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それは突然のことだった―――心の準備もなにもなく。
いつものようにお祖父さんに新聞を持っていって、声をかけた。
返事はなく、振り返ると微笑むように眠っていた。
だから、なのか。
私はその時、泣けなかった。
まるで現実味がなかったのもあるし、死んでいないと思いたかったのかもしれない。
町子さんを呼ぶと、それからは私はお祖父さんのそばには一切、寄れなくなってしまった。
たくさんの人がお祖父さんを囲んでいて、顔も見ることができなかった。
私は井垣の娘だけど、娘として認めてもらえてないから。
「寒いわねぇ」
町子さんが泣き腫らした目でそう言った。
私は小さくうなずいて、窓の外を眺めた。
私がこの家にやってきた時を思い出させるような雪が灰色の空から降っていた。
「お湯を沸かしておきますね」
雪が降り、寒い中の葬儀だったけれど、大勢の弔問客が訪れていた。
私は親族として扱ってもらえず、お茶を出したり、お客様の案内をして動き回り、忙しくしていた。
悲しむ暇もなかった。
それは町子さんも同じだったけど、町子さんは時折、思いだしたかのようにお客様がいない台所に来て泣いていた。
「大旦那様は突然すぎますよ。こんな突然に……!」
「本当にそうね」
昨晩、夕飯を食べた時も変わった様子はなかった。
いつも通りで、私が就職の内定が決まりましたと報告するととても喜んでくれた。
笑っていたのに―――
そのせいか、まだ実感がわかず、町子さんのように泣けずにいた。
梅の木が描かれた襖戸を開けると、お祖父さんがいて、私と話をするのを待ってくれているような気がしてならない。
「これからの井垣グループはどうなるかわかりませんよ」
「どうして?」
「ほとんど大旦那様が取り仕切っていたようなものですからね」
お祖父さんを惜しむ人達が大勢訪れていた。
そんな中、父に声をかける人はわずかで人望のなさが見て取れた。
「旦那様は酷すぎますよ。朱加里さんを大旦那様のそばにも寄らせず、台所にいろなんて……!」
「いいのよ。町子さん」
こうして、台所で働いている方が、気が紛れる。
じっとしていると、思い出して泣いてしまいそうになるから、ちょうどよかった。
お茶のお湯を沸かし、新しいお茶の葉を取り出した。
棚からまだ使っていない湯呑をお盆に並べ、次々やってくるお客様のために準備をする。
騒がしい弔問客がいる場所と違って台所は静かでホッとする。
愛人の子だと言われるよりは台所にいたほうがずっとマシだった。
「それにしても、大旦那様が亡くなったばかりだというのに。旦那様や奥様達は楽しそうにされて。大旦那様が亡くなったから、自由にやれると思っているんでしょうね」
自由にはやれるだろうけど、経営はどうなのだろうか。
正直、お祖父さんあっての井垣財閥だった。
父は威厳があるように見せかけているだけで、経営の方はさっぱりだという話を耳にしていた。
たびたび、お祖父さんのところに仕事関係者が相談にきて、父のやり方に不満をこぼしていた。
でも、井垣グループのこの先なんて私には関係ない。
明日にでも荷物をまとめて出ていくつもりだった。
お祖父さんがいなくなった井垣の家に私がいる理由はもうなにもないのだから。
「ゴミを捨ててくるわね」
弔問客にだしたお菓子や弁当のゴミを引きずりながら、外に出た。
ゴミを片付け終わると、ぼうっと裏庭を眺めた。
赤い実がついた南天の木に雪が積もっている。
寒さで赤い実に雪が凍り、指に触れるとパリッと音がして氷が崩れた。
南天の木の隣で、空から降ってくる雪を見上げると、頬に白い雪が触れ、溶けていった。
―――とうとう家族と思える人は誰もいなくなってしまった。
「明日にでも出ていこう」
お祖父さんのおかげで大学も無事卒業できたし、イギリスに短期留学までさせてもらえた。
就職だって内定している。
十分すぎるくらいのことをしてもらった。
もう一人で私は生きていける。
でも、私は。
「お祖父さんに恩を返せないままだった―――」
目蓋に落ちた雪が溶けて、頬をつたって水滴が落ちた。
「恩は十分すぎるくらいに返したよ」
その声に振り返ると、そこにいたのは黒い喪服を着た壱都さんだった。
「井垣会長は君が来て、きっと楽しかったと思うよ。井垣会長のあんな穏やかな顔は生きている間、見たことがなかったからね」
壱都さんは雪の中、傘もささずに立っていた。
どうして裏口に?
誰も来ないと思って油断していたせいで、泣きそうな顔をしていたのを見られたかもしれない。
「久しぶり。留学中に会って以来か」
「はい」
「メールは返してくれていたのに。冷たいな」
どんな再会を期待していたのだろうか。
「お祖父さんの代わりに季節のご挨拶をしていただけです」
壱都さんとの婚約もこれで終わり。
お祖父さんが亡くなるまでのものだったのだから。
雪のように冷たい気持ちで私は自分の気持ちに蓋をした。
期待なんかしてはいけない。
何度も私は期待して裏切られてきた。
きっと今回もそう。
「婚約者に会ったのに親の仇みたいな顔しないでほしいな」
「婚約者って……お祖父さんが亡くなったら、もう私と結婚する理由はありませんよね」
「いや。これから意味を持つ」
「どういうことですか?」
「井垣会長は君のために準備してきた」
「私のために?どうして?」
「一人残される君が心配だったからだろうね」
次の言葉が出なかった。
一人と言われ、胸が痛んだ。
そうだ。
私を心配してくれる人はもういない。
うつむいた先に雪のひとひらが地面に落ちて消えた。
「それはそうですけど……」
声が震えた。
「いいよ、泣いて」
久しぶりに会ったというのに壱都さんはその離れていた年数をまったく感じさせず、体を抱き寄せると背中を撫でてくれた。
壱都さんはこのタイミングでちょうど現れたわけじゃない。
触れたスーツは冷たかった。
壱都さんは私を心配してくれていたのだとわかった。
私にはもう誰もいないはずだったのに。
「大丈夫。君を一人にしないために帰ってきたんだよ」
優しい声が降り注ぐ。
そのせいで、今まで我慢していた涙があふれてきて泣いてしまった。
そして、こんな時なのに初めて会ったあの日、壱都さんが忘れていったハンカチをまだ捨てずに持っていることを思い出していた―――