南浜製作所・経理部の若手社員、相沢慎一は、いつもより早く出社した。
机の上に置かれた一枚の封筒が、朝の薄暗いオフィスでやけに白く浮かんでいる。
差出人の名前はない。
中には、社内の不正を示す数字がびっしり書き込まれた資料が入っていた。
「……架空取引?」
読み進めるほど、額面は大きくなる。
総額は三億円。仕掛けたのは、営業本部長の折川と、その直属のグループ。
うちの会社にそんな余力はない。
「相沢くん、おはよう」
背後から声をかけられ、ビクリと振り返る。
立っていたのは、経理部長の水谷だった。
「珍しいね。こんなに早く」
「え、ええ……ちょっと資料の整理がありまして」
相沢は慌てて封筒を引き出しに隠した。
しかし水谷は、その仕草をちらりと見た気配があった。
その日、社内は妙に落ち着きがなかった。
折川本部長はいつもより大きな声で部下を怒鳴りつけ、
そこら中で「例の件」が囁かれている。
相沢は昼休みに一人で屋上に上がった。
冷たい風が頬を切る。
(これ……上に持っていけば、会社は間違いなくひっくり返る)
だが告発すれば、ただでは済まない。
相沢のキャリアも、生活も、簡単に吹き飛ぶだろう。
そのときスマホが震えた。
《昼休み終わったら部長室に来てくれ 水谷》
見られていたのだろうか。
封筒の中身に気づかれたのかもしれない。
部長室の扉を開けると、水谷は書類をめくりながら言った。
「相沢くん。……君、何か抱えてるね?」
図星だった。
相沢は観念し、封筒の中身を机の上に置いた。
「き、昨日……机に置かれていたんです。差出人は分かりません」
水谷は資料に目を通し、深く息を吸った。
「やっぱりね。私も薄々気づいていたんだ」
「部長は……これをどうするつもりですか?」
「君に任せようと思う」
「えっ?」
水谷は椅子に深く座り直すと、静かに続けた。
「折川たちは私の同期だ。私が出れば、派閥争いになる。だが君なら違う。まだ誰の色にも染まっていない」
相沢の胸がざわついた。
期待と恐怖が入り混じった感情が、喉元までせり上がる。
「……でも、僕みたいな若造がやっても通りませんよ」
「通す方法がある」
水谷は机の引き出しから一枚の稟議書を取り出した。
「これにサインを集めるんだ。経理・監査・購買……六つの部署長の署名が揃えば、役員会に直接かけられる」
「そんなの、不可能じゃ……」
「簡単じゃない。だが、やる価値はある」
相沢は稟議書をじっと見つめた。
その紙一枚が、会社の運命を決めるかもしれない。
翌日から、相沢の“稟議集め”が始まった。
半ば追い返されるように拒否されることもあれば、
「君は正しい」と静かにサインしてくれる部署長もいた。
だが五つまで集まったところで、最後の壁が立ちはだかった。
品質管理部長の大串だ。
「相沢くん、君の気持ちは分かる。でもね、これは会社の恥を晒す行為だ。私は賛同できない」
「ですが、不正を見逃すほうが——」
「理屈じゃないんだよ。私は現場を守らないといけない」
大串の表情は固かった。
説得の糸口は見えない。
(ここまで来たのに……終わりか?)
帰ろうとしたそのとき、廊下で声をかけられた。
「相沢くん。少し、いいかね」
振り向くと、水谷が立っていた。
「実はね、大串には“借り”があるんだ」
「借り……?」
「十年前、彼は折川に潰されかけた。だが、ある人物が密かに助けたんだよ。名前は出さないよう念を押されたけどね」
「それって……」
水谷は小さくうなずいた。
「君の味方だ、とだけ伝えればいい」
翌朝。
相沢はもう一度、大串の部屋を訪れた。
「昨日の続きですが……僕は、あなたが守ろうとした現場も含め、
すべてを守るために動いています」
大串は無表情のままだった。
相沢は息をのみ、ひと言付け加えた。
「——十年前の恩人が、今もあなたを気にかけています」
大串の手が止まった。
沈黙ののち、彼はペンを取り、稟議書に署名した。
「……誰が言ったのかは聞かない。だが、私は私の責任を果たす」
その一筆で、稟議書は完成した。
役員会当日。
折川は不敵な笑みを浮かべていたが、
稟議書の内容が読み上げられるにつれ、その顔はみるみる青ざめていった。
一週間後、折川と関係者は処分された。
会社は緊急会見を開き、社内改革プロジェクトが立ち上がった。
相沢はというと、デスクに山積みの資料と格闘していた。
あの日と同じように、机の上に一枚の封筒が置かれている。
差出人の名前はない。
中には、短い手紙が一通だけ。
《正しいことをした》
相沢は思わず微笑んだ。
(部長……ですよね)
窓の外には、いつもと変わらない南浜の空が広がっている。
だが、その空は昨日より少しだけ澄んで見えた。
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