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「……で、でも……」
呼んでみてと言われても、ただでさえ恥ずかしいのに顔を見られながら呼ぶなんて、もっと恥ずかしい。
いつまでも呼べずにいると、
「お願いだから、由季って呼んで? 一度だけでもいいから」
杉野さんは一度だけでいいから呼んで欲しいと言ってきた。
その表情は少し寂しげで、私の為に色々してくれている彼にそんな顔をさせるのは忍びなかった事から恥ずかしさを感じながらも、
「……由季、くん」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で呼んでみた。流石に呼び捨てはハードルが高くて無理だったから、「くん付け」にしてみたのだけど、
「……やば、何か名前呼ばれただけなのに、すげぇ嬉しいんだけど」
寂しげな表情から一変して笑顔になった彼は名前を呼ばれた事を物凄く喜んでいた。
そんな彼の姿が何だか凄く可愛くて、思わずクスリと笑ってしまう。
「ようやく笑った」
「え……」
「状況が状況だから仕方無いけどさ、会うたびにいつも、心の底から笑って欲しいなって思ってた。璃々子さんは可愛いから、作り笑顔じゃない笑顔はきっと可愛いんだろうなって。やっぱり思った通り。笑うともっと可愛いよ」
「そ、そんな事……」
びっくりした。
笑顔が可愛いだなんて、そんな事、これまでの人生の中で言われた事無かった。
思えば私は、彼と会う時はいつも暗い表情だった。
笑顔を見せても、それは作り笑顔だった。
そもそも、貴哉と結婚してから私は心の底から笑う事なんて無かった。笑顔は作るものだと思っていたから、久しぶりに自然と笑えた事が嬉しかった。
嬉しいはずなのに、何故か私の瞳には熱いものが込み上げて来る。
「璃々子さん?」
名前を呼んでくれる由季くんの顔が、熱く込み上げてきたもののせいで歪んでいく。
「璃々子さん、いいんだよ我慢しないで。泣きたい時はいつでも泣いていいんだ」
そう言って由季くんの指先が私の頬に触れた時、私は自分が涙を流している事に気付いた。
「……っ、違うの、私、悲しくて泣いてるんじゃ、ないの……、嬉しくて……泣いてるの」
しかも、この涙は悲しみや苦しみの涙じゃなくて、嬉しくて流れている涙だった。
嬉しくても涙が出るなんて、初めて知った。
これまで私が流してきた涙は、悲しみや苦しみの涙だったから。
一度零れると涙は止めどなく流れていく。
拭っても拭っても、涙は止まらない。
そんな私を由季くんは、
「そっか、良かった。それじゃあこれからは、璃々子さんの瞳から悲しみの涙が流れないように、嬉しい事や楽しい事を沢山しよう。その為にも、やっぱり環境は大切な事だよ。だから、暫くはここに居て? 俺が沢山、璃々子さんの事を笑わせるから、アイツからも、俺が守るから」
私の身体を抱き締めながら、ここに居ていい事、沢山笑わせてくれる事、貴哉から守ってくれる事を約束してくれた。
何の希望も無いと思っていた、私の未来。
由季くんによって私の未来に希望の光が差し込んだ気がして、嬉しかった。
「……ありがとう、暫くの間、お世話になります」
だから私は彼の厚意を素直に受けて、暫く由季くんの住むマンションでお世話になる事を正式に決めたのだ。