、ゆっくりと細められる。 もし煙草を咥えていたら、きっと、煙が小さく震えていたはずだ。
「……お前」
その先をどう続けるつもりだったのか。
サンジが発した声は、天井からぽとりと落ちる水音にかき消された。
「……あ、クラゲ」
「クラゲ?」
「ほら、天井。見てみろ」
ゾロの指差す先、ガラス張りの天井の向こうに、ふわりと漂う光の塊。
月明かりを反射して、クラゲが一匹、静かに流れていく。
「……まだ、いるんだな」
「外の海と繋がってんだろ。取り残されたのか、ありゃ」
ふたりの視線が、無言のままクラゲを追う。
やわらかな光のなかで、先ほどの手のぬくもりだけが、まだ、ふたりのあいだに確かに残っていた。
「じゃあ、これは」
ゾロの低く抑えた声が、胸の奥にゆっくりと落ちてくる。 そのまま、迷いのない動きで、彼の腕がサンジの身体をそっと引き寄せた。
拒む理由はなかった。
けれど、素直に受け入れられるほど、器用でもない。 サンジの身体はわずかに強張る。だが、ゾロの腕はそのまま、静かに、ほどけることなくそこにあった。
「……なんで、そんなことすんだよ」
囁くような問い。
けれど、ゾロは答えなかった。
その沈黙が、むしろすべてを語っているようで——
言葉なんていらない。
今ここに、ふたりで立っている。それだけが、ただ確かなものだった。
天井の向こうを、クラゲがゆっくりと泳いでいく。
淡い光を帯びたその姿は、まるで標本のように青いガラスの中を漂い、 まるで時間そのものが閉じ込められたように、静かだった。
青くて、儚くて、壊れそうな空間。
その中で唯一、たしかに感じられたのは、触れ合う体温だけ。
そして、サンジの指が、ゆっくりとゾロの背へと伸びていく。
まるで、夢の続きをなぞるように。
形にはならない想いを、静かに確かめるように。